A-part 3
翌日。
病院ではことなきを得て退院できたが、体はまだ不調を訴えている。医師からは運動は控えなさい、栄養のあるものを食べなさいと諸注意を受け、抗生物質を処方してもらったが、的外れ感が拭えない。
ずれた感覚を体に抱えたまま、僕は荷物を持って帰るために家に一度寄ることにした。およそ三日間帰らなかったけれども、久しぶりというには十分な時間。表札には『塔ノ吾』、よく珍しいと言われる僕の苗字が立て掛けられている。
家に入るや否や、郵便受けの中を探してみた。入っていたのは今日の日付の新聞に、僕に関係なさそうなダイレクトメールが二枚。それとトリコロールの国際郵便。裏側には父と母の名前が書かれてある。この手紙はすぐには開けない。
新聞を手に取ると、一面にはやはり無差別テロが載っている。しかも、今日未明にもう一件事件が起き、『同時』から『連続』に格上げされたらしい。場所は沢入埠頭。幸い人気がない場所で、死傷者は出なかったけれども。
沢入埠頭は僕が気を失った場所でもある。
この度のテロと何か関連がある――とは自分でも考えすぎだと感じる。しかし関係がなくとも、十分僕の興味を引いたのだ。あのまま放っておくのは精神衛生上良くないので、調査は平行して行おうと思った。
郵便を一緒くたに持ち、僕は靴を脱いで廊下に出た。
家は電灯を付けなくても、採光窓があるので十分に明るい。ダイニングルームに入ると、より一層の清潔感を演出する。奥には一体型のキッチンがあり、磨かれたフローリングにはテーブルと椅子四脚。
しかし、物足りないものもある。あるべきはずの、人間が住んでいるという雰囲気が不足している。
この部屋では家族団欒をするのが普通だろうが、三年前からお預けになっている。ここで僕の家族が勢揃いする機会はほとんどない。姉のこともあるが、両親も海外に行っているからだ。
僕は寂しくない。
この閑散とした部屋にも、三年という時間もあれば慣れる。遅いといえども姉さんは家に帰ってくるし、両親からは月に一枚は近況を報告する手紙が来る。さっきの国際郵便がそれ。
虚勢は張ってはいない、と思う。
郵便をテーブルに置く前に、メモがあることに気付いた。メモに書いてある筆跡、それは姉さんの筆跡だった。電話では伝え切れなかったことが、メモに残してある。
それを見て思い出した。
今日は姉さんが休みを取って、姉弟で遊びに行く予定だったのだ。僕はあまりに慌しかったので、すっかり忘れていた。
だが残念なことに、思わぬ事件が起きてしまったために姉さんは休みを返上せざるを得なくなった。姉さんはさぞ残念だっただろう。次は何時休みが取れるか分からないのに、こうも台無しにされて。
僕はこの楽しくなるはずだった日の替わりに、姉さんに何かできないか考えた。僕のできることには限界がある。それを鑑みて出した結論はケーキを買おう、というものだった。
ケーキを姉さんの分と僕の分を二つ。このクリスマスという日には安直な結論だが、変に凝って迷惑がられてもいけない。
それがベストだと思われる回答だと、僕は心にそう納得させてから家を発った。
今日の零時から一時まで雪が降ったらしいが、殆ど解けて跡形もなかった。気温が上がって、気持ちいいくらいにお天道様が出ているからだ。雪が降った証拠と言えば、地面のアスファルトが所々湿っているのを残すのみ。それもじきに乾くだろう。
埠頭で起きた事件の時にも雪は降っていたのだろうか。
相変わらず僕の体には倦怠感が残っていたが、通常の行動に支障がある訳じゃない。
地理的に一番近いのは本屋だから、まずはそこから当たるとしよう。
僕は電車を降り、人気を寄せ付けない廃墟――とまではいかないものの、シャッターで固く閉ざされた道に入った。
夜では帳を降ろす店は多いので特に違和感はないが、昼でも閉鎖された店が並んだ道は非日常だ。この空間は一種の異界を形成している。
向かうは不気味な本屋。
本屋の不気味さ以上に不気味な白髪の男。
にしても、あの本屋が昼に営業しているのは想像し難い。あの趣は夜だからこそ暗闇とマッチするからだ。
逆に深夜営業が主なのかもしれない、と考えつつ本屋があった場所に近づく。
見えてきた。
夢でもなく、幻でもなく、老朽した建築物はそこに存在した。黄ばんだ壁は剥げた場所もあり、看板の代わりに雨風に晒されたであろう鉄パイプが、今にも崩れそうに折れ曲がっている。
しかし、前に来た時とは異なる点があった。
ひびの入ったガラスが嵌めこまれたドアは開いていて――その奥にも廃墟が侵食していたのだ。店に照明器具は働いていない。内部は外部以上に老朽が進行していた。あの洒落たモダンは見る影もない。一体どこに消えたのだろうか。
僕はその様変わりに驚いていたが、歩みを止めるわけにはいかない。店内に物影が動いたのを、僕は視界に捕らえたのだ。
いつもより早足で、僕は本屋に接近する。
影はやはり人だった。だが、あの白髪の店主ではない。
足まですっぽり覆う、濃い緑色をしたオーバーコート。左腕は通しておらず中に仕舞ってあるようで、芯がない袖はだらんと垂れている。右手は顎に当てて、何かを考えている仕草をしている。コートを纏うのは二十台半ばの男性。
「あ」
つい僕は声を漏らし、その存在を気付かせてしまった。
目が合う。
しかしコートの男から先に目線を外し、店から出て僕の横を避けて通り過ぎようとする。男の目には僕が映っていなかった。赤の他人――普通の本屋に来る客同士の態度だ。
でも、ここはただの本屋じゃない。普通の店じゃない。僕も参考書を買うためにここに来たんじゃない。コートの男も、それ以外の用あってここに来たはずだ。
言うべきことがあるだろう、僕!
「な、何でこの本屋に来たんですか?」
男の表情を見てみる。先日僕を診てくれた医者より疲労が濃い。三日間は寝ていない顔だ。何が男の顔をこんなにまで疲労の色で塗りたくらせたのだろうか。
言葉に詰まっていると、コートの男は僕を睨みつけた。溜まった疲労と相まって修羅のような形相になっている。
「塔ノ吾樹」
知っているはずのない、僕の名前を呼ぶ。
「いい加減にしろ。余計な詮索はするな。ここには何もない。やめておけ」
言い終わる直後に男はすまない、気が立っているんだと自分の口振りを戒めた。
「だが言った通りだ。今後一切これに関わらない方がいい」
もう何も言うことがない意思なのか、コートを着た男は踵を返し、この場から立ち去ろうとする。
僕は一歩だけだが、踏み出した。
ここで、終わりにしては駄目だ。何か――
「あなたは誰だ!? 僕の名前を知っておいて、自分の素性を明かさないのは不公平だ!」
僕には珍しい命令口調だったと思う。
男はそれに応え、振り返らずに吐き捨てるように口にした。
「魔術師だ」
魔術師?
それが最大限の譲歩らしい。
自分を魔術師と称した男は、ごく普通の足取りでその場を立ち去った。
僕は彼を目で追っても、決して足で追おうとは考えなかった。今ここで問い詰めようと、それ以上は語ってくれるとは思えなかったからだ。
それから、僕は昨日のテロがあった五箇所を回ってみた。しかし、大した収穫はなかった。どこの建物も倒壊して酸鼻きわまる無残な山を為し、瓦礫の撤去作業を行っていた。救出活動を行っている場所もあり、その作業を見るために野次馬が集まっている。雪はすぐに止んだために、作業に支障はなかったらしい。テレビや新聞以上の情報は得られなかった。
街を歩き回って感じたことだが、現場を少しでも離れると、空気に緊張感がなくなる。路上を歩いている人々が皆、自分がこんな目に遭うとは思っていないのだ。
僕は不幸な出来事に遭遇してしまう確立は、宝くじに当たるより高いと思っている。無視できない、かなりの高確率で不幸という地雷が仕掛けられている。人生は仕掛けられた地雷を踏まないように歩いているも同じ。僕もその地雷を踏みかけたところだ。
だからといって、その危険を全て意識しながら生活するのは酷だろうとも思う。そんなことをすれば、人間の処理能力を軽く超えてしまう。人間がこんなに残酷までに知らぬ振りができるのは、自壊を防ぐための一種の自衛行動だろうか。
僕は目に付いた売店でイチゴのショートケーキを二つ買い、行動を再開した。
案の定、沢入埠頭は警察官が見張るように目を光らせ、一人一人が異常にピリピリしている。とても忍び込めるような隙はない。テロが起きた現場はブルーシートで周囲を覆われ、一般人の立ち入りだけでなく、視線さえも遮っている。これでは外から内部を知る術はない。
そこまでする必要があるのだろうか。
前の五件では立ち入り禁止を表すイエローテープは張られるものの、こんな情報を外に漏らさないためが目的のような処理は為されてはなかった。
何かある。
と、直感はそう訴えかけるものの、一高校生の僕には確かめる手段はない。
期待していたより、得られた情報は少なかった。
血溜まりに漬けた色の本は所在不明。テロによって灰と化しているかもしれない。
姉さんに連絡した人間、そして最後に印象に残った何かの影も決定的な確証が得られない。
しかし、古びた本屋と白髪の男の代わりに、オーバーコートの魔術師というキーワードが追加された。
諦めるには、まだ早いだろう。