B-part 1
この作品はクトゥルフ神話をモチーフとしています。クトゥルフ神話について作者が独自解釈を行っている場合がありますので、そういうのが苦手な方は注意してお読みください。
また、この作品はA-partとB-partに分かれます。それぞれ別の人物の視点でストーリーが進行していきますので、B→Aと逆に読んでいただいても差し支えありませんし、AとB相互関係を見るという楽しみ方もありますので、是非試してください。
感想とか評価とか一言とか批評とかいただけたら、作者は狂喜乱舞します。
それでは始めます。
共同楽屋には既に自分の役目を終えている者や自分の出番を待つ者が、思い思いに談笑していたりしている。その中で五明大輔は今日も仕事を無事にやり切った充実感を携えて、そそくさと家に帰る準備をしていた。
普段なら出番を全て消化しても、特に用がない限り楽屋で何時間でも同僚に付き合い、仕事が終わったらすぐに帰ってしまうような薄情な男ではない。だが、今回は事情が違っていた。同僚との会話を早々と切り上げても、こんな場所から出て家に帰りたい理由があった。
ぶるっ、と身が凍えるほどの寒さ。息さえ白くなっている。
観客がいた舞台では十分に暖房が効いていたが、ここのエアコンは三日前に壊れ、厳寒を強いられるようになった。代わりファンヒーターが設置されたが、この大広間には十分な出力が得られていない。
家でも常に上着をしていないと我慢できないほどの極度な寒がりの五明に、暖房の停止した環境はダンテの『神曲』における地獄の最下層――罪人が永遠に氷漬けにされるコキュートスにも等しい。
堪らずポケットに常備してある使い捨てカイロを取り出す。ほぐすとささやかな、けれども確実に体を溶かす暖かさが指先から侵入してくる。五明にとってカイロは手放せない必需品だった。
かじかんだ指先を十分に暖めたところで五明は舞台で使った道具の片付けを開始した。銀縁の黒いトランクの横に対して、明らかに容量をオーバーしそうな道具類が山になって詰まれてあった。これを全て収めるには少々コツが必要であり、決められた位置に道具を入れなければトランクを閉められない、一種のパズルになっている。
五明が去った舞台の方から、大きな笑い声が聞こえてきた。現在舞台に立ち、客の心を独占しているのは柏木希一という大道芸人。五明の同僚であり、一番の友人である。
五明は柏木に対する歓声を聞きながら、彼とは違うと自覚していた。
柏木には夢がある。いつかテレビに出られるぐらいに有名になってやる、といつも彼は言っていた。ありきたりで実現も難しい夢だが、彼はそのために絶え間なく自己を研鑽しているのを五明は見ている。
一方、五明は奇術師という仕事にやり甲斐は感じている。しかし、それは後から付随してきたおまけだった。最初は生活するため、金策のための仕事――夢もなく場当たり的に始めた職業。現状に満足し、奇術のレベルを高める努力もしようともしない。否――努力する必要がない。そもそも、五明は奇術をどのようにして行うのかも知らないのだ。
では何故、舞台に立ち奇術師を名乗ることができるのか。
それは五明が魔術を習得していたからに他ならなかった。
魔術を駆使し、奇術に見せかける――例えば箱に入れた物を消して見せ、手を触れずに物を浮遊させ、火のないところで紙を燃やし、または別の物にすり替える。
だけども、普通の人々は魔術の存在を信じていない。空想の産物であり、ファンタジーのガジェットであり、存在証明のないオカルトとして捉えている。故に手品の種に魔術を使っている、と看破することはできない。そこを五明は逆手に取り、魔術を種や仕掛けがあるような、もっともらしい奇術に見せかけているのだ。
五明はトランクに道具を一通り詰め終わり、開かないように固定した。そして燕尾服の上から、ハンガーに掛けてあった外套に身を包む。
首から足先まで覆う深緑の外套。体に馴染んで、動きを邪魔せず、蒸れないという三拍子揃った高機能な衣服。六年前から五明が愛用しているモデルだが、現在生産が停止しているので、同じものを手に入れるのは難しい。
五明は共同楽屋にいる同僚に別れの挨拶をして、紫陽座――五明が奇術師として主に活動する劇場から外に出た。
もう十二月。
厚い雲が張った寒空が五明を出迎えた。雪こそ降らないが、最高気温が十度を下回る日々が続いている。通算二十四回目の冬を経験しても、なお慣れない季節を忌々しく思った。
ある時に寒さが我慢の限界を超え、地球の捻じ曲がった地軸を真っ直ぐにして日本の四季をぶち壊してやろうか、と魔術の術式を構築したものだが、地軸を曲げるなんて魔術には膨大なエネルギーを必要とするのは自明の理。五明は自分の無力さに悶絶した後、結局何も変えられないままに冬を冬として受け入れるしかなかった。
それだけ憎い冬の憂さ晴らしをするために、そこら辺に落ちていた枯れ葉を蹴ってみた。枯れ葉は一頻り踊った後、何もなかったかのように地面に沈む。五明は非生産的な行動によって、更に体温が下がったような気がした。
――早く家に帰ろう。
五明は声を出さずに唇を動かした。
この時期のそよ風に負けかねない体を奮い起こし、家路につこうとしたが、そんな彼の意思を打ち砕くかのように、強烈な木枯らしが吹き荒れた。堪らずその場にうずくまる五明に、周囲の人間から奇異の視線が送られた。
電車に乗って三十分、歩いて十五分にあるアパート――煙霞荘の一室が五明の家だった。二階建ての風情のある築二十四年。管理は行き届いているため状態はよい。壁は色褪せたり、蔦が張り付いていたりするので、流石に古い印象は否めないが、五明としては自分と同い年であるアパートに一種の親近感を持っていた。
その門をくぐると、アパートの大家、板橋美江が五明の視界に入る。
歳を召して体は小柄。早くに夫を亡くし、それから一人で切り盛りしていると五明は聞いている。その苦労のせいか、黒が少し混じった白髪と、その顔に刻まれた皺は否応にも年月を感じさせている。
五明が彼女と出会ったのは、魔術師という異界から抜け出して路頭に迷っていたところだった。水と百円で一週間を食い繋ぎ、いよいよ所持金が尽きたところで彼女と出会った。五明に食事を与え助けてくれただけでなく、どこの馬の骨ともわからない怪しい人間を、このアパートに住まわせてくれた。それでも十分なのに、五明を家族のように接してくれている。
「板橋さん、こんにちは」
五明は軽く会釈をした。
「おかえりなさい、大輔ちゃん。今日は早いわね」
板橋は同じような茶色の紙袋を三個抱えていた。
五明はなんとなく紙袋を見つめてみるが、透けて中身が見えるはずもない。だが、板橋が何をしているのか分かった。これを煙霞荘の住人全員に配っているのだろう。煙霞荘の住人は、時々野菜などをお裾分けしてもらっている。二階の住民は五明を入れて三人であるから、袋の数からして一階の住人には配り終えているようだった。
「焼き芋食べる?」
板橋は破顔しながら言った。
「あ、はい。ありがとうございます」
五明も釣られて笑顔になる。板橋から紙袋を一つ受け取ると、紙袋を通して暖かさが伝わる。中身は焼き芋らしく、重さは二、三個入っているだろうと予想させた。
「仕事の方はどう?」
「年末ですし、家を空ける事が多くなりますね。忙しくなりますよ、これから」
「大変ね。でも、体には気を付けるのよ。風邪が流行っているらしいから」
「分かってます、耳にたこができるほど聞きましたからね。板橋さんもお願いしますよ? 何かあったら俺も困ります。無理せずに、何か手伝えることがあれば言ってください。すぐに来ますから」
「そうね。その時にはお願いね」
「遠慮せずに言ってください」
受けた恩に比べれば、五明にとってこの程度の労力は苦ではなかった。恩に報いるために、五明は身を粉にして働く覚悟がある。
一通りの会話を終えて、五明は板橋と一緒に階段を上っていった。段差を踏む度、ぎしぎしと軋む音がした。昇り終えて最後に一礼してから、鍵を取り出して扉を開ける。玄関で靴を脱ぎ、中に入った。
五明の部屋は二階の一番手前にある。部屋は八畳一間の台所付き。人一人住むには十分な広さを有している。風呂はないので近くの銭湯を利用している。今は小ぢんまりとした臙脂色の炬燵が中心に据えてあるが、夏には大の字に寝転がれる畳が顔を見せる。壁には時計と、替えの燕尾服が掛けてあった。
「焼き芋食べるか?」
この部屋の住人は五明だけではない。
炬燵の上で丸くなっている猫の姿があった。五明の声に反応して耳をひくつかせている。
名前はバステト――かつてはアトランティスで崇拝された、エジプトの猫の女神の名が由来である。
神様としてのバステトは太陽を象徴する恵みの神としての一面と、暴力や破壊を司る戦の神の一面を持った、二面性の女神である。セクメトと呼ばれる別の神様と混同され、バスト、バーストとも呼ばれる。
外見からいえば、目付きは鋭く、髭が長い。毛の色は黒だが、外から見えない腹は白い。生え揃った体毛は見るからに暖かそうで、寒がりの五明にとっては羨ましく感じている。
五明は荷物を置いて、板橋に言われたとおりに手洗いうがいを忘れずに行った。バステト用の小皿を取ってテーブルへ運び、この部屋唯一の暖房である炬燵の電源をつけた。炬燵に入ると、電熱線が徐々に赤みを帯びていくのが分かる。
ここでやっと紙袋を開けた。紙袋の外からでも分かっていたが、焼き芋は出来立てのように暖かい。皮を剥くと黄金色の中身が現れた。甘い匂いと共に湯気が立ち上るそれを、一欠けら皿にのせて十分に冷やす。すると、バステトは毛玉からマフラーに変わった。その一欠けらに鼻を近付けて匂いを嗅ぎ、口に入れる。そのまま、『もう必要ない』と言わんばかりに丸くなって、再び炬燵の大部分を占領する。
五明はバステトを見ながら、無言で焼き芋に齧りついた。
甘いという味覚が電気信号によって舌から神経を通して脳まで達したとき、五明は思いついた。
普段より何か足りないと感じていたが、ようやく理解した。いや、思い出したと言うべきか。
そう、蜜柑が足りないのだ。
今まで何故、気付かなかったのだろうか。この組み合わせは最強だ。日本の冬場において猫には炬燵で、蜜柑があるべき姿だ。一つ欠けた状態では完璧とはいえない。
しかし残念なことに、五明には今から買いに行く気概が体の内から感じられなかった。
「帰りに買うか」
バステトは口を大きく開け欠伸をして、五明の独り言に答えた。
五明は行きつけの居酒屋に足を運んでいた。一人だけで寂しく飲みに来たわけではない。隣にでき上がって顔が高潮している柏木がいる。
仕事をいつもの様にこなし、帰りに夕食の材料を買おうと思索にふけていた五明が、炬燵に入ってついでに買った蜜柑の皮を剥く自分を想像していた矢先、
「メシ、行こうぜ」
柏木がポケットに手を突っ込んで待ち構えており、五明を誘ってきたのだ。
蜜柑は後にでも買えるし、夕食の問題も解決される。五明は特に断る理由もなかったので、二人とも行きつけの店に寄ることにしたのだ。
柏木の一部だけ金に染めた髪が、体に合わせて揺らめいた。その目立つ髪だけ見ると不良だが、それは柏木流のファッションだった。他は至って普通なのだろうか――今はデニムに赤い革ジャンを羽織っている。五明はファッションに関してあまり関心がないので、いいのか悪いのか判別しがたかった。
柏木の大道芸人としてのスタイルはパントマイム。『黙した笑い』を信条とし、日々鍛錬を欠かさない人間である。
種も仕掛けもない身一つで表現するそれは筆舌尽くし難い。普段の彼はとても多弁で陽気なのだが、舞台の上では仮面を被っているかのごとく別人に変わる。特に芸人としての彼を見た後だと、普通の人はその温度差の違いに戸惑いを見せるだろう。
「お前のマジックってすげーよな」
「あんなのは誰でもできるさ。種が分かれば簡単だ」
柏木から再三聞いた台詞を、五明は呆れずに丁寧にこう答えた。
魔術とは、意志に応じた変化を生ぜしめる学にして術。学問の側面があるからして学ぶ努力、それと人道から外れる覚悟さえあれば、誰にでも扱えてしまう術。
適正云々はあるが、魔術ならば誇張も比喩もなく、簡単な奇術紛いのことはやってのけられる。実際、五明は自分の他にも拙い魔術を使っている奇術師を見たことがある。
だが五明自身は、こんな他人にもできることで誉められる必要はなく、柏木の方がよほど賞賛されるべきだと思っていた。
他人目から見ても、柏木は相応の努力をしているし、才能を持ち合わせている。柏木がテレビに映し出される日は近いだろう。後はチャンスを見逃さず、自分の物にできるかどうかだ。
その柏木が相当量飲んでいて、吐く息だけで五明は酔いそうになる。繰り返し同じ台詞が出てくるようになって、要するに柏木は酩酊している。テーブルに出された料理は既に空にしてしまっており、五明は会計をしたいのだが、柏木はイスに根が張り付いているかのように、その場から動こうとしない。
今日の柏木は弱音を吐いていた。
このスタイルで今後やっていけるかどうかや、先輩との関係、両親との確執――柏木は親と喧嘩して発作的に家を飛び出したことを五明は知っている。心配させているのは分かっているが、どんな顔で帰ればいいか悩んでいるという。そんな、取るに足らないとは言えないが、数えていけばキリがない恐怖。普段は気にしないが、自覚すれば押しつぶされてしまいかねない不安。
五明は柏木の愚痴をこれまでも聞いてきた。それでも――今日ほど沈んだ様子は見たことがない。
何か良くないことがあったのだろうか、五明は心配して尋ねても柏木はなんでもない、と答えるだけだった。
今まで柏木が飲んだ酒の量は、健康を害する一歩手前だった。これ以上の摂取は体に支障を来たすだろう。それでも柏木はお構いなしにグラスを口に運ぼうとしていた。
「飲み過ぎだよ。もうやめた方がいい」
「だったら代わりにお前が飲んでくれんのか?」
気遣いに仇なすように、柏木はきつく睨む。
五明の手元にはアルコール類は一切ない。酔ってもおらず、素面を保ち続けている。それは車の運転を肩代わりするためではなく(そもそもここまで徒歩で来た)、五明の持つ単なる信条である。
「飲まない主義なんだ」
「知ってるさ。でも楽しい気分になって、嫌なこと忘れて、心のたがを外すことが、何で悪いんだよ」
いちいち突っかかってくる柏木は、その言葉に反して少なくとも楽しい気分ではなさそうに見える。
「そういえば、理由を聞いてなかったな。飲まない理由」
「アルコールを飲もうが、現実は一向に解決しないことを不幸にも気付いてしまったからだよ」
五明は静かに左手を強く握った。爪が食い込み、皮膚から血が滲む。脳の底に閉じ込めていた記憶が蘇る。『環する蛇』にいた頃の厭な記憶――それこそ、酒を飲んで忘れたいぐらいに。
「どうした? なんか酷く悲壮な顔をしてたぜ」
五明は思考をリセットして大丈夫だ、と付け加える。
柏木は五明の顔をまじまじと見ていたが、やがて興味を失ってグラスに満たされた琥珀色の液体を飲み干した。
「それで終わりにしろ」
えーっ、と人目を気にせず駄々をこねる柏木を無理やり引きずって会計を済ませ、店を後にする。外を出ると、吹きすさぶ冷気が五明の頬を切り裂いた。家の中でさえ外套を着たままにする極度の寒がりの五明にとって、この温度差は堪える。
柏木の方は何故かけろっとしていた。火照った体で冷気が相殺されているのか、アルコールで脳が麻痺しているのか。どちらにしろ平気な顔をしていた。
「なあ、五明」
「なんだ?」
「次の店に行こうぜ」
「お前はもう帰れ!」
五明が今日一番のキレを見せると、柏木は腹を抱えて笑った。多少うざいのが、酒が入った柏木のデフォルトだった。
結局、柏木は何故調子が悪かったのかは明らかにならなかったが、陽気でちょっとうるさい、パントマイムをしている彼とは真逆に位置する本当の姿に戻った。
五明も愚痴を聞いて柏木の気分が晴れたのなら本望だと思っている。
「じゃ、帰るぜ」
柏木は五明に背中を見せる。その足取りはおぼつかない。
「大丈夫か?」
「手助けは一切無用だ。すまんね、付き合ってもらってな。色々すっきりした」
「借りはいずれ返してくれればいいさ」
ふら付きながら歩く姿は少々不安だが、ここから柏木の家は目と鼻の先にある。一人でも辿り着けると考えるのは楽観的だろうか。
その後、五明は柏木と別れて駅に向かった。
店の中で時計を確認はしていた。この時間になると銭湯はもう開いていないので諦めている。電車に乗り、家に着けば睡眠という安息が待っている。
白い息は立ち昇り、やがて幻のように消えていく。五明は震える体にさらに外套を密着させた。使い捨てカイロの効力が切れている。トランクを開けて予備を取り出した。五明にとって冬には必需品であるカイロ。家にある在庫はまだ買い足すには十分過ぎるほどあるので、補充の心配はなかった。
大袈裟な欠伸をしながら五明は歩いていた。
――眠い。
その時。
何かが、五明の前を横切った。
最初は気のせいかと思ったが、違っていた。闇に溶け込んで大きさを正確には測れないが、小動物程度。動作は俊敏。月光に反射する双眸だけが妙に際立つ。五明はさらに目を凝らした。
黒猫。
魔女の使い魔には黒猫が多く、そのせいか不吉の象徴とされる。また、横切ると不幸が舞い込んで来る予兆とされるが、五明は信じてはいなかった。魔術師の間でも、黒猫と不幸の間には因果関係が証明されておらず、ただの迷信に分類されている。
「………」
その猫は――見覚えがあった。
バステトだった。見間違うはずもない。だが、何駅も離れているここに来た方法は五明にとっては疑問ではない。
何故、ここに来たのか。
帰りの遅い五明を心配して迎えに来た訳ではないのだけは明らか。そういう飼い主想いの優しい猫でないことは百も承知である。
バステトは、にゃあと啼いて走り出した。
――来いって言うのか。
五明は暗い中、一目注意を逸らしたら見逃しそうなバステトの影を追う。トランクを持ちながら走るのは邪魔だが、置いていく訳にもいかない。
いつの間にか眠気は吹っ飛んでいた。走っている方向は海。この先には港がある。漁港などではなく、人の乗り降りのしない船舶だけが停泊する物流用の拠点。ここで積荷は降ろされ、また次の貨物を積む。それだけを繰り返す、流通の要。
海を血液、船舶を血管とすれば、港は臓器か何かか。
あまりいい例えではなかったので、脳裡から一瞬で振り払う。
バステトが歩みを緩めた。
何十分走っただろうか。五明は時計を付けていなかったので、すぐに確認することはできない。だが、体には疲労はそれほど蓄積していなかった。呼吸に異常はなく、発汗もそれなり。心拍数と体温は少し高めだが、むしろこの外気温では丁度いい。昔取った杵柄、『環する蛇』時代から体力は衰えていないようだった。
さらにバステトを追うと、全身に鳥肌が立った。神経を逆撫でするこの環境の異常さ――普通の人間でさえも気付かざるを得ない空気。五明は気を落ち着かせるために、冷え切った外気を肺に取り込む。そして、目の前の光景を見やった。
それはバステトが五明を連れてきた理由を、雄弁に語ってくれるものであった。
人が倒れていた。紺色のブレザーを着た、学生らしき人物がうつ伏せに寝ている。
五明は倒れている人影に駆け寄った。仰向けにした後、頬を叩いて意識を確認したが応答はなかった。その他の状態を確認した後、ポケットから氷のように冷たくなっていた携帯電話を取り出す。それを開いてから、皆が知る三桁の番号を押す。
「救急です。場所は沢入埠頭、八番倉庫付近。病人は男性、年齢は十六歳程度。目立った外傷はなし。意識を喪失。呼吸と脈が微弱。早く救急車を寄越してください」
この学生の症状を五明は見たことがあった。これは典型的な魔術の過剰使用による昏睡。確実な治療法はないが、対処療法を続けて安静にさせていれば自然に二・三日で意識を取り戻す。
逆に言えば、今ここで五明にできるのは救急車を呼ぶことのみ。本当は係の指示を待つのが妥当なのだろうが、後に色々と聞かれるのは避けたかったので、必要事項を言って通話を切る。
救急車が来るのは早くて五分後。救助活動は本職に任せるとして、それまでにこの異質な場所に残された手掛かりから、彼が何の魔術を行使したのかを調べ上げなくてはならない。
五明は懐中電灯の代わりに、携帯電話の明かりで地面を照らす。映し出されたのは、地面をのたうつ蛇のようなベルトと、血溜まりに漬けた色をした洋装の分厚い本。この辞典ほどある重い本を取り上げ、携帯を片手にざっと目を通す。墨汁をぶちまけたかのように、ページのほとんどが黒く染まっていた。
これは本に施された魔術の術式がショートしてしまったか、他に可能性があるとすれば情報漏洩防止のための安全策――恐らく、前者だろう。被害を免れたページには、円を基礎として幾多の微細な文字と複数の幾何学模様が組み合わされた図形――魔法円と呼ばれるものが列を成して描かれている。
――これは、他にも調べる必要があるな。
五明は本をパタンと閉じると、顔を洗っているバステトが視界に入った。
黒猫。
横切ると不幸が舞い込んで来る予兆とされるが、五明は信じてはいなかった。魔術師の間でも、黒猫と不幸の間には因果関係が証明されておらず、ただの迷信に分類されている。
しかし、バステトは別問題だろう。バステトが何か危険な事件を持ち込んだのは、間違いなかった。