A-part 5
帝都大学――日本の五指に入る大学であり、様々な学科が混在する総合私立大学である。収容する学生の人数は膨大であり、それに比例してか敷地面積も広大だ。一度足を踏み入れたら案内板を見ても迷ってしまうほどで、新入学生の多数は迷子になるのが通例となっている。
私も仕事で何度も足を運んでいるが、やはり最初は方向感覚を狂わされて迷ってしまう複雑さだった。一部の人間からは『迷宮大学』と揶揄されるほどに、この学校は利便性が悪い。しかし、その不親切さにも歴史に裏づけされた理由があるらしく、学科の新設と同時に無計画な建築が原因だと言われている。
例によって、私は迷っていた。
学生が行き交い談笑するキャンパスには懐かしさを感じ、私も学生に戻ったような錯覚に陥るが、そんな気分に浸る余裕はなかった。
いつも用がある場所ではなく、文化人類学研究室という未知の場所に赴くのだ。以前購入した帝都大学の地図を利用し、何度かトライしてみたが、一向に目的地に到着する気配がない。
そこらにいる学生に聞くという手もあるのだが、自分の利用する施設以外は知らないという者も少なくない。
私は諦めてここにいる親友の力を借りることにした。
親友のいる場所なら正に慣れたもので、地図を見ずに迷わず進むことができる。
法医学研究室。
親友である牧本悠子が勤める、司法解剖の要となる場所の一つだ。
私は実験室のドアをノックし、失礼しますと言って中に入った。
「あ、塔ノ吾さん」
返事をしたのは、二番目の被害者の解剖に参加していた男子学生の一人だった。
「牧本さんはどこですか?」
一応、苗字で聞いてみる。
「ゆっこですか? 飯を買いに行くって言ってましたから、すぐに帰ってくると思いますよ」
悠子は親しみとイタズラ心な悪意を込めてられて、『ゆっこ』と研究室の皆から呼ばれている。因みに、本人からは嫌がられている。
バッグから取り出した持参してきた水筒で珈琲を飲みつつ実験室で待つこと五分、悠子が帰ってきた。買い物袋を持ち、その中にはペットボトルとカップラーメンの容器らしきものが入っていた。
「およ、皐月ちゃん」
「こんにちは、ゆっこ」
悠子は私の呼び方に、信じられないものを目の前にしたような表情をした。
「皐月よ、お前もかぁ」
大袈裟にアクションしながらへたり込む。シェークスピアの一節をもじって、今まで信頼してきた相手に裏切られたことを表現した。
「で、何の用?」
それでも立ち直りは早かった悠子だった。
「文化人類学研究室に案内して欲しいんだけど」
「ぶんかじんるいがくけんきゅうしつ、ぶんかじんるいがくけんきゅうしつ……」
未知の言語を意味も分からず音だけを真似するような言い方で、悠子は呟きを繰り返す。
彼女は九年もの間、帝都大学に通い詰めているのだ。知っていておかしくないはず――と言うより知っていて欲しい。そうしなければ話が進んでくれない。
「……ああ、文化人類学研究室ね。おーけー、この私に任せとき」
ようやく得心して自信ありげに言ったが、本当に大丈夫なのだろうか。自分で頼んでおいてだが、私は不安になってきた。
「よっしゃ、そうとなったら行くで」
悠子は歩幅の短い足で目的地に向かって歩き始めたが、どうしても浮ついた気分でピクニックに行く子供を想起せざるを得ない。そこが無意識に愛らしい彼女を演出させているのだろうが、私は笑いを堪えるのに必死だった。
「ん?」
「な、なんでもない……」
ふとしたのか悠子は振り向いたが、すぐさま私は目を逸らしながら挙動不審気味に否定する。幸い悠子気付いていないようだった。
私は悠子の案内するままに、法医学研究室実験室から三歩進んで二歩下がるが如き道のりを進んでいた。
「そっちはどう? 何か分かった?」
悠子と会ったのは道を尋ねるだけではなく、遺体調査の進捗を聞くためでもある。
「普通に腐敗して骨だけになった遺体だということが分かった」
「それって何も分かってないってこと?」
「端的に言えばな。特に異常な点は見られへんのや。でも一晩で人間をあんな状態にしたなんて、まるで魔法を使うたみたいやね」
悠子は歩きながら、科学者にはあるまじき言葉を口にする。
魔法――皆は一概にこの言葉を使用するが、その意味するところは多岐に渡る。総じて科学では説明できない現象を引き起こすという共通点を指して、悠子は言っているはずだ。
だが科学は必ずしもオカルトと相反する存在ではない。意外かもしれないが、超常現象を真剣に研究している者もいない訳ではない。彼女も法医学者である前に科学の徒の一人でもあるが、魔法などのオカルト的な存在には偏見を持たない貴重な存在だ。
確かに現状の科学では解明できない現象も存在する。だからこそ超常現象を徹底的に調べ、新たな原理や法則が発見されるならば、それは歴とした科学に成り得る、と彼女は言う。
悠子が私のような人間と付き合い続けられているのは、偏に彼女のスタンスにあるだろう。
「皐月ちゃんはそういうの、得意だったはずやね」
「得意と言うより、専門にしているというだけなんだけどね」
「相変わらずやねえ、皐月ちゃん」
何が相変わらずなのかは私には不明だ。
「そっちは何か分かったこと、ある?」
逆に悠子が私の進み具合を聞いてくる。
「関係がありそうな証言が一つ。今向かってる文化人類学の教授に意見を貰いに行くのよ」
「そなけったいなモン手に入れたんか」
「まあね。それで、これからお伺い立てする氷見夏彦教授の噂は聞いてる?」
氷見夏彦。
この人物については予め調査しておいた。
帝都大学教授。年齢六十二歳。
数々の論文を仕上げてはいるが、そのどれもが奇抜な説から展開されるものであり、周りから異端者扱いされている。どうも氷見教授は学会からの受けが良くないらしい。
調べていく内に私の中に一種の親近感が沸いてしまっていた。
学会と警察。
世界は異なるが、私の立場と似ているのだ。
「うーん……直接見たことないけど、変人という噂は聞いたな」
悠子が言ってはいけない単語の一つに『変人』というものがある。
私が今更指摘するまでもないが。
「そうそう、噂と言えば……皐月ちゃん、こういう話好きと思うんやけど」
私にとって噂は貴重な情報源だ。
情報を手に入れる手段としては玉石混交――石のほうが圧倒的に多いのだが、たまに真に迫る手掛かりが流れている場合がある。友人から友人へ語り継がれると、誇張と装飾やバリエーションなどの尾ひれが付いてしまっているが、事実が源泉であることも少なくないのだ。
勿論、虚実の中の真実を見極める目が必要となってくるが、そこは経験が必要となってくる。
「仮面を被った怪人が夜通し歩き回っている話や。そいつは顔がないのを隠すために仮面被っているんやけど」
「顔が、ない?」
私は意味深げなその言葉を呟く。
「そや。あちこちで目撃されてる。ビルの屋上に立ってたり、建物と建物の上を跳んで渡ったり――歩道を人間が追いつけない速さで走っていたりもしてるらしい。一体そいつが何の目的を持って行動しているか分からんけど、一説によると失くした顔を探しているらしい」
「………」
「久しぶりに学食行ったら、そう耳にした」
あるべき場所にものがない、というのは異常な状態だ。それを見て人は興奮を覚え、魅了、恐怖、驚愕、不安などの様々な反応をとる。
ミロのヴィーナスがその典型的な例だろう。
この作品には両腕が『無』い。
『無』という状態は無限の比喩でもある。人々は思いを馳せると同時に存在しない腕に想像力を掻き立てられ、愛され続けている。もし腕が存在してしまったなら、ここまでの魅力はなかったに違いない。
この噂も『無』という魅力が原動力となって広まったのかもしれない。
「――ここが文化人類学研究室のある棟や」
かなり時間が掛かったような気がするが、やっと到着した。
私は建物を見上げる。
大学構内にある建築はなべて同じような外観をしており、それが迷う原因の一つなのだが、この棟も例に漏れずに他と区別が付かなかった。
「ありがと。帰りも頼むね」
私はあんたのナビやないんやから、と言いつつ悠子は来た道を戻っていった。
「さて……」
私は初めて見るはずなのに既視感が拭えない建物に入り、目的の部屋を探す。何階にあるか悠子に聞いておけば良かったな、と少し後悔しつつも下の階からドアの名札を見ていく。
一階、二階、三階。
四階に文化人類学研究室は存在した。
黒いドアには細かい白字で『文化人類学研究室』とある。
私は身なりを整えてからノックをする。
「どうぞ」
向こうから低い音声が聞こえてきたので、それに応えて中に入った。
部屋は思いのほか清潔だった。私は埃を帯びていて黴臭いような薄暗い空間という先入観を持って望んだのだが、全く以ってそんなことはなく、清潔でよく掃除されている。しかし壁にある棚には資料であろう書籍は年月を経て古びた物を含めてずらりと並び、初対面の者に近寄りがたい威圧感を発していた。
「警視庁第四係の塔ノ吾皐月と申します。氷見教授のご意見を頂きに来たのですが」
氷見教授と思われる男性は後姿でパソコンのキーボードを叩いていたが、中断してこちらを向き立ち上がる。髪には白が混じり顎も細くなって全体的に痩せ衰えた印象が目立つが、青みがかったグレーのスーツがそれを更に細く見せる。しかし一概に老人と称するのが憚れる程に、丸眼鏡を掛けた向こうにある瞳には未だ力が篭っていた。
「こちらこそ。内藤君から聞いているよ、私が氷見夏彦だ。主に原始人類の信仰における変遷を研究している。さ、椅子に掛けてくれ」
氷見教授は私を部屋の隅に設置してある接待用のテーブルに導き、自分は珈琲メーカーに入っている液体を用意してくれていた。
「砂糖かミルクは要るかな?」
「いえ、結構です」
ブラックで飲むのを確認すると、教授は二人分の珈琲だけをテーブルに置いて自らも座る。
珈琲の芳しい香りは嗅覚を鋭く刺激していた。
「内藤君が警察に入ったのは知っていたが、まさか君のような部下を持っていたとは驚きだよ。どうだ、彼は上手くやっているかね?」
「残念ながら私は直属の部下ではありませんが、良く助言を頂いています。彼についてですが……仕事の方は上手く、やっていると思います」
内藤徹風が資料室勤務を特に不満に感じていなさそうなので、ある意味上手くやっているとは言えなくもないが――それ以上の思考は珈琲で飲み込んだ。
しかし、今まで内藤徹風は自分の出自については何も語らなかったが、このような教授の下で学んでいたとは予想も付かなかった。あの長身痩躯の男がフィールドワークの一環として人とコミュニケーションを取る様子が容易に思い浮かばないからだ。
「ところで、用件の方を済ませたいのですが」
「おお、そうだったな。ある事柄について意見を貰いたいと内藤君からは聞いているのだが、何かね」
私はバッグから取り出した小型のICレコーダーをテーブルに置く。
「こちらです。三月七日の深夜に発生した、事件の被害者の証言を録音したものになっています」
「……証言?」
「そうです。一部に刺激が強い場面がありますので、心構えをしておいてください。それでは始めます」
教授は訝しむように黒を基調としたレコーダーのボディを見つめる。
これは一見変哲もない機械の箱だ。だが、この中には身の毛も奮い立つ物が入っている。私はこの箱から音のみの化け物を解き放った。
最後に女性の悲鳴と担当医の怒鳴り声。
何時耳にしようとも、その度に私は不安に駆られる。この呪文は、まるで一字一句に心を震え上がらせる意味を持ち、音節の隙間からは暗闇を仄めかしている。人間の女性の声を借りていても不気味さは微塵も隠しきれていない。頭の中に直接響くような、知識がなくとも本能的に意味を理解させる未知の言語に私は怖れを感じていた。
教授の様子を見る限り、彼も同じ印象を抱いているようだった。
いや、それにしても……。
幾年もの苦悩を窺わせる額に浮かぶ汗が、次第に張り詰めていく緊張感を物語る。その内の一つがテーブルに落ち、水滴は表面張力によって半球を作った。教授は終始無言だったが、唇が微かに震えていた。
私からすれば、氷見教授の態度は明らかに過剰に思えてならない。最後のやり取りに驚いて身を震わせてしまうのはまだしも、これはそれ以上だ。気丈に振舞っているが、同時に何かに脅えているようにも見える。特におかしくなったのは呪文を聞いてから――まるで信じられないものを目の前にしてしまった反応をしている。
「連続変死体発見事件はご存知でしょうか。私はこの録音が事件と関係があると踏んでいるのですが――」
私は教授の態度を不審に思いながら、自分の内に存在した刑事の勘を述べた。
巷ではセンセーショナルな猟奇殺人事件として、連日連夜テレビや新聞で報道されている。積極的に情報を集めようとしなくても自然に耳に入ってくる程であり、今や誰もが事件の異常さを知っている。教授も例外ではないはずだ。
しかし教授は私の言葉を耳に届いていないのか、未だに驚愕を表す言葉を並べている。
「ああ……そうなのか」
そして意図せず導き出してしまった結論に教授は息を飲んだ。口端から漏れた言葉はただ重く、自らに下される無慈悲な死刑宣告の如き響きだった。
「氷見教授……」
尋常じゃない様子に恐る恐る声をかけると、教授は顔を上げた。
私はその際に教授の黒々とした瞳を覗いてしまった。
戦争による心的外傷を負った患者を、何人も診断する心理カウンセラーの中には、自分も戦争体験を夢に見たり幻視したりする者がいるという。『目は口ほどに物を言う』とされるように、瞳には人間のあらゆる過去と今まで蓄積された感情を宿している。親しき人との睦まじい愛情や賛同しない他者への憎悪。共感を得た仲間といる安堵――そして理解を越えた存在に対する恐怖。しかも、それは眼球という受容体を媒介として他者に伝染する。
私の場合、教授の瞳の中からとてもとても深い闇を見た。底なしの泥沼に神経性の毒物を入れたような麻痺感。自己を規定する境界を揺るがしかねない不安。いつまでも堕ち行く抗いようのない奈落。強烈なイメージを一緒くたに流し込まれてしまった。しかしこれでさえ、教授の記憶というフィルターを介して見た状態なのだ。
「事件から手を引くことだ」
声色には有無を言わせぬ明らかな拒絶の意思が込められ、体の前で組まれた手は震えるほど固く結ばれている。
「それは、何故ですか?」
「人には知らなくて良いことがある」
教授は苦悶に満ちた表情で言った。
「アメリカのプロヴィデンスに生まれたある小説家は、星間宇宙に存在する脅威に気付いていた。彼はこの事実を世界に知らしめようと、危険を犯してまでその存在を仄めかし続けた。残念ながら生前はほとんど見向きされず、若くして亡くなってしまったが」
皮肉と苦悩を含んだ声で、心底を吐き出していく。
「二人も運悪く真実に近付き過ぎてしまった者達なのだ。そして我々は悍ましき存在を知っているからこそ、それを避けなければならない。真実に触れ、無残な死を遂げないように」
私の瞼の裏には未だ鮮明な映像が残されている。
異常な現場。
解剖台に置かれた人間の死を逸脱した死体。
何かを目撃してしまった女性。
私が見たこれらが『悍ましい真実』のほんの一部でしかないのなら――人を容易に恐怖と不安に駆り立てる、希釈されていない根源とはどんなものなのだろうか。教授は一体何を知ってしまったのだろうか。
――想像してはならない。
これは直感だ。幾多の経験から無意識に導き出された回答ではなく、本来生物が備わっている能力。脳裏に描いたところで有害の二文字でしかないことを、全身の細胞が訴えている。
「それでも――」
私は一つ一つの痺れるような慟哭に耐えながらも、静かに語気を強めて言った。無意識に各所の筋肉が緊張し、精神を保たせようとしていることに気付かせられる。
こうまで特異事件に関わりたがるのは、超常現象の存在を証明したいがためではない。ましてや難事件を解決し、名声を得たい訳でもない。
ただ未知であることが、厭で厭で堪らないのだ。
全てを詳らかにしなくてはならない。箱の中身を、見えない死角を、薄暗い隙間を、混迷の闇を、白日の元に晒したくなる。シュレディンガーの猫が目の前にあるならば、それを殺さずにはいられない。
この偏執病にも似た、本能より上位にある衝動。深く心の根底にセットされた行動基準。
「私は捜査を続けます。事件を解決するには、その真実に触れる必要がありますから」
それが今の私の一部を構成し、盲目的に突き動かしている。
「………」
一時の静寂。
教授が私の意志の固さを確認するために要した時間だった。
「では一つ、勇敢で無謀な探索者に助言を送ろう」
教授は心底呆れたような口ぶりだった。しかし、それでも忠告など心配をしてくれるとは、氷見夏彦という人物は結構な御人好しなのかもしれない。
「真実を知ろうとするなら、予め心構えをしておくべきだ。増して、自らの価値観を劇的に一変させるものなら。今言えるのはそれだけだ」
恐らく、教授がこれまでの経験から得た箴言なのだろう。しかしこれに至るまで、一体どのくらいの代価を支払ったのか。
荷が勝ち過ぎる言葉だった。
「そろそろ、お暇します」
私は腕時計を見る素振りをし、レコーダーを仕舞ったバッグを持って席を立つ。
氷見教授が何か知っているのは反応から見て明らかだった。しかし何かを聞き出すにしても、一旦時間を変えた方がいい。これ以上居座ることは逆に機嫌を損ねかねない。
粘っても良い返答は貰えないと判断した私は辞去することにした。
時計を見た素振りをしたのは、何か用事があるせいでここを立たなければならないことを強調したかったからだ。実際に急な用事がある訳ではない。
「何かあれば、こちらに」
差しだしたのは私の名刺。内藤徹風のものとは異なり、細々と私の肩書と連絡先が並べられている。
それを手に取り眺める氷見教授。
「貴重なご意見、ありがとうございました」
「礼を言われるようなことは何もしていない」
私は深く一礼をした。