A-part 7
「なんだい、それは」
資料室で内藤徹風は新聞紙を広げていた。一面には連続変死体発見事件が大きく取り上げられている。マスコミが市民感情を代弁し、自称専門家の的外れな犯人像予想が載っている。いつまで経っても犯人さえ特定できない警察に業を煮やしている、といった内容だ。
しかし先ほど登場した小包の方が魅力的なようで、興味はこちら側に移っている。
今朝、第一課にある私に充てがわれたデスクに届けられていたのがこの小包だ。警察には嫌がらせとして小動物の死体や汚物――ごく稀に爆発物なんかも送られてくる。状況だけを見れば明らかに警戒すべき代物だが、箱に貼られた差出人は見知った人間だった。
「氷見教授から送られてきたんですが、本人に連絡が付かないんですよ」
「帝都大学に居るんじゃないの?」
「それが、どこかに出掛けているらしくて連絡が取れないんです。貴方なら何か心当たりがあると思って」
大学に問い合せてみても、教授は海外に旅行しているらしくコンタクトを取るのが不可能だった。
「僕に聞かれてもね」
内藤徹風は肩をすくめる。期待はしていなかったので落胆はないが。
「やはり、話は開けてからでしょうか」
私はペン立てからカッターナイフを取り出す。ぎちぎちとカッターナイフの刃を押し出し、それを小包に当てて引き裂く。開けた中には厚い書籍と付箋が挟まった古めかしい手帳、ファイルバインダーが見えた。それらを取り出すと間に挟まっていたのか、メモ紙が一枚ひらりと落ちた。
「教授が書いたものだね」
メモ紙にはこう書かれていた。
『突然で済まない。私は今、手が離せない用事で大学を離れている。しかし、君の担当している事件も無視できなかった。
君宛に事件に関係あると思われる資料を送った。どうしようもない事態に直面した時、または回避できない危機が迫った時、私の代わりにこれを使ってくれ。その判断は君に委ねる。
これらの取り扱いには細心の注意を払い、人の目には触れない場所に保管して欲しい。
本当はこれを君に送るべきではないと思っている。だが事件を収拾しうる方法を知る者がいないのも、また避けなければならない。
願わくは、その機会が来ないことを望む』
「多分、教授が向かったのはポンペイ島だろうね」
内藤徹風が横から口を出す。
「確か四年前に遺跡が発見されて、そこで新しい出土品が発掘されたんじゃないかな。発掘自体は重機だけではなく人の手も使って半年も掛からないんだけど、その前の準備が長い。数年待たされることもある。あそこは興味深い物が出るので有名だからね。恐らく教授はそれの調査に行ったんだろう」
氷見教授の門弟は自分の得意分野に、普段より少し饒舌になっていた。
私は話の内容の半分も頭に入っていなかった。目の前に広がる冊子の束。専らそれに目を奪われていたからだ。送られてこなければ再度教授の研究室に赴き、催促していただろう。しかし不安を解消させるための情報が今、大した労力も掛けずに手の届く距離にある。
私はそれを手に取る――逡巡は無かった。
「どんな内容なのか詳しくは知らないけど、これは『もしも』の為の最終手段じゃないのかい?」
「既にその『もしも』は起きてるんです。もう遅いぐらいですよ」
内藤徹風はくくと静かに、されども心底面白そうに声を漏らす。
「何か変ですか?」
「いいや、なんだか生き生きしていると思ってね。存分やってみてくれ」
早速調べに掛からなければならない。まずは吸い取られるようにして手に取ったバインダーからだ。かなりの厚さで最初から頭を悩ませそうだった。
資料はかつて存在した信仰について記したものだった。信者達は天文学的に重要な日に非倫理的な儀式を執り行い、そこで洗礼を受けた者は永遠の時間を生き続ける不死者となる。その代わりに肉体は醜悪に腐敗し、二度と元には戻れなくなる。彼らが崇拝したのは死と腐敗と衰退を糧とし、緑色の火柱で表現される悪なる神。その名は『トゥールスチャ』。
その記述を目にした時、私は偶然では片付けられない一致に戦慄した。今も精神病院で治療を受けている女性から聴き出したものと一致している。その他にも今回の事件との関連性が次々と見い出せている。
バインダーと一緒に出てきた古めかしい手帳もそうだった。布の装丁は経年劣化とは別の不自然な染みだらけで黒く変色していた。日付を確認すると九十年前――大正時代に使用されていたものだと分かった。この頃の手帳はスケジュール機能がなく、メモ帳に幾つか便利な情報が載っているようなものだ。
あの手帳の持ち主の場合、簡易的な日記としても使用していたらしい。これはこれで当時を語る重要な資料に違いないだろう。しかし残り十数ページまで行ったところから様相が変化した。付箋を張り付けているページからだった。
手帳の持ち主は信者達の儀式を目撃し、その内容について描写していた。余りに卑しい暗澹たる魔宴の狂騒と『トゥールスチャ』の名を呼び、賛美・崇拝する呪文にも言及されていた。
ページが後になって来る程読み進めるのに時間が必要だった。誤字脱字と共に、布の装丁と同じ染みが増えて難読を極めているのだ。持ち主の思考力が落ちいるのだろうか、譫妄状態で書いたような文章も見られた。終盤では大部分が読解不可能となっているのだが、辛うじて読めた文章の一つにはこう書かれていた。
『耳も削げ落ちてしまった。
私の体から腐臭がしていたのも、もう分からない。だが次第に五感が鈍くなる代わりに、怪しく揺らめく緑色の炎や忌まわしい長笛の音が感覚を蝕んでいる。
筆に力が入らなくなってくる。
逃げる時に彼らが私に触れたせいだ。あの時に呪いを受けたのだ。
腐っていくのが止まらない。
そのまま死ぬのか、それとも彼らと同じ姿になり、悍ましい彼らの一員に――』
この手帳の持ち主は崩れゆく体で書き綴っていたのだ。その証拠に隣のページには手の形がはっきりと浮き出ている――この染みの跡は腐汁と剥がれた皮膚で出来たものだ。
不運にも気付いてしまったその時、反射的に手帳を投げ出してしまった。バサバサと鳥が羽ばたくような音を立てて暗がりに消えてしまう。
「………」
私は自分の手を見た。震えが、止まらなかった。息苦しい。叫びたい気分だった。
私達は目隠しで綱渡りをさせられている。
世界はこんなに危ういものだったのだろうか。
これは既存の価値観を破壊させる。相応の覚悟で臨んだ私でさえ混乱を禁じえなかったのに、何の心構えをしていない社会に流せばどうなるだろうか。幾つかの補強材料と共に人目に晒せば、世界に混乱をもたらすことを容易に想像できるからだ。
これを衆目の前に晒してはならない――今は教授の懸念していることが理解できる。
「落ちたよ」
内藤徹風が手帳を拾い上げた。
だが私には絶望的な暗示を突きつけているように思えた。
いくら目を背けようとも、逃れられるものではない――と。
私が放り捨てた忌まわしい手帳を目の前に出す内藤徹風が、不確かでぼやけた、コールタールのような流動性を伴う暗い影に見える。さながら、私が錯乱するのを嘲りながら心待ちにする悪魔のような。
「居眠りするのは感心しないな」
急に視界が開け、現実に引き戻される。
「居眠り?」
内藤徹風はいつもの様式である。カップを手に持って珈琲から発せられる香りを堪能している。
「ボーっとしていたのは確かさ」
一瞬意識が飛んでいた?
見たのは幻覚?
「お疲れだね」
「……休息は充分に採ったと思ったんですが」
眉間を指で揉む――どうやら私は一日二日で回復しきれない所まで疲れきっていたらしい。出来ることなら早く事件を終わらせよう。ゆっくり休暇をとれば、幻覚も気持ち悪さもすっかり消えているに違いない。
「頑張っているね。ご褒美に君の分も淹れてくるよ」
内藤徹風はおどけた。
資料室には簡易的だが給湯室が隣接しており、内藤徹風は豆を挽くところから珈琲を淹れている。そこに専用の機器と珈琲豆が常備されており、勿論豆の種類も選別している。ここで珈琲を淹れるのは自分の仕事だと言って憚らず、私には決して任せてはくれない。気分によって配合や淹れ方を変えるほどの拘りようだ。
しかし私には珈琲の繊細な味が分からない。
内藤徹風はそれでもいい、と言った。