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人は求むる余りに……  作者: スリーS
高校生と紛い物の奇術師
6/15

B-part 2

 紫陽座(しようざ)は五明が活動する主な拠点の一つである。駅から歩けば十分とかからない場所に建てられており、舞台と客席をあわせた大ホールの広さは大きな体育館もある。五明にとって、エアコンが壊れて楽屋が寒いことを除けば不満はなく、数少ない自分の力を存分に発揮できる場所だった。

「これが最後の魔術となります」

 五明はその劇場で燕尾服を身に纏い、舞台の光を浴びていた。視線を落とすと、普段であれば満員御礼であり人が隙間なく座るはずの客席は、今日に限って空席が目立っている。

 偏に客席に空きが出た理由は、多数の死者を出す惨事となった同時爆発事件が起きたせいだろう。この凄惨な事件はたちまちあらゆるメディアに報道され、人々を恐怖で震え上げさせた。警察の発表では肯定していないものの、テロという噂が流れており、それを警戒した結果だった。

 しかし、五明はこのテロ事件を引き起こした犯人が、普通の人間ではないことを知っていた。昨日の休みを全て費やし、徹夜までして倒れていた少年の素性の調査、及び血溜まりに漬けた色をした洋装の分厚い本の復元・解読作業を行い、確信に至った。

 犯人は此処とは異なる世界の住人。

 少年が持っていた本を魔術装置として使って架けられた回廊――此岸と彼岸を繋ぐ門を通って来た者。

 犯人は現在、バステトに探してもらっている。

 バステトは魔術を感知する能力に長けており、『環する蛇』で魔術探知装置として利用されてきた。五明の家にいるのは『環する蛇』から決別する際に檻から解放し、そのままついて来たからだ。しかも、この事件に深く関係している――ほとんどの能力を剥奪されて、姿を変えられてはいるが、これから接触する犯人と同じ世界の種族だ。因みに元の姿というのもあるはずだが、それを五明の前で披露されたのは一度としてない。

 バステトの助力があり、沢入埠頭ではいち早く駆けつけられたが、同時爆発事件では多すぎる情報が仇になってしまい、なかなか犯人を捕捉できずにいる。五明も手伝いたいところだったが、他に調べることがあった。

 それは、血溜まりに漬けた色をした洋装の分厚い本の出所だ。

 赤い洋装の本を仔細調べて分かったが、施された魔術術式は一流の魔術師の手によって書き上げられていた。こんなものが道端に落ちているとは思えない。おそらく誰かが赤い洋装の本を渡し、入れ知恵した人物がいる。

 さらに五明には懸念すべき事象があった。かつて五明が末席を汚した『環する蛇』のことだった。

 ただ偶然近くに居合わせただけの五明が、魔術絡みの事件を解決する義務はない。本来ならば、この役目は他ならぬ日本最大の魔術集団である『環する蛇』が担当するべき事件だろう。

 しかし、少年が魔術により事件の犯人を呼び寄せてから、既に二十四時間以上経過している。『環する蛇』がこれだけ目立つようになった事件に介入してもいい頃だが、一向にその気配がない。

 怠慢か。あるいは、こちらに手を回せない理由でもあるのか。

「御仕舞いにこの私の姿さえも消して御覧にいれましょう――」

 五明は一枚のマントを振りかざし、自分の姿を観客の視界から遮る。突然マントは支えを失って舞台に沈む頃には、五明の実体さえも消し去っていた。それは時間にして三秒にも満たない時間。客席からは無数の拍手が起こった。

 姿を消した五明はいつの間にか舞台の裏手に移動していた。

 体の疲労と睡眠不足と相当量の正気を磨り減らしていたが、まだ五明には余裕があった。これも『環する蛇』時代に行った過酷な環境に耐える訓練のせいであるが、客に疲労した顔を見せずに済んだのには一定の感謝を置いている。

 そんな奇術師紛いの魔術師に、柏木が声をかけてきた。

 次の舞台に出るのは柏木であり、舞台裏にいるのは必然だ。五明とは違い、芸をするのに特別な格好は必要ないので、普段の服装をしている。

「何だ、柏木。次はお前の番だろ?」

「……こーも客がいなきゃね、俺としてはモチベーションが低い。どうしたもんかね」

 柏木の表情は明らかに不機嫌であることを示している。彼としては、理不尽な理由で客席が埋まっていないのが不満なのだろう。

「どうしたもこうしたも、普段通りにやるだけだ。客がいないのは仕方ないだろう。近くであんなのをやらされてはな」

「テロね……やっぱ、実感が沸かないな」

 柏木とは違い、五明自身は否応なく臨場を感じていた。恐らく事件に一番近い立場にいるからだ。そして、このまま『環する蛇』が静観を決め込むならば――

「……いつまで、続くんだろうかね」

「すぐに終わるさ」

 ――いや、終わらせる。

 五明は声に出さず、本音を言った。

 自分の決意を、固めるために。

「すぐに終わるって……」

『次は――』

 柏木の言葉が遮られ、進行役の声が大ホールに響いた。

「ほら、選手交代だ。主役の義務を果たしてこい」

「ったく、分かったよ」

 五明は柏木の背中を叩いた。柏木は満更でもないような顔をして、こつこつと足音を響かせて、袖口から光の当たる場所へ出て行った。




 五明が家に帰ると、大量の紙片に覆われた部屋が迎えた。赤い洋装の本の復元・解読作業を片付けずに、家を出て来たためだ。中身を曝け出した本体は炬燵の上にあり、無様な姿を晒している。

 バステトは犯人捜索のために外に出ていたはずだが、炬燵の上で五明に見向きもせずに寛いでいた。ベッド代わりの紙片が蹂躙されている。五明はその態度に反して、バステトの意図することが分かっていた。それは既に犯人は捕捉済みであり、五明の出撃を待ちといったところだろう。

「時間切れ、か」

 ある程度予想していたことだが、『環する蛇』は間に合わなかった。何かあっただろうことは想像に難くないが、詮索している暇はない。適切な組織が機能しない以上、事件に早くから関わってきた五明が愚鈍な魔術師達の代役をしなければならなくなった。

 足の踏み場がない部屋に入り、散らかっている赤い洋装の本の紙片を一つにまとめる。元通りに本体に挟み、懐に入れた。バステトはどいて貰った時にわざとぞんざいに扱ったので、今にも噛み付きそうな警戒の啼き声を漏らしていた。

 部屋が綺麗になったところで、押入れを開ける。上段には布団が詰まっていたが、下段には五明が『環する蛇』に所属していた時の私物と、勝手に持ち出してきたガラクタが埃を被っていた。五明はそこから必要な装備を取り出した。

 まずは手袋。手の甲には五芒星が、白地を侵食するかのように黒く縫い付けてある。

 もう一つは、常時着ている深緑の外套。

 深緑の外套は断熱性、難燃性、絶縁体の素材を使用し、さらに魔術により、弾丸を跳ね除けるほど強度が増す特性を持つ。魔術的防御の術式も限定的だが張り巡らされている。六年前から五明が愛用する魔術師の鎧だが、少し重量があるのが欠点。本を納めるスペースが存在し、あるべき姿となった赤い洋装の本はそこに入っている。

 それらに加えて、少し大きめのトランク。奇術の道具が入っているのとは異なり、色は全面黒で統一されている。何が入っているのかは、外からでは分からない。

 この姿は五明が仕事に行く姿とあまり変わらないが、これが五明の魔術師として戦うスタイルである。

「案内してくれ」

 五明は各種装備の点検を終え、バステトに言った。

 外へ通じるドアを開き、バステトは先行する。それに続き、必ず帰れるであろう部屋を後にした。




 空は雲によって光煌く表情を閉ざし、闇という静寂を迎える。その中で静寂を塗りつぶさんと、赤光をはためかせながらパトカーは走っていた。

 警察は同時爆発事件の警戒のために、パトカーを巡回させているのは当然だが、それが意味を成さないことを知っている五明にとっては、障害以外の何者でもなかった。

 これで何度目だろうか、パトカーが接近するのが分かると、その都度五明は身を隠している。

 夜分遅くに、宗教屋の成り損ねのような格好をした奇妙としかいえない男が、前にいる猫に付き回っているというシュールな絵を、警察官が見逃すとは思えない。

 これが、この町をテロの危機から救おうとしている男の姿だろうか。職務質問をかけられてもなんら不思議はない、完全な不審人物だった。

 そんな猫もどきと魔術師崩れはあらゆる包囲網を掻い潜り、電車を乗り継いで結構な時間を歩き、目的地に着いた――五明がここに来るのは二度目だった。

 沢入埠頭。

 この場所で始まり、この場所で終わる。なんとも収まりがいいことか。話し合いが決裂したときにも、人的被害が最小限に抑えられるのは非常に都合が良い。

 五明の持っていたカイロは次第にその効力を失い、用を足さなくなってきた。カイロがなければ身が凍えてしまう。極度の寒がりである五明にとって、それは致命的な問題だった。トランクから予備のカイロを取り出そうとしたが、このトランクには入っていないのを途中で思い出し、代わりに舌打ちをした。

 バステトは五明の数歩前を歩いていた。人間と猫の歩幅は異なるために早足になっている。人語を解し、不思議なところも多々あるが、外見からではただの猫に見える。未だに五明はバステトが本物の猫でないかと疑ってしまう。

 けれども、今の五明の心を独占しているのはバステトを懐に入れて暖房にしたいという欲望と、それを我慢するための自制心だった。

 そのバステトは五明が目を一瞬離した隙に姿を消していた。まるで自分の役割は果たしたと言わんばかりに突然の出来事だった。

 今回の事件に手を貸してくれたのには五明も驚いていた。しかし、自分と異なる思考回路をトレースしても邪推にしかならない。彼女には彼女の事情があるのだろうし、もしも何かを企み自分を陥れるようなことがあったなら、それは猫を見る目が無かっただけのことだろう。

 五明は自分の五感プラスαを総動員して周辺を探索していく途中、不自然な影を発見した。

 影はコンテナという鉄塊の上にいた。その影も五明の姿を認識したのか、地上から何メートルも高い所から落下するが、地面に激突する寸前に減速して接地した。

 五明は現れた恐るべき物体を慄然たる思いで凝視した。

 それは服とも呼べない非常識なものを纏っており、逆三角形が分かるほどの胴の上部に二つの正視に耐えない膨らみ張り詰めた器官が付き、胴からはこの世界では尋常ならざる細い足と細い腕が伸びている。頭部に張り付くこの上無く獣的で、それでいて邪悪な魅惑を持つ貌には、狂気に似た純粋無垢な瞳が強調され、冒涜的な血の赤さを誇った唇を伴う口が嘲笑い、肉を噛み切る貪欲な鋭い歯が備わっていると思わせた。

「――つっ!」

 全身に訪れた悪寒のあまり身震いをした――五明にとって、それは名状し難き恐怖と嫌悪であり、発狂寸前に陥ってしまった。

 こんな――無いにも等しい布地が少ない薄着で、しかも防寒着を着ず、この厳寒たる師走の深夜における零度を大幅に下回った環境でへそを出している彼女に、五明は戦慄を覚えざるを得なかった。

 彼女は普通の人から見れば、際どい水着を着る外人モデルに引けを取らない体型をした、蟲惑的な美女に見えた。しかし、寒さを極端に嫌う五明にとって彼女の着ている水着にも似た布切れは、とても忌まわしく地獄めいた服装にしか思えなかった。

「あなたはだれ?」

 彼女は興味が無い気だるそうな眼差しを向け、妖艶な声で言った。

 五明は彼女とのファーストコンタクトで、かなりの正気を持っていかれてしまったが、いつまでも深淵に浸かっている暇はなかった。平静を取り戻すために深呼吸して気を落ち着かせる。万全の準備を整えて来たが、なにも最初から喧嘩腰で対応する訳ではなかった。

「……この世界の人間です」

 まず五明は彼女に元居た世界に帰るように説得し、少年が使った手法を用いて、この世界から出て行ってもらう。ここはあくまでも交渉が先であり、そのためにも丁寧な口調で下手に出ようとした時――

「つまらなかったのよ。だからここに来たの。ここなら私は自由なのよ」

 脈絡のない返答。会話が成立していない。

 彼女が何を考えているのか分からず五明は困惑するが、決め手がない以上、まだアクションを起こせない。

 五明の口元は歪み、トランクを握る手が汗ばんだ。

「ここは面白いわよ? なんたって、誰にも咎められずに遊べる。この私に退屈なんか感じさせない――あなたは私に、何をしてくれるの?」

「お帰り頂くのであれば、帰り道はこちらで用意します。戯れも程々にして、元の世界にお帰り下さい」

 五明は相手を刺激しないよう、言葉を選んで台詞を紡いだ。

「嫌よ」

「だろうな」

 先程までと打って変わって、相手に対して尊敬の気持ちなどを一切排除した言い方をし、間髪入れずに黒で統一されたトランクの封印を切った。

 トランクの中はぴんと黒い絹が張られ、そこを卵の薄膜を突き破るように、六つの物体が解き放たれた。

 フラグメントと呼ばれるそれらは青銅で作られており、常に光を鈍く反射していた。両側には文字を刻み込まれており、形状は菱形、大きさは縦が約七十センチメートル、横が四十センチメートル。五明の保有するフラグメントの総数は六つ。全て組み合わせれば、ちょうど雪の結晶を形作る。

 似ても似つかないが、これはバルザイの偃月刀の製法に倣って作られた劣化コピーだった。その全てが鋭い切っ先を向け、地面には軌跡を残し、彼女に襲いかかる。

 この一連の動作の中、五明の夜空に輝く六等級のような希望が消え、元々あった後悔の光が倍増していた。

 五明は分かっていた。

 あの赤い洋装の本は門を開き、道を繋げるだけで、何かを呼び寄せたりしない。彼女は何らかの意図を持ってこちら側に来たのだ。自らの意思でこの世界に来た彼女が、素直に帰ってくれるはずはない。

 交渉は予定調和に失敗した。失敗した場合、五明はしなければならない。

 目の前に存在する化け物を、無に帰せしめる。

「欲求不満を解消してくれるの? 心の穴を埋めてくれるの? いいわ! 私を楽しませて頂戴!」

 突然の攻撃にもかかわらず、彼女は人間では規格外の跳躍で全て回避し、彼女は一瞬でも自分の心を満たしてくれる存在に対して、笑いながら叫んだ。

 その当の本人は彼女の気持ちなど意に介さず、空になったトランクを捨てて、こそこそと積み上げられたコンテナの影に隠れた。

「外なる虚空の闇に住まいし者よ、今ひとたび大地に顕れることを、我は汝に願い奉る。時空の彼方に留まりし者よ、我が嘆願を聞き入れ給え――」

 五明は一定の調子で謳い続けながらも、懐にある赤い洋装の本の一ページを取り出し、今にも目眩を引き起こしそうな複雑な記号が描かれたそれを地面に押し付けた。

 これは準備。彼女を打ち倒す、五明の考えられる唯一にして最悪の魔術を行使するための必要な作業。

 五明は次の行動に移った。

 物影から出た五明は独特な歩法で地を駆けがなら、地面をガリガリと削るフラグメントを従え、彼女に突進する。

 彼女は奇術師を発見すると、人差し指で一線を引く。その線に沿って現れたのは、轟々と燃え盛るバスケットボール大の太陽が四つ。

 太陽を地上に召喚する方法は何も核兵器だけではない――あらゆる物理法則を超越する奇跡は、魔性さえも灰と化す太陽でさえ顕現せしめる。

()き尽け!」

 彼女の一声に、高温灼熱の矛先が五明に向かった。

 五明はあの内の一つが家にあれば暖房要らないのになぁ、と場違いなことも考えつつ、一つ目をかわす。二つ目、三つ目はその必要もなく、右後方に逸れていく。最後に五明の正面に来た光球はフラグメントで防御。フラグメントはその急激な熱によって、爆発するように破壊されてしまった。

 本来、バルザイの偃月刀は召喚儀式用の魔法円を描くための自動描画装置であり、武器としての使用は想定されていない。フラグメントも然り、強度や硬度は高くない。そんな筆記用具だけで、建築物をいとも容易く破壊するような危険な怪物を、一人で相手にしなければならない。

 五明はまるで、鉛筆で猛獣に向かっている気分だった。

 相殺の余波が皮膚をチリチリと焼きながらも、五明は目の前にできた熱い空気層を潜り抜けて彼女の目の前に迫る。残り五枚のフラグメントで彼女の動きを制しながらも放ったのは、なんの魔術も施されていない、ただの直線的な拳による攻撃。

 当然のように攻撃は彼女の鼻先を素通りする。

 だが、彼女はチャンスを見逃さなかった。待ち構えていたかのように、意趣返しの如く拳を振り下ろす。

 しかしそれは正に破壊の鉄槌だった。

 耳を劈く爆発音と地面を数センチも穿つ威力が、彼女の拳によって発揮された。筋肉で固めた屈強な人間であろうとも、まともに命中していたら間違いなく即死するだろう。

 粉々になったアスファルトと共に、生暖かい液体が五明の顔に付着した。五明は寸でのところで避けきった――体には傷も痛みもない以上、これは五明の体液ではない。

 五明は、彼女の振り下ろされた腕を見た。不意に見てしまった。

 腕は振り下ろした威力に耐えられずに、赤い花を咲かせていた。手首と肘の中間辺りから潰れて完全に形を失くし、裂けた筋繊維と骨が剥き出しになっている。それから起こった現象も、常人では信じがたかった。

 彼女の腕は血の雫が滴り落ちる時間もなく、ビデオテープを逆再生したかのように再構築、完成された腕は振り下ろされる前の元通りに戻る。

 五明は体勢を崩さず、次撃が来る前に全力で疾走。すぐさま彼女の視覚から逃れる。

「逃げないでよ。あなたは私のおもちゃなんだから!」

 彼女は笑っていた。その声には少しも苦痛の色はなく、愉悦のみがある。

 曲がりなりにも魔術師である五明から見ても出鱈目な火球精製、身体強化、痛覚遮断、高速修復。

 五明は友人だった魔術師から聞いたことがあった。

 あちら側の世界は六千五百万年前に袂を分かれた、この世界と同じ源流を持つ平行世界(パラレルワールド)。平行世界の住人は稀にこちらの世界に渡り、人間に干渉してきた。そこで行使した奇跡により、彼らは神と崇められたこともある。その後、奇跡の断片はこの世界にも伝えられ、形を変えて魔術として残った。

 つまり彼らは、もう一つの人間の可能性。

 魔術を使用するために特化された、進化体系。

 儀式、術式、呪文、詠唱、動作、仕草、意味さえ排した思考のみで魔術を為せる彼らは、魔術師の一つの完成系にして窮極形。

 その一端である彼女に、五明は立ち向かっている。天と地ほどの力の差は歴然。位階がまるで違っている。

 確かに、五明だけでは――否、位階の高い魔術師が数人がかりでも勝ち得ない相手――五明が息をしていられるのは、生存を許されているのは、彼女が玩具をすぐに壊さないように、楽しい時間が一分一秒でも続くように、強者が弱者を弄ぶ感覚で遊んでいるからだ。

 しかし、だからこそ、五明には都合が良かった。

「――ザイウェソ、うぇかと・けおそ、クスネウェー=ルロム・クセウェラトル――」

 奇妙な詩を口ずさみながら、今度は数枚まとめてページを地面に押し付ける。この一挙手一投足が魔術的な意味を含み、ジョーカーを切るための布石となる。

 五明は熱く激しい戦場のこの場を、舞台と看做していた。何の策もない愚かな人間を演じ、たった一人だけの観客を魅せ続ける――これは人を欺き楽しませる者である、奇術師の領分に他ならないからだ。

 故に、ここは彼女のためだけの舞台、五明は彼女のための出演者。魔術師は仮面を被り、奇術師となっている。

 彼女は何もない空間に太陽の五億分の一ミニチュアサイズを再び創造し、その光は彼女自身の笑顔を照らし出していた。

 それは楽しくて愉しくて仕様がないという笑顔だった。




 地面のあちこちが抉れており、高熱で嘗め融けていた。

 彼女は前方十メートルにいる五明の苦しんでいる姿を見ていた。何回か――或いは何十回かの攻防を繰り広げたにも関わらず、彼女は未だに疲れている様子もなく、平然と魔術を湯水の様に行使し続けている。

 逆に五明の体力や精神力に少しの余裕もなかった。呼吸も儘ならなくなってきている。それでも、何かの拍子に激しく咳き込んでもなお、五明は謳い続けている。

「動けないなら、私から行くわ。もうちょっと楽しませてよ」

 五明の足に攻撃を回避するだけの力は残っていなかった。

 その無邪気な悪意を剥き出しにした言葉に反応して、五明はフラグメントを呼び寄せる。外套の強度も最大。腕は十字に交差し、精一杯の防御体制を敷く。更に少しでも衝撃を和らげるために、後ろへ跳躍する。

 彼女は台詞を言い終わった直後、魔術で強化した筋力で十メートルもの距離を短縮する。盾にできたフラグメントは三枚とも撃ち砕かれ、拳は五明に接触した。

 瞬間、視界が反転し、五明は重力から解き放たれる感覚を経験した。

 五明の体が吹き飛ばされて無様に地面を転がり、何かに衝突してやっとその動きを止めた。次に絶息して体を引き裂かれるような痛みに支配される。口には鉄の味、攻撃が直接当たった左腕は骨が折れているのを理解する。激しく体を打ち付け、強烈な痛みで悶えるが、意識が飛ばなかったのは不幸中の幸い。

 だが、彼女の猛攻は終わらなかった。

 五明の視界に巨大な物体が入る。

 目一杯の贖罪と、有らん限りの断罪を与える鉄塊が、彼女の奇跡によって上空に浮いている。

 その正体はコンテナ――今、五明が背にしているそれと同じもの。

「まだ生きているの? 頑張ったのね。ご褒美をあげましょう」

 鉄塊が落下する――実際はかなりのスピードが出ているのだろうが、巨大すぎる物体は動きを緩慢に見えさせる。

 ここに至り、五明には心臓を締め付けられる精神的な圧迫感を受けていた。

 喉元に刃物を突きつけられ、皮膚が薄く切られて血が滲むような。

 絞首台の待つ十三階段を、ゆっくりとした足取りで昇るような。

 明らかな死の実感。

 彼女はここで五明の確実に息の根を止めるつもりだろうか――いや、未だに遊びの延長だろう。でなければ、こんな大雑把な攻撃を仕掛けてくるとは考えにくい。こういった趣向も、一方的な戦いを楽しむための演出――彼女にとって、これは児戯に等しい。

 五明は足に動けと命じるが、疲労困憊の体が素直に従うはずもない。やっと我侭な自分の体に言い聞かせて動かすが、その足取りは覚束ない。

 しかし非常識は、無慈悲にも墜ちる。

 聴覚が一瞬麻痺する怒号のような爆音が起こった。膨大な体積に押し出された空気により埃混じりの突風が吹きつけ、地震かと誤認しかねないほどに大地が踊る。

 彼女はテレビ番組でも視聴するかのように、一部始終を見ていた。画面は次第に落ち着きを取り戻すも、砂嵐はまだ一帯を覆っている。それも海風によって徐々に取り払われつつある時――彼女は鮮明でないものの、人影を発見した。

「……ゾクゾクしちゃう」

 折れず曲がらず諦めず、こんなにも呪いのように立ち上がる彼を。

 全力を出していないとは言え、かくも強大な力に立ち向かう彼を。

 彼女は五明に酷く感嘆するが故に、同時にある感情が芽生えていた。

 その感情とは恐怖。自覚するには余りにも小さいが、彼女を突き動かすには十分な量が、彼女の心の中に生まれつつあった。

 彼女はガラスの壁面を微かに湿らす程度の恐怖に駆られ、今度はこの手で彼に止めを刺さんがために一歩で距離という概念を破壊し尽くす。その勢いを乗せ、壊れかけの玩具の影に必滅の一撃を繰り出した。

 人影をしていたものは尽く彼女によってバラバラに粉砕される――だが、砕け散ったのは五明の肉体ではなく鈍色に輝くフラグメント。五明はそれに、不完全ながらも人の形を投影させ、身代わりにしていた。

 彼女は仕掛けられた罠に混乱する以上に、歓喜していた。こんなガラクタを囮にして、五明は次に一体どんな無意味な策を講じてくるのかと。これ以上にどんなに私を楽しませてくれるのかと。自身を悦びの絶頂に導かせる狂喜を待ち望んでいた。

 彼女の甘い吐息によって喚起された暴風が砂煙をすっかり攫い、隠れていた五明は壁に凭れる無様な姿を彼女に晒してしまう。表情には苦悶が満ち、意図せずに彼女の強大さの体現者となっていた。

「く……、かはッ」

 肺が酸素を欲しているのにも拘らず、五明の全身に渡る激痛がそれを許さない。

 五明は見遣った――彼女は相変わらず、嬉しそうで邪悪な笑顔で出迎えていた。

「これで終わり? まだあるんでしょ、ニンゲンさん!」

 五明は彼女の声が段々とスローで聞こえていくような気がした。死に直面した脳が、現実逃避のために時間感覚を延長させている。その中で、俺は何故こんなことをやっているのだろう、と五明大輔は自問した。

 何もしなければ被害が大きくなるのも、十分に理解していた。何も知らない一般人が無知なままに命を落すのも、知っていない訳がなかった。ただそれ以上に、自分が殺されてしまう危険を予想していた。

 しかし、人に害を為す悪を倒したいという正義感も、魔術を知る人間がやらなければならないという義務感も、死ぬかもしれないリスクには勝てない。自分は魔術が使えるだけの人間。英雄でもないし、ましてや勇者パーティに所属している魔法使いでさえないのだ。

 正直、命が惜しい。

 全部無責任に放り出して、家に帰りたくなってしまう自分がいる。痛覚をカットして無理やり体を人形のように扱えば、逃げられるかもしれないという考えが頭をよぎる。しかし、自分はそうしなかった。

 何故、五明は関わったりしたのだろうか。

 ついに自問に自答は出なかった。それでも再三言葉にしてきた自分なりの解釈を述べるならば、魂の囁き。

 体は意思に関係なく勝手に動いていたのだ。

 全く五明に利益がなくとも、自らトラブルに首を突っ込む。ほっとけば勝手に解決するのに、わざわざ手を出す。それで後悔してしまうのは、五明にとって一種のお約束。

 そんな衝動に動かされる自分に、五明は嫌気が差していた。

 時間が間延びしたのは一秒だった。一秒は一秒。時計の秒針は元通り正確に刻み始めた。五明は感覚が戻ったのと同時に、最後のひと踏ん張りとばかりに壁から離れて、何の助けも借りずに直立した。

 いくら自己嫌悪しても、事態が好転するわけでもない。

 相手は強敵、状態は最悪。目の前の危険は依然存在し、五明の生命を脅かしている。それでもなお、五明の目は未だに光は失われていなかった。

 魂をすり減らしながらも、精神を狂気に染めながらも、満身創痍の体を携えながらも、それでも彼は立ち上がった。

 ――さて、観客からの催促だ。もっと刺激を欲している。更なる興奮を必要としている。応えるのが道理だろう。

 盤をひっくり返すための魔術は、彼女に気付かれないよう用意周到に張り巡らされていた。

 ほとんどの術式は、復元した赤い洋装の本で代用した。復元できなかった部分、変更が必要だったパーツ、欠けていた要素はフラグメントにより地上に複雑な魔法円を描き、五明自身が魔術装置となって呼吸、歩法、呪文に魔術的な意味を絡ませた。

 あとは引き金を引くだけ。

 五明はこの魔術を完成させるために、擦れた声で最後の一小節句を謳う。

 この一言によって、封印の壁は崩れ去る。

 五明が今呼び出すのは、本物の神性――邪神の一柱。

 一にして全、全にして一なるもの。

 彼方のもの。

 戸口に潜むもの。

 門にして鍵。

 混沌の媒介。

 宇と宙を司る、どこからも外れた場所の存在。

 そして絶対的な戦力差を覆す、チート・コード。

 これが五明の用意した最善最悪の切り札。


「――顕れ給え、ヨグ=ソトースよ。顕れ出で給え――!」


 それの名は――ヨグ=ソトース。

 赤い洋装の本の正体は、時間と空間を超越するヨグ=ソトースの門を利用した次元移動魔術装置の一種。彼女が大人しく従ってくれれば、五明はそのまま装置として利用しただろう。だが、五明が行ったのは半ばこじ付けのような使用方法。

 彼女にもたらされたのは待ち望んだ狂喜ではなく、狂気そのもの。

 限りなく邪悪にして醜悪な、原初の生命より古くに深淵へと幽閉された禁忌的存在。

 彼女の足元から、原油を思わせるドス黒さを兼ね備えた、虹色に輝く原形質状の粘液が噴出する。それは不浄極まりない汚濁じみた極彩色の表皮を持った球体の集積物を形作り、分裂と結合を繰り返しながら体積を増大させていく。

 次々と弾け割れた小球体の中から、多くの体節が連なる捕食器官らしき触手を有り得ない角度より這い出させ、彼女の左腕を肩から根こそぎ貪り喰った。

 彼女の体にそれが触れた瞬間、皮膚に激しい炎症が起こっているのが分かった。食い千切られた後の切断面とも言うべき肩口には、赤黒い組織と骨が露出していたが、乾燥状態に陥っており血液は一滴も流れ出てない。

「ぁぁぁぁぁぁあああああああああAAAAAaaaa!」

 痛覚が遮断されているはずの彼女の脳に、名状しがたい激痛が襲う。これは神経繊維を伝わる電気信号ではなく、存在そのものに直接訴えかける痛み。声帯で表現できる限界を超えた悲鳴を聞くには十分過ぎる刺激だった。

 再生が行われない肩口を押さえつつ、嘆き似た叫びを上げながらも、距離を取るために後ろに跳躍する。彼女の表情は見て分かるほどの恐怖に染まっていた。

 本能的に理解したのだろう。それが、千変万化する色の非生物的な球形集合体が、自身に死をもたらす絶対的な存在だと。

 今度は明らかな恐怖に操られ、彼女はそれを睨み付けて攻撃の意思を放った。出現したのは火球一ダース分。サイズは五明に使用したものの二倍以上。火球は容赦なくそれを襲い、焦熱地獄を発現させる。

 これが手加減のない彼女の本来の力だった。五明クラスの魔術師を殺すには戦力が飽和している。この威力の炎ならば、確かに魔性を灰に帰せしめることも可能だろう。

 しかし、魔性を消し炭にする程度の小火では、それには無意味。

 それは地獄の業火の中から、捕食器官を急速に伸ばし始めた。彼女の太陽の炎を受けてもなお、何事もなかったかのように、ぶくぶくと泡立ち膨れ上がりながら存在し続けている。空中にいる彼女の両の足に捕食器官を絡ませ、地に堕とした。

 彼女の体に、髪に、顔に土が付き、病的でさえある美しいキャンバスを穢す。捕食器官は彼女の尋常ならざる細い足を蝕み侵しながらも堅く離さずに、それは踊り食いでもするつもりだろうか、本体の元まで引き摺ろうとする。

 正常な思考力を欠いて恐慌状態に陥った彼女は、更に一ダースの無駄な攻撃を仕掛ける――不毛だった。周辺の酸素を急速に食い尽くして消失した炎の後に、それは逃れ得ない悪夢を彼女に見せ付けた。彼女はずるずると引き摺られる体に抗おうと、片方しかない腕で地面を掻き毟った。

 彼女は五明を見た。五明は彼女を見ていた。目が合った。

 懇願する目だった。涙を流し、絶望に歪み、自分の無力さを嘆き、助けを求める目だった。

 着実に死に近づく彼女に、五明は何の感慨も浮かばない。感じるのは自分の胸にある空虚だけだった。

 本体に辿り着いてしまった彼女は五明の耳に残響を残し、泡立つ異形に飲み込まれて髪の毛一本も残さずに喰い尽された。彼女という滋養分を摂取したそれは、戸口が閉まる前に捕食器官を後退させ、彼女が最後に立っていた所に吸い込まれるように消えていった。

 それの召喚から送還まで約十三秒。五明が宇宙的恐怖に通じる戸口を維持できた限界時間だった。

 残ったのは傷ついた男が一人だけ。

「ん……」

 五明の頬に冷たいものが触れ、水となって流れた。満足に動かなくなった右腕でそれに触れる。砂と血の混じった液体が手袋に染みる。

 五明は空を見た。しんしんと雪が降り始めていた。しかし、雪が降る気温になっていても、不思議と寒いとは感じなかった。

 ああ――今日はユールの日だな、と薄れゆく意識で五明は思った。

 今日はクリスマスよりも古く、人類以前より存在しているユールの日。

 奇しくも、古き神々への儀式が執り行われる祭日だった。

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