A-part 8
既に雨戸は閉まり、照明の灯った家庭は少ない。住宅街は静かにその目蓋を閉じていた。
緑色の焔が見えないかと外を舐めるようにして眺めるが特に変わったものはなく、神に捧げる祝詞が聞こえないかと耳を澄ましても、重低音と振動が重なり合ったエンジンの回転の他には、ノイズ交じりの警察無線ぐらいしか認識できなかった。
私は単独で二件の遺体発見現場、そして女性が犯人と遭遇した地点周辺を自動車で巡回していた。外の音を聞くため、自動車の窓は全開にしていたのだが、初春といえども夜は凍える。着ているトレンチコートはそれなりに機能していても流石に手は範囲外なので、自動販売機で買った暖かい缶珈琲を転がしていた。助手席側にはビニール袋に入った夜食のアンパンが二つ。残念ながらお約束である牛乳はない。
最後の事件――女性が犯人を目撃してから今日で一週間、事件は発生していない。それまでは二・三日の間隔で事件が起きていたのだが、こうもパッタリと途絶えてしまったとなると、状況が変化したのだろうか。犠牲者が出ないのは喜ばしいが、同時に手掛かりを失ってしまうのは痛すぎる。
ただ進展もあった。ビニール袋の下にA4サイズの茶封筒。表には科学捜査研究所の文字が印刷され、DNA鑑定の結果が入っている。鑑定したのは二つの白骨化死体が発見された事件現場から採取された、腐敗した肉片のサンプルだ。
交換条件として合コンの約束を取り付けられてしまったが、科学捜査研究所の知り合いに頼み込んだ甲斐は充分にあった。
予想していた通り、サンプルからは同じDNAが検出されていたのだ。
邪神の洗礼を受けた犯人が、複数の事件現場を訪れていたとみて間違いない。腐敗し続ける体で犯行に及んだ証拠だ。おそらく三件目の犯行現場――唯一犯人に遭遇し、生存している女性からは詳しい場所を聞きだせなかったのだが、そこからも同じDNAを検出できるはずだ。
私はこれらの情報をまとめて上司である第一課課長に提出してあるが、それらが捜査に反映されることはないだろう。
正気を失った人間の信憑性が薄い証言。学会で評価されていない氷見教授の資料。正式でないDNA鑑定結果。その他の状況証拠を関連付けただけの私の推測。そして何より内容が常軌を逸している。
無視されるのは理解している。私でも課長の立場なら、こんな与太話には耳を向けない。
情報交換がされなければ、捜査員の協力は得られない。
いつものことだ。
私は今まで一人で第四係に所属し、捜査し続けてきた。ただし一人と言っても、今回のように捜査に協力してくれる人物は少なからず存在する。
例えば子供にしか見えない法医学者、牧本悠子。
例えば笑顔のみを携える資料室室長、内藤徹風。
例えば学会から異端扱いされる教授、氷見夏彦。
彼らは私の素性を知りつつも力を貸してくれるが、彼らのような人間は稀だ。その極少数の中にもパートナーと呼べる人間は今まで一人としていない。単独行動が私の基本だった。
『何もあなただけが事件に当たっている訳じゃありません』
この警察官の彼の言葉を聞いた時は正直嬉しかった。あの時は私にも相棒ができたような錯覚がして。
共に同じ目標を目指す人間がいることは大事なことだ。仲間がいれば喜びを分かち合い、痛みや悲しみを共有することができる。喜悦は倍増し、悲哀は半減するようになる。しかしそれ以前に、彼は私が第四係――特異事件専門の部署にいることを知って、なおも手を貸してくれるのだろうか。
普通は奇異の目で見られるか、忌避されるか――中には、あからさまな敵意を向けられることもある。私はそんな人々の反応を何度も経験してきた。
それでも、この仕事を数年続けてもなお、私は人に拒絶されることが怖い。選んだ道は孤高の道だ。後戻りもしないとも決めている。覚悟を持っている。だがその孤独感を麻痺させてくれない。多分慣れてはいけないのだろう、少しでも人間性を失いたくなかったら。
今日はいつにも増して感傷に浸っていた。
目の前にある孤独な街灯は仲間を求めるように煌々と輝いている。それは今までも寡黙にその行動を取ってきただろうし、これからも自分の使命を全うするだろう。
まるで私みたいだ、と思わずにはいられなかった。
なら代わりに、せめてあの孤独な街灯に寄り添うようにもう一つの光を――
「……え?」
蛍火のような光。
しかし街灯よりずっと向こうに浮遊するように彷徨うが如く、そして前触れもなく消えた。
通常の精神状態だったならば、その光に気付かなかったのかもしれない。だが私は、この範囲の広すぎる張り込みにおいて常に感覚を鋭敏にさせ続けてきた。
あれは蛍火ではなかった。周辺は開発された住宅地で川は流れてはいないし、なにしろ季節はまだ春になったばかりだ。夏にはまだ早すぎる。それでも蛍火と形容したのはその色――炎にあるまじき緑色だったからだ。
それを見るや否や缶珈琲を設置してあるホルダーにいれ、アクセルを踏み込む。回転を増すエンジンと擦り切るような路面とタイヤの摩擦音を聞き、私の乗る自動車を急速発進させた。窓を閉める手間さえ惜しく、窓から襲い掛かる風が髪を舞わせる。
――あれは犯人だ。
私の直感を証明するかのように、警察無線が『男性が化物に襲われた』という内容の音声を割り込ませてくる。
苛立ちを抑えながら蛍火が消えた場所に急行すると、暗闇という靄は消え去り建築物が見えるようになった。
恐らく、何かの廃工場だろう。
今や活気はというものはなく、放棄されて久しいように感じる。割れた窓から風は吹き抜け、中の部屋は野晒しになっていることだろう。周辺は住宅地だ。人の住む場に囲まれて騒音だの汚染だのと言われ、撤退を余儀なくさせられたのかもしれない。それがそのまま解体されずに残っている。
緑色の光は確かにこの廃工場に入っていった。
ここで足踏みしていては逃げられてしまう――逡巡は一瞬、私は一人で追う選択肢を選んだ。
止めてくれる人間が傍にいれば、あるいは弟の忠告を思い出していればもう少し冷静な判断ができたかもしれなかったが、焦燥感という暴力的な情動は私を盲目的に突き動かしていた。
退廃の象徴とも言うべき工場の横に駐車し、警察無線のマイクで『犯人が現在地にある建物に逃げ込んだのを発見し、これから確保のために追跡する』という旨の報告をする。この自動車にはGPSが付いているので、わざわざ詳細な位置を知らせずとも応援を送ってくれる。
指示を待たずに自動車から降りると、天空を望めば星が良く見えた。今夜は月の沈んだ暗黒の舞台で、瞬く星がダンスを踊っているようだと思った。ここ数日天候が悪く、久しぶりの晴れだからこんな感想を持ったのだろうか。
私はトレンチコートの内側に右手を入れ厳かに恭しく、そして恐る恐る黒い金属の塊を取り出す。私の手で扱うには若干大きいそれは日本警察が採用した制式拳銃、S&W M37 エアーウェイト。自動車のライトで映し出され、つや消しされた鈍色を称えている。
拳銃使用の手順を記憶から引っ張り出す。最後に使ったのは一年前の射撃演習以来だが、明文化されているマニュアルそのものは見直してきた。
まず回転式弾倉を開き、実包が五発収まっているのを確認してから元に戻す。その際にかちゃん、と小気味良い音がした。そして引き金の後ろにはめ込んであった安全ゴムを外し、銃口を上に向けて構える。軽い拍子に暴発してしまう危険性があるので、その際には人差し指は引き金に掛けない。
犯人は体が腐敗してなおも生きる、見るに耐えない化け物。しかも人間を無残に殺す――いや、人間の形を蹂躙する手段を持っている。二人の犠牲者はその魔の手に掛かり『トゥールスチャ』に生贄として捧げられた。
そんな危険極まりない犯人に対抗するために銃を持ち出してきたのだが、使わないには越したことはない。しかしこれが最終手段だったとしても、いざという時に指がかじかんで即座に動いてくれなくては困る。予め缶珈琲で手を暖めておいたのは正解だった。
しかし持ってみると記憶している重量よりずっと重い。
これは実弾を撃ち出せる本物の銃。当たり所が悪ければ即死させてしまう武器。間違えれば人命を奪う代物。殺人の道具を手にしているのだ、現場に臨むのに何も感じない方がおかしい。
心理的重圧が必要以上に拳銃を重くさせているのだろう。
緊張で汗が滲む手のひらを誤魔化すように、右手で銃把を強く握り締めた。左手にはトレンチコートのポケットから取り出したペンライトを点灯させる。
準備は終わった。覚悟も決めた。
その身に決意を携えて、私は工場の入り口のドアを開ける。ドアノブは突き刺さるような冷たさだった。
ペンライトによって濃密な黒が一瞬で塗り替えられ、内装が鮮明になる。
吹き抜け構造により天井は高く、伽藍の様相を呈している。大きな空間に何に使用されるか見当もつかない作業機械が等間隔に並んでいるのを、入った一瞬だけ知覚した。
しかしその後、私は前屈みになってしまい、中の様子を探ることができなくなっていた。
腐臭。
悪臭。
死臭。
あらゆる嫌悪と劣悪が詰まった空気が肺と精神を汚染する。それは血と肉と脂肪の塊である死体に糞尿を良く混ぜて腐敗させたものを十倍濃くした、今まで感じたことのない強烈なものだった。
脂汗が噴き出し、目は次第に涙ぐむ。胃の未消化物が逆流し、酸で焼かれる感覚が喉の辺りまで迫る。しかし左手の甲で口を圧迫させ、込み上げてくるものを無理矢理精神力で押し込んだ。
もし刑事として一通りの経験を積んでいなかったなら、私は足元に吐瀉物をぶちまけていたかもしれない。それほどまでに、この空間に充満する瘴気には人間の体調を狂わせる禍々しさが含まれていた。
不快感極まりなかったが、私にとっては腐臭を放つ犯人がここに逃げ込んだ物証に思えた。犯人はもう目の前だ、あと少しの辛抱だと自分に言い聞かせる。呼吸するだけで吐き気を催す場所に今にも心が折れそうだったが、私の偏執病的な部分が意志を奮い立たせたことを強いた。
「警察です!」
私は悪い空気を全て吐き出すように叫んだ。
「隠れているなら手を上げて出てきなさい!」
声は残響となって溶けて消えていく。
無視しているのか、それとも言葉が通じていないのか分からないが、何の反応もなかった。私は犯人を探すために、悪臭極まる工場の中を進むことにした。
脳裏に過ぎる嫌な影を振り払うようにライトを辺りに揺らすと、自分で舞い上げた埃で光線が乱反射する。作業機械によってできた死角を専ら注意しなければならなくなり、光の届かない場所には常に不安が付きまとっていた。何でもない出っ張りが動物に見え、床にある色褪せた染みが顔にも見える。反響が激しく、些細な物音さえ合唱にも聞こえて神経を高ぶらせる。自分の呼吸音と足音が次第に強くなり、普通は聞こえないはずの心臓が鼓動する音までもが、体を伝わって知覚しそうになった時――
ぞわり、と触れるか触れないかの距離で肌を逆撫でするような感覚が私を襲った。一気に鳥肌が立ち、筋肉が引き攣った。この怖気を誘発させる原因は後ろから微かに発せられていた音にあった。
およそ人間のものではない発声器官から強引に捻り出される、低い呻きに似た旋律が繰り返されている。それは崇拝する神に奉げる呪詛であり、悍ましい律動に乗せた祝詞だった。
じりじりと体を占領するように歌が侵食するという例えようのない感覚に、反射的に翻った。
私の目前には、見てはいけないものが慄然と立っていた。
いかに心構えをしようとも容易く覚悟一切を粉砕する、私達の住む世界には決して許容してはならない『あちら側』の存在。
それは四肢、体、頭に相当する部分はあるべき場所にあったが、人間に似て非なるものだった。服といったものは着ておらず、外気に晒されている表皮は爛れ腐り、その下で蛇や蚯蚓のようなものが這い回るように蠢いている。顔に付いているパーツは崩れかかり、唯一残っている二つの眼球は泥のように濁り、私をぎろりと見つめていた。口は微かに動いて詩を紡いでいるが、上唇と下唇は原形を留めておらず、その隙間も癒着しているように糸を引いている。そして鳩尾の部分には、緑色の焔が燦然と輝いていた。
私はペンライトを地面に落としてしまった――衝撃で故障したのか光は消えてしまい、自らの緑光だけで浮かび上がった化け物は醜悪な姿を際立たせる。
「……っ!」
思わず声を漏らしそうになるが、代わりに私の体は最後の手段を行使しようとしていた。両手で握り締めた銃を化け物に向ける。銃口は小刻みに震えていた。
普通の人間ならこの無骨な凶器から死を連想し、両手を挙げて無抵抗の意志を示すかもしれない。あるいは膝を折り、許しを請うかもしれない。
誰もが死にたくないと思っている。
それは当然だ。生物にとって、死は最も避けなければならない穢れだからだ。生物は死を恐れ、戦き、遠ざけ、忌避する。
されどこの化け物にとって、死は空気より身近に存在している。
化け物は死を意識しない足取りで一歩進む。
私は死と呼ばれる底知れぬ恐怖を味わいながら一歩引いた。
「止まらないと、撃つ!」
最早私の警告に何の意味があるだろうか。既知外の化け物が従う気配はなく、放たれる威圧感が無慈悲に退路を断つ。真綿で首を締め付けるように少しずつ、けれども確実に追い詰められ――そして終に、私は外界と仕切る壁を背にしてしまった。そして更に一歩、化け物の距離が縮まった瞬間。
私は圧迫感に耐え切れず、原始的な生存本能に任せ、右手の人差し指に力を入れていた。
無差別な破裂音によって掻き消される祝詞。連続的に銃口から吐き出される閃光。両腕にかかる反動。仰け反る化け物。
これらの情報を総合して、化け物を撃ってしまったのだと理解する。
碌に狙いを定めもしなかったが、近接距離で外す道理はないだろう。普通なら人間の命を五つも奪う銃弾を受けて、生命維持に関わる器官を修復不可能までに破壊したはずだった。
警察官において拳銃は最終手段であり、安易に使用して良いものではない。それにも拘らず、私は引き金を引いてしまった後悔よりも、安堵の感情が先立っていた。
しかし――
「あでぃめ とるな ふうむ たぼん えちゃる いらしる りいお ふうむ やたんばら えぬみ してふ とぅうるすちゃ ふたぐん」
やはりそれは、束の間の休息にしか過ぎなかった。
致命傷かと思われた銃創からは詩の律動に合わせ、緑色に染まった腐汁が泡立ちながら滴り滑る。
化け物は雷を受けたかのように強張り、半ば閉じた口内から吐き出された生温かい飛沫が私に降りかかる。体中を痙攣させながら光を囲むように胸から五本の突起――指が形作られ、ぐちゅぎちゅと耳を背けたくなるような肉を掻き分ける音を立たせつつ成長していく。化け物の胸から生えた指は次第に大きくなり、手から腕に変貌を遂げた。汚濁に濡れた腕は緑色の光を握り、私を追い詰めるように目の前に突き出される。
轟々と踊り狂う光は焔の様相を呈しているのに酷く冷たく感じられ、私の体温を徐々に奪っていった。
微かに残る銃撃音が幻に思えた。単なる鉄の塊と化した拳銃は私の手から零れ落ちる。地面を金属で叩く音がしたが、私の耳にはもう届かなかった。
『それを避けなければならない。真実に触れ、無残な死を遂げないように』
『危険だと思ったらすぐに逃げた方がいい』
私に対しての忠告さえも恐怖に塗り潰され、埋め尽くされていく。
しかし、どうしようもならない存在を目の前にして完全に正気を失ってしまえば楽になったものを、私は未だに矮小な理性にしがみ付いていた。
ある女性は通常の生活を送ることが困難になるほどに、精神に重大な障碍を負った。二人の被害者は人間の尊厳と形を根こそぎ奪われた姿で発見された。
私も哀れな犠牲者として数え上げられるのだろうか?
汚穢と腐敗にまみれた想像が真実へとすり替わりつつある今、私は残酷なリアルから少しでも後ずさろうとするが、逃避を許さぬ壁にこれでもかとばかりに背中を押し付けるだけに終わる。
逃げる選択肢を失い、自分の運命を待つしかなくなった時に訪れたのは地面が崩れ去り、沼地にずぶずぶと沈んでいくような錯覚だった。悪意に満ちた歌が精神への侵食を強め、それは心が徐々に死んでいく戦慄に似ていた。そして眼前の人間のふりをした歪み爛れた肉塊は、私に訪れるであろう未来を暗示していた。
抵抗する意思を完膚なきまでに破壊し、私に越えてはならない一線を越えさせようと、化け物は変態を止めることを知らなかった。
辛うじて保っていた人の形が更に崩れ、明確だった眼球さえも萎縮して内部の硝子体が涙のように流れ出した。不自然に力が掛かっていた場所から骨が突き破り、やがて表皮は中身を留めておくという役割を放棄し、腹部に詰まっていたものが溢れ出るのを許す。元々は臓腑だったであろう液体は地面を斑模様に塗りたくった。
終には立つことさえも叶わずに自重によって押し潰され、骨と腐敗した肉塊が重なった。時間差で人間の頭蓋骨に酷似したものが地面を転がり落ちる。
崩れ果てた化け物の代わりに私の前に現れたのは、オーバーコートを羽織った怪人。ご丁寧にもフード付きで頭から足先まで全身を覆っている。表情を白塗りの仮面で代替しており、二つの切れ込みのような間隙には、確かに生きた人間の瞳を覗かせていた。
それは正に悠子が話してくれた姿だった。
予想外の事態だった。
今まで私の生命を脅かしていた化け物が目の前で倒され、影から怪人が登場したのだ。私は一瞬何が起こったか理解できなかった。
驚きの余りに呆然としているのを尻目に、怪人は手袋に包まれた拳で緑色の光で包まれた何かを握り潰す。掌の上にあった焔の光量は急激に下がり、指の間からは逃げ場をなくしたように粘着性のある液体が零れた。線虫のような蠢いている物も混ざっていたが、それも溶けて見えなくなった。
思えば化け物は胸から自身の器官である腕を生やしたのではなく、怪人が化け物の胸を貫いたのだ。
「悪い夢は終わりだ」
唯一の光源が失われたことで全てが影に溶ける中、くぐもってはいるが理性的で――それでいて何故か悲しげな人間の声が私に届いた。
建物の僅かな隙間からも複数の赤い光線が侵入する。警察から応援が来たのだろうか、聞き慣れたパトカーのサイレンが接近していた。
暗順応により徐々に目が慣れてくると、怪人はかぶりを音のする方に向けている姿が見えた。
数分後には大勢の警官隊が工場内に雪崩れ込む。明らかに不審人物である怪人は取り押さえられるだろうが、当然ながら本人は拘束されることを望まないだろう。用が終わったとでも言うように踵を返し、早々と立ち去ろうとしていた。足音と微かに服の擦れる音が段々遠ざかっていく。
「待て!」
懇願の叫びが広い空間に木霊する。様々な疑問と無益な回答がリピートされる中、私は私に『行くな』を口に出せた。
このままでは重要参考人として怪人は連行され、取り調べを受けさせられるだろう。怪人の証言から真相を究明するのも不可能ではない。
しかし、そこに私の入り込む余地はなくなるだろう。捜査本部が事件の指揮を執っている以上、嫌われ者である第四係に怪人の取り調べは任されないのは目に見えている。
だからこそ、今この場で怪人から直接話を聞きたかった。
『普通』に縛られた人間が作った報告書を読むだけでは満足できない。化け物はいかなる方法で殺害したのか。怪人自身は事件にどう関わっているのか。私は超常的な事件の全貌を知りたかった。
「あなたには聞きたいことが――」
「………」
怪人が何か言ったのだろうか。
呟いていたようだったが、私には声が小さすぎて聞き取れなかった。
私は遠ざかる怪人に追い付こうと一歩踏み出そうとする。だけども足は鉛のように重く、そして求めるように伸ばす手は怪人を捕らえることができない。
「何を知っているの」
私の続けざまの質問に、痺れを切らしたように怪人は振り返り、コートは急な制動について行けずに空気を孕んで大きく広がる。その動作の端々からは苛立ちが見え隠れしていた。そして放つ怪人の二の句は、自分が警察官であることを忘れさせるほどに、私を驚愕させた。
「これ以上こちらの領域に踏み込むな。あんたの大切な物を失うことになる」
真っ先に思い浮かんだのは、弟の樹。
意外な返答に頭がついていかなかったが、すぐさま我を取り戻す。しかし、次の瞬間には怪人は最初からどこにも存在しなかったかように、その気配さえ消失させていた。
照明がなくとも、私の視覚は確実に姿を捉えていたはずなのに。慌てて周辺を注視するも、目標を失った私の視線は当てもなく泳がせるしかなかった。
だが、怪人を探す時間は私には少しも残されていなかった。
大勢の地面を打つ音が聞こえ、それらは取り囲んで私をライトアップさせる。暗闇に慣れた目に強い光は痛覚として認識され、堪らずに反射的に左手で遮る。
私の連絡に応じて工場に突入した制服警官達は、胃を鷲掴みする臭いとただの腐肉となった化け物の成れの果てに動揺していた。
ここでも視覚と嗅覚の組み合わせは最悪の相乗効果を発揮している。脂汗をかいて具合を悪くしている者はまだ軽い方、非情な状況を知覚した瞬間に踵を返した者もいる。逆流する暴力に耐えられず、本能的に外に戻らざるを得なかったのだろう。
「塔ノ吾さん、大丈夫ですか!」
症状が軽い警察官の一人が早足で私に駆け寄って来る。
その誠実さが窺える声は前に会った時と少しも変わっていない。事件現場に送ってくれたあの警察官の彼は、自分の体の不調さえ圧してくれた。
私が彼を見た途端に目眩が押し寄せ、視界がぐらりとずれる。身体的は言うまでもなく、精神的な方も激しい疲労と倦怠感を訴えていた。
魔女の鍋の底を彷徨い歩くような悪夢を経て、今まで正気を保てていたのが一種の奇跡なのだ。
しかし奇跡は長く続かない。
今まで感じなかった疲労を覚えたのは、真っ当な現実世界の住人である彼を目の前にして、緊張の糸を切ってしまったからだろう。
揺らいだ脳のまま平衡を失った体を立て直そうとするが、私の足は意に添わずに縺れる。空気が通り過ぎるような声を不意に漏らしてしまった。
糸の切れた操り人形のように弛緩した体は、自身を支えることもできずにバランスを崩して倒れそうになる。だが私は地面に突っ伏すことはなく、彼に受け止められていた。
「こんなになるまで――一体何があったんですか」
彼の真面目そうな顔立ちが、今では濃密な瘴気に当てられて青ざめている。どこまでも前を見据える実直な青年の目も生気が殺がれていた。
「あなたの方こそ大丈夫なの?」
「私より、自分のことを考えて下さい」
あくまでも他人を気遣う優しい彼。
誰よりも長い時間、悪意を伴った空気に侵され続けていたのだ。鏡の持ち合わせはないが、私は誰よりも酷い顔をしていることだろう。顔面蒼白か――それを通り越して土気色になっているかもしれない。
それでも心配をかけさせまいと笑顔を作ったつもりだったが、どうも失敗したらしい。いつか、その道のエキスパートに作り笑いの極意を教えてもらうべきか。
「もう立てます」
腕の中はとても心地良かったが、ずっとこうしているつもりはなかった。私は彼の傍から離れ、気付け代わりに化け物が倒された場所を見やる。
腐肉のこびり付く倒錯した化け物の頭部が私を見返していた。毒を以て毒を制すやり方だったが、それ以外に方法は思い付かなかった。
犯人である化け物がこうなってしまった以上、事件の一応の収束は見せるだろう。だがまだ事件は終わっていない。ただ被害者が出なくなったというだけで、真実は未だに闇に覆い尽くされている。その闇を振り払い、根本的な解決をしなければ、また同じような事件が起こらないとも限らない。
私には真相の究明という使命が残っていた。
犯人は死んでしまったが、手繰り糸が切れてしまった訳ではない。化け物の死体を解剖に回せば何か分かるはずだ。それは悠子に任せるとして、私は私のやれることをしなければならない。
「ここに入った時、オーバーコートと仮面を着けた怪人を見かけなかった?」
「いえ、見ていません。この事件と何の関係が?」
彼は真剣な面持ちで問うた。完全な仕事の顔になっている。
「仮面の怪人が――事件の鍵を握っているかもしれないのよ」
化け物を一瞬で倒した仮面の男。少なくと意思疎通ができ、化け物より話の分かる怪人から話を聞くことが、今の私ができることだろう。
正気を容赦なく押し潰すような狂い捩れた凶夢から、汚らしくも美しい現実に戻ることを強いた怪人の声に、私には聞き覚えがあった。
一度目はクリスマス事件前の電話で。二度目は引ったくり事件の直後。
予想が正しければ、怪人の正体は間違いなく――