B-part 3
「おうぉうぁ……」
五明は母音だけで構成される変な呻き声を上げた。寝ぼけ眼で周囲を見回すと、ここは煙霞荘二階一番手前の部屋の炬燵の中。
つまり、五明自身の部屋だった。
五明はひとまず安心する。
炬燵に突っ伏した無理な体勢で寝てしまったために、体中が軋んでいた。座ったままでできる範囲でストレッチをして、ぼんやり船を漕いでいたのを中止させる。
五明はべたつく脂汗をかいているのに気付いた。
厭な夢を見ていた。決まって、あのシーンで覚醒する厭な夢――最近、この夢を見る頻度が多くなってきている。
最後の場面は『環する蛇』を出るきっかけとなった情景の再現。
あの時、五明は人を殺してしまった。
それは百人中九十九人が不可抗力と判断するだろう。しかし、五明はその九十九人に含まれていなかった。自分に言い聞かせる行為は、逆に罪を自覚させた。その罪に苛まれた五明は『環する蛇』を抜け出すことを決心した。だが、それは只の逃げであることも知っている。自分の体に焼き付いた罪は、死ぬまで付き合わなければならないことも。
それからは逃げ続けた挙句、唯一の取り柄であった魔術で打算的に奇術師になる道を選んだ。
しかし、なんて皮肉なのだろう。
ロベール・ウーダン――過去に実在した、近代奇術の父とも呼ばれている人物である。奇術師は燕尾服を着ているものと定着させた彼に曰く、『マジシャンとは魔法使いを演じる職業である』。その言葉に従えば、曲がりなりにも本物の魔術師が奇術師を職業にした五明は、なんて滑稽な存在。まさに道化だ。
こうして欝っぽくなるのも厭な夢を見るのも、去年の彼女との戦いのせいだった。
激戦の末、五明は肉体も精神も魂もギリギリまで磨り減らした。こんな状況で動くに動けず、騒ぎに気付いた周辺住人に見つかりそうになったのは、かなりの冷や汗ものだった。それから倉庫街からなんとか立ち去り、家に着いた時間は早朝。軽い魔術でも、これ以上の使用は廃人か発狂は必至。とても奇術師の仕事はやれず、劇場には休まねばならない旨を告げて、その時間を回復に充てることにした。
バステトは自分の特等席が空いたので、もう取られまいと素早く炬燵の上で丸くなる。
「バステト、何でこの世界にいるんだ」
返事はあるはずもない。バステトはテレパシーで念話もできるらしいが、それで五明とコミュニケーションをとった経験はない。ただの猫のように黙するのみ。バステトは欠伸をして、すぐにまどろんでしまっていた。
五明は無駄に思えたので、汗をたっぷり吸った服を着替えるために立ち上がった。
この事件、未だに引っかかることがあった。しかし、明かされない謎は謎のままで良いんじゃないかと、頭の隅で思考を放棄していた。
面倒だという理由もある。だがそれ以上に、魔術という外法かつ左道の性質が大きい。
何故なら、魔術においてその深秘を覗く行為は、即ち自らの破滅を招く行為なのだから。
この後書きは作品内における隙間産業といわれるクトゥルフ神話の用語解説を簡単に行いたいと思います。
ネタバレの要素が含まれている可能性がありますので、ネタバレされたくない方がこの項を閲覧すると、発狂したり、自らの目を抉ったり、見えない怪物に喰われたり、精神を交換されたり、血を吸われたり、異形の双子を産まされたりすることはありませんが、バックを推奨しています。
なお、この項は作者の独自解釈が含まれている可能性がありますので、参考程度にしておいてください。これ以上の知識を求める探求者の方は、SAN値とお財布に気をつけて相応の書物をお求めください。
小説家になろう内部でも幾つか作品が投稿されておりますので、機会があればそちらにも足を伸ばしてもよいと思います。「クトゥルフ」で検索。
クトゥルフ神話に興味を持って頂けれたならば、青心社文庫の『クトゥルー』シリーズをお勧めします。
項目はほぼ登場順です。
登場しない神性、アイテム等は作者オリジナルと解釈して頂ければ。
【クトゥルフ神話】
この作品のテーマになっている神話。クトゥルー神話とも言う。ハワード・フィリップス・ラヴクラフトと彼と親交を持つ作家達による創作神話体系である。「クトゥルフ」というのはクトゥルフ神話に登場する神性の名前。案外歴史は新しく、作られてまだ百年は経っていない。もともとはコズミックホラー、宇宙的恐怖(広大な宇宙に比べれば矮小な存在である人間が、強大な力に振り回され無残な結末を迎える)を題材とした作品だったけど、日本という自由な国に渡りスーパーロボットとか萌えのような関係なさそうなジャンルにまで広がっている。
【石でできた建造物をバックに~】
樹君が読んだ本に描かれていた異形。順にルルイエに棲まうクトゥルフ、ティンダロスの猟犬、シャンタク鳥となっている。
【考古学者や探偵よりかはマシ】
はっきり言って小ネタ。考古学者はブライアン・ラムレイのタイタス・クロウ、探偵はデモンベインの大十字九郎のこと。でも探偵ってフィクション世界では応用性の高い職業だと思う。世を忍ぶ仮の姿、みたいな。
【妖蛆の秘密】
ルートヴィヒ・プリンという人物が記した書物。魔導書と言った方が通りがいい。なお、作中の「魔術妖術の類を用いる者より~」はブライアン・ラムレイ著、『妖蛆の王』より抜粋したことをここに明記しておきます。書いた後で気づいたことだが、五明がこれを閲覧していた事実は作者にとってサプライズだった。それを閲覧するエピソードを考え中。
【バステト】
猫の神様。元はエジプト神話初だが、クトゥルフ神話にも取り込まれている神性。作中の説明で十分だと思う(手抜き)。ラヴクラフトは大の猫好きだったらしい。かく言う作者も犬より猫派。
【五芒星】
旧神と呼ばれる神様のマーク。エルダーサインとも呼ばれる。旧支配者(代表例としてはクトゥルフ、ヨグ=ソトースなど)と呼ばれるまた別の神様はこれによって封印されている。作中出番がなかった。
【バルザイの偃月刀】
旧支配者を召喚するために必要なアイテム。三日月みたいな刀。武器に使うのではなく、儀式用の道具だと思う。
【外なる虚空の闇に住まいし者よ~】
『魔導書ネクロノミコン』に記されるヨグ=ソトースを召喚する呪文。ネタバレとか尺の都合で一部省略されている。なお、『魔導書ネクロノミコン』は実在の書物。抜粋しました。大型書店に行けば置いてあるかも(すごく高いけど)。でも作者の近場の図書館にはこれが置いてあり、SAN値がガリガリ削れた。また『ダニッチの怪』には別の召喚する呪文がある。
【ヨグ=ソトース】
今回の邪神様(笑)。宇と宙――つまり、時間と空間を司るクトゥルフ神話に代表される神性の一柱。求道者たる魔術師達の神様でもある。外見は概ね作中の通り。でも触手はない。異形の双子を産ませた『ダニッチの怪』が有名。
【ユールの日】
クリスマスを良しとしない童貞共が恨みの余り邪神を奉ってしまう日、ではなく、冬至の頃に行われた祭りの日。ラヴクラフトの作品『魔宴』の冒頭に記述がある。