A-part 4
沢入埠頭の一件以来、テロは全く起きなくなり、町は平穏をとし戻しつつあった。次第にテロ熱と呼べるような興奮・緊張状態は冷めていき、テレビでは事件を振り返る特集の方が目立つようになる。このテロは犯人及び動機なども解明されず、結局歴史に爪痕を残した凶行として、皆の記憶に変換されつつあった。
しかし、僕のモチベーションは未だに下がらず、インターネットも利用して事件の調査を続けていた。発言が制限されないネットの掲示板では、未だにその手の話題に熱気があり、妙な噂が乱立していた。
倒壊するビルの上で人影を目撃したとか、沢入埠頭で未だにブルーシートが取り払われていないのはUFOが墜落したためとか、見間違いや誰でも思いつくようなデマゴギーと思える証言。
僕はそんな荒唐無稽な憶測は鵜呑みにしないのだが、情報が少ない現状では藁にも縋る気持ちだった。
その一環として、僕は『紫陽座』という劇場に足を運んだ。
『紫陽座』はテロの起きた場所に接近していて、そこに魔術師が出演しているという情報を得たのだ。確率が零ではない限りは――と言うよりは、一番あり得なさそうな可能性を潰しておきたかった他ならない。
だが僕の予想に反して、当たってしまった。
困難かと思っていたのに、あっけないほど簡単に、オーバーコートの魔術師を見つけてしまったのだ。
彼の名前は五明大輔。職業は勿論マジシャン。僕と別れてから姿を消すこともなく、そこで彼は惜しげもなく自分の技術を披露していた。彼の舞台を見てみたが、特に変わったところがない普通のマジックだった。
あれだけ思わせぶりな発言をしていて、彼がただのマジシャンだとは期待はずれだ。
だけど、何かを知っているには違いない。
僕は途中の自動販売機で買った缶コーヒーで体を温めながら、劇場の裏口が見える場所で彼が出てくるのを待った。こちらから姿を晒さないように、茂みに隠れながら。
日はすぐに落ちた――携帯で時計を確認した。今日のスケジュールはもう終わっている時間だ。
ぞろぞろとホールで見た顔ぶれが出てくる。その中で長方形の大型かばんを持つオーバーコートを着た人物がいた。暗くて顔はよく分からないが、特徴的な服装なのですぐに分かった。他の面々に別れの挨拶をしているようで、真っ直ぐ家に帰るみたいだ。僕にとっては都合がいい。
僕は気付かれずに魔術師の後を追った。駐車場には行かず、そのまま道路に出る。暗闇で彼を視認できる精一杯の距離を取って彼を尾行した。彼は終始振り向かなかったが、僕は電信柱の影に身を潜めたり、建物を遮蔽物にしたりと探偵気分を満喫していた。
彼が電車に乗ったときにはちょっと焦ってしまった。だが車両は程よいくらいに混んでいたので、身を隠すには十分だった。僕は一両前で彼を監視できる位置に陣取り、降りるのを待つ。彼は吊革に体重を預けて、うとうとし始めていた。何駅か過ぎて、ガクンと電車が揺れたところで彼は意識を取り戻し、自動ドアの前に立つ。駅に降りようとしているのが分かったので、用心をして更に一両遠ざかるために移動する。ブレーキ音という電車の悲鳴の後にドアが開き、二両先にいる彼も駅に出たのを確認した。僕は距離を保ち、後に続いた。
駅を出て五分、彼が突然右に曲がり姿が消えた。僕は足音を極力立てずに姿を消した辺りに近づいた。その場所には二階建てのアパートが設けられていた。
どうやら、ここが彼の住まいらしい。
ついに辿り着いたぞ、と静かにガッツポーズを取っているところに、自分の足に何かが当たる感触がした。
一瞬、全身の筋肉が引き攣る。恐る恐る足元に視線を下方修正すると、月明かりを反射する双眸の猫がいた。
何だ、猫か。
僕は安心して、さあ行くぞと視線が戻ったとき。
目の前に、彼は像のように腕組をして立っていた。
「うわあっ」
僕は驚いて尻餅をつく。潰されないように猫が華麗に避けたのを見た。
表情が分かる距離――彼は本屋であったときの冥府魔道に堕ちた悪鬼羅刹の如き形相はしていなかった。どちらかと言えば、善悪を知らない子供に呆れているような顔だ。
「立て、塔ノ吾樹。俺は自分から厄介ごとに首を突っ込む奴は嫌いだ」
彼は手を差し伸べた。僕はありがとうございますと感謝を言って、その手を取った。
僕は五明さんの部屋に招き入れられ、一緒に炬燵の中に入っていた。
部屋の広さは八畳一間キッチン付き。畳の大部分が炬燵で占められている。それ以外は職業に関するマジックの道具やタキシードがハンガーに掛けてあった。
五明さんはオーバーコートを脱いでいなかった。見ている方は暑苦しいだけだが、曰く病的な寒がりで、冬の日はこうでもしないと耐えられないらしい。
炬燵の上にはさっきの猫が惰眠を貪っている。普通、猫は炬燵の中に潜り込むんじゃないものかと僕は思った。
「バステトには手を出すなよ。相手が俺でも引っ掻く。あと茶は出ないから、蜜柑で我慢しろ」
バステトとはこの猫の名前だろうか。真っ黒な体毛に白い腹を覗かせて、体を上下させている。
五明さんは蜜柑がたっぷり入った籠を脇に寄せた。
「何時から気付いてたんですか」
「電車に乗る辺りからだ。あまりに滑稽だったんで無視していた――さて、塔ノ吾くんは何の御用かな?」
五明さんは最後を明らかにふざけた口調で言った。軽い挑発だったが、あえて僕はそれに乗り、語彙を強調した。
「教えてください」
「何を?」
「知っていること全部」
「全部ねえ――じゃあ」
と言って、五明さんは僕の名前と住所、携帯電話の番号、家族構成にその他諸々。姉が警察官で、両親が海外で働いていることまで言い当てた。
僕は聞いてくうちに、血液が凍るような思いをさせられた。
「何で――」
「ただの嫌がらせだよ」
五明さんは方法ではなく、その理由を言った。
「俺は別に話すのはやぶさかじゃない。でもお前がこれを聞いて幸福になるとは思えない。むしろ悪いことばかりだ。それでもか?」
断れば、これまでの努力が無駄になる。ここに来た意味がない。
「それでも、真実が知りたいんです」
五明さんは溜息を一つしてから、御伽噺も甚だしい冗長な話になるから話半分に聞け、と眠たげに言った。
「まず、前に言ったように、俺は魔術師だ」
「今更何を言っているんですか。魔術師《magician》だということは知っています」
「違うよ。魔術師《magician》って意味じゃない。魔術師《magus/wizard/sorcerer》――俗に言う……この単語は言いたくないんだがな、俺は魔法使いという人種だよ」
「はぁ?」僕は変な声を上げてしまった。「魔法使い? でも、マジックを『紫陽座』でやってたじゃないですか。僕はそれでここに来れたのに」
「奇術師で、魔法使いなんだよ。確かに『魔術師』という単語に両方の意味が含まれているのは知っているが、俺はあの時、後者の意味で言ったんだよ」
五明さんは本屋の前での自分の失言を後悔しているようだったが、僕は気にせず別のことを考えていた。
つまり、彼は本物の魔術師なのだろうか。
そんな特異な人間が簡単に僕の目の前に存在していいものかと。
「オカルトじみたものが存在するはずはない……当然の思考だろうな。だが、これを前提にしないと話が進まない」
五明さんは僕の思考を先読みして会話を進める。だが、五明さんは少し的を外れた思い違いをしていると思う。僕はオカルトについてはそんなに否定的じゃない。宇宙人はいると思っている。
「本物、なんですか? 証拠に魔術を見せてください」
「魔術? ならもう見ただろう、紫陽座で」
「でも、あれはマジック――」
「奇術じゃない。種のほとんどが魔術だ」
「うーん……」
意識せずに見ていたから、あまり記憶に残ってない。
もっと真剣に見ていればよかった。
五明さんは、その反応は奇術師としては普通に傷つくな、と僕の印象に残っていないのを察したのか、そんな台詞を漏らした。
「それにしても、奇術師で魔術師……まどろっこしいですね」
「複雑な事情はない。考古学者や探偵よりかはマシだっただけだ」
……そうか!
不意に、僕の中で何かが繋がった。
「僕の個人情報が駄々漏れなのも、魔術を使ったからですか!」
「はずれだ」
また否定する。いったい何回否定すれば気が済むんだ。
「事前に足で調べた。ホットリーディングという奴だよ。それこそ、イカサマ師が使うような手法だ。お前だって、足で調べてここまで辿り着いたんだろう? それと同じだ」
五明さんは冷めた口調で言った。
「魔術師なのに、魔術を使わないんですね」
「魔術師だからこそ、使用には細心の注意を払うんだ」
さて、と五明さんは一呼吸置いた。
「雑談はそれくらいだ。全部知りたいんだったな。どこから話す?」
「最初から。できれば起きた順に」
「時系列か……一つ聞くが、あの廃墟に入ったことがあるのか?」
廃墟というのは、五明さんに会ったあの本屋のことだろう。
「ええ。帰り道に面白そうな本屋があって、入ったんです」
僕は引き払われる前の本屋の様子や、赤い本を渡した奇妙な男の容姿を話した。かなり不明瞭な部分もあったが、なんとか子細を漏らさないように努めて話したつもりだ。
五明さんはそれだけで、十分に納得してくれたようだった。
「なら、あの本屋が発端だろう。建物は頭をおかしくさせるように、微妙にずれた構造になっていた。他にも小細工で意識を殺ぎに殺いで、催眠術を掛けた。恐らく、掛けた相手は俺と同じ魔術師――目的は赤い本を次元移動魔術装置として使用した実験。しかし成功率は大変低い。そこで失敗してもいいように代わりとして、お前が選ばれた。まんまと甘言に乗せられ、沢入埠頭で本を使用し見事成功した。神様は地上に降り立ったが、哀れな生贄は初めての魔術で気絶してしまった」
段々と記憶が補完され、明確なものになっていく。
「駆けつけた俺はお前を見つけ、救急車を呼んだ。赤い本もそこで回収。一方、地上に来た神様はこの町を遊び半分でぶっ壊していたが、俺は平身低頭誠意を以って尊敬の意を示しながら帰ってもらった。赤い本は神様を還すために灼き尽いてしまった」
「……これが全部本当に起きたことなんですか?」
「さあ? 案外俺は出鱈目を並べて、法螺を吹いているだけかもしれないな」
五明さんは不敵に笑った。
「もし、実験が失敗していたら、僕はどうなっていたんですか?」
「廃人になるか発狂死していた。最悪、神様に喰われていたな」
ほんの少しの興味本位の質問だった。しかし、帰ってきたのは最悪の答え。
キリスト教に見られるような神様じゃない。
……遊び半分で建物を壊し、人間も喰らうという神様――
「碌な奴じゃないですね、その神様」
「神様なんて、大抵そんなものだ」
僕達はしばらく無言になった。
「塔ノ吾樹。この騒動で、一体何人死んだと思う?」
しばしの沈黙の後、意を決したのか五明さんは声を低くして言った。最初、いや――二度目の邂逅に感じたものと同類の感情を、そこから感じ取れた。
「四人だ。四人もの人間が死んだ。他にも傷ついた人間が沢山いる。その何割かはお前の軽率な行動の所為だ」
自分の所為で人が死んでしまった。
死という責任。重圧。
胸が締め付けられて、そのまま潰されそうなほどに――
「僕を、咎めるつもりなんですか?」
話の筋からして、僕は断罪されなければならないはずだが、五明さんはそれを言葉で否定した。
「最初からそのつもりだったら、本屋の前で会ったときに説教でも垂れていたよ。俺がこうしてお前に話しているのは、ただの個人的な嫌がらせだ」
「嫌がらせ……」
「ルートヴィヒ・プリンは『妖蛆の秘密』という本の『サラセン人の宗教儀式』の項において、かのように記している」
五明さんは突然僕の知らない本を引き合いに出し、途切れることなくすらすらと暗誦し始めた。
「『魔術妖術の類を用いる者より物品を贈らるること勿れ。盗める物なれば盗むもよし、購える物なれば購うもよし。手に入れらるる物なれば手に入るるは可――ただし贈り物として受け取ること勿れ。供与と雖も遺譲と雖も』」
「――つまり、魔術師みたいな怪しい奴から只で物を貰うな、とプリンさんは仰っている訳だ――ああそうだ。蜜柑に手を付けていないようだが、遠慮なく食べていいんだぞ。さあ、どうぞどうぞ」
蜜柑は竹製の籠に十個程入っていて、どれも甘酸っぱく美味しそうな橙色をしていた。だが、さっきの話を聞いた後では食べられるはずもない。今の僕にしてはこの色はグロテスクとしか思えなかった。
「覚えておけよ。魔術なんて後ろめたいまじないに触れたら、ただそれだけで不幸に繋がることを」
「あなたは、どうなんですか?」
魔術師という闇に触れるだけでは済まずに、ずっぽり嵌ったあなた自身に問うた。
「俺は十分に厭な思いをした。だから、ここにいるんだよ」
五明さんはその時のことを思い出しているのだろう。眉間に皺を寄せてしかめっ面をしながら、何かを噛み締めていた。何を噛み締めていたのかは、分からなかったけれども。
「反省しろ。当然だろう? まあ、お前がやらなきゃ別の奴がやらされていただろうけど。さて、俺の気は大体済んだ。蜜柑でも食べて気を取り直せばいい。毒なんか入っちゃいない」
五明さんは剥いた蜜柑を半分にして、片方を丸ごと口に入れ、もう片方は渡してくれた。
「ありがとうございます」
僕は受け取った半分を、一欠けらに分けて口に含む。蜜柑は思ったより酸っぱかった。
昨日、姉さんは家に帰ってこなかった。
新たな事件の発生に加え、十二月二十五日を最後に収束した連続テロ事件――通称、クリスマス事件の捜査に忙殺されているからだ。
クリスマス事件は唐突に始まり、唐突に終わりを告げた。表向きには犯人も未だ逮捕されず、動機や意図も不明。今も野放しの状態になっているとされている。ここで起こるのは凶悪犯を捕まえられない無能な警察への批判なのだが、完全にお門違いだと僕は知っている。
僕はこの真相を姉さんに教えて、少しでも負担を減らしてあげたかった。
そしてそれ以上に――僕は罪の告白をしたかった。誰かに本当のことを話して、肩の荷を降ろしたかった。
しかし、今は無理だろうと思う。
真実という御伽噺はあまりにも現実離れしている。事実に則した夢物語は、とても人に信じてもらえるものじゃない。
話したくても話せない――僕は胸の内にある二律背反を自分に課せられた罰じゃないかと、最近になって思うようになった。そして、ささやかながらも僕を悩ませ、苦しめ続けている罰から解放されるには、自分の行為を自覚しなければならない。他人に信じてもらうためには、まず僕が認識しなければならないからだ。
五明さんは、僕が苦悩するのを知っていて自分では咎めなかった、というのは考えすぎかもしれない。だけれど五明さんが何もしなかったら、僕は自分の罪を知ることさえできず、のうのうと生きていただろう。
僕は今日、紫陽座に来ていた。五明さんの魔術を改めて見るためだ。客席は例外なく人で埋まっている。
五明さんの簡単な紹介がアナウンスで流れ、照明を浴びながら五明さんは袖口から出てきた。燕尾服を着た典型的なマジシャンの格好。その顔にはもう疲れは見えず、笑顔を振りまいている。客席を見渡しているさなか、一瞬僕と目が合った――ような気がした。
「ご紹介預かりました、奇術師・五明大輔です」
五明さんは少し気取りながら、自らを奇術師と名乗る。
「本日は皆さんを摩訶不思議な世界へ、いざなって差し上げましょう」
こうして、五明大輔のステージが始まった。