A-part 4
午前〇時五十三分、携帯電話から女性からの一一〇番通報があった。
内容は意味不明なもの。突拍子もない通報にイタズラかと思われたが、電話の向こうで女性は余りにも錯乱していたために最寄りの警邏中の警察官が派遣された。
現場に駆けつけた警察官は酷く怯えている女性を発見した。保護した女性に暴行の痕はなかったが取り乱していたので病院に収容され、その後PTSD――心的外傷後ストレス障害の疑いがあると診断された。
PTSDとは人の対処能力を超えた圧倒的な体験を受けたことにより、その体験が強烈なストレスとなって日常生活に支障をきたす障害である。
女性が何らかの事件に遭遇したのは間違いないが、通報の内容はPTSDによる非現実的な経験から逃れるための症状と判断された。
だが私はこの出鱈目としか思えない報告を聞いた時、私の持つ隠されたものの琴線に触れてしまった。
この通報の内容は女性の脳内で作り上げた架空の事象ではなく、現実に起こったものと考えるべき――そして犯行が行われた時間帯、地域と共に似ている変死体事件に何か関係があるのではないか、と私の第六感が囁いたのだ。
この場合の第六感は超心理学ではなく、過去の情報の集積から導き出される無意識的な発見であり、つまりインスピレーション――私は俗に言う『刑事の勘』を得るに至ったのだ。
私は得られたインスピレーションに従い、女性から直接話を聞くために行動した。
最寄り駅を降り、精神病院直通のバスに乗り換える。バスが丘を登ると、住宅地からは完全に切り離されていることに気付く。精神を安定にさせる効果があるのだろう、丘の頂上には外から見ても分かるぐらいに木が茂っていた。圧迫感を生じさせるものは取り除かれ、ここが病院と言われなければ分からないほどの建築が存在していた。
バスを降りて病院の内部に進入する。一種の高級ホテルを思わせる様相で、暖色系の壁紙や塗料を使用している。見回しても白衣を着けている人間はいない。患者を緊張させないための処置なのだろうか、普段着か、それに順ずる服装を着用している。
私は受付で自分の身分と名前を言うと――既にアポイントメントは取り付けてある――看護師であろう方が対応した。女性のいる部屋を聞き出し、その場所へ向かう。
案内されたのは二階の病室。部屋の前には女性の担当医らしき人物が立っていた。一通りの挨拶を交わし、そこで女性と会話をする上での諸注意を聞く。
担当医は同席すること。女性をなるべく興奮させないこと。面会時間は最大で十分間。医師が危険だと判断したらすぐさま中止。
私にとってこの制限時間は足りないと思ったが、女性に掛かる負担を考えれば仕方がないのだろう。
ドアをノックし、部屋に入ると『家』が出迎えた。
温かい家庭はこんな部屋を使っているのだろう、とモデルにしていい安心感と優しさを与える空間。暖かい照明。備え付けられた家具。そしてインテリア。不自然に造り上げられた人工的な舞台のような場所に、女性はベッドに座り、窓の方を向いて針葉樹林を眺めていた。
私は自分の身分を明かすと、女性は体をこちらに向けて生気のない目で視線をこちらに向ける。
目が落ち窪み顔はやつれ、予め取り寄せていたプロフィールと比べると、十歳は老けて見えた。
「あの日のことを教えていただけませんか? なるべく、落ち着いてでいいですから」
「私はあの時……」
女性に優しく諭すように言うと、女性は初めて口を開いた。
「追われていたんです」
警視庁地下五階にある資料室は、ほとんど人が訪れない地上の時間とは異なるベクトルで進んでいるような空間だ。快適とは言いがたいが、私にとっては思考を阻害する雑音を聞くことがなく、集中して物事を考えられる最適な場所になっている。
そこで私は珈琲を飲みつつ、女性から得た証言を繰り返し聞いていた。
手に収まるほどのICレコーダーを操作し、もう一度再生する。すると記録されていた電子情報がスピーカーによって空気振動として克明に再現された。
『二〇一X年三月十日。記録者、塔ノ吾皐月。ではお願いします』
『……あの時見たものを信じられません。自分の見たものが、信じられないんです。刑事さんも話を聞いたって幻覚だって言うんでしょう?』
『そんなことはありません。私はそういう常識から外れているような事件を担当しているのです。自身も事件を捜査する中で一般からは信じて貰えないような経験もしています。あなただけではありません。辛いかもしれませんが、その時の状況をできる限り詳しくお聞かせください。私はあなたが見聞きしたことを信じます』
彼女の頭には常識という固定概念と異常な経験との齟齬が生じていた。
その状態の人物から証言を引き出すには、自分も相手と同様の経験をしたとを話し、仲間だと認識させればいい。秘密を共有しているかのような錯覚にも陥り、話し易くさせる効果もある。少しあざとい方法だと自分でも思ったが、時間という制限の中では許される手段だろう。
彼女は私の台詞に戸惑いと驚きの表情をしたが、効き目はあったようで間もなく話を切り出した。しかしその口はまだ重く、言葉を選んでいた。
『私……会社の飲み会があって終電に乗ったんです。お酒は少しだけ飲みましたけど、その時はほとんど抜けていました。変な事件があって、夜は危ないって分かってましたけど、自分が遭遇するとは思ってもみなかったんです』
『続けて』
私は促すように言った。
『同僚に送って貰うのは気が引けたし――それで電車に。駅に着いたらもう日付が変わってました。そこから徒歩で家に向かったんです。途中……最初は気のせいだと思いました。ただの雑音か騒音だと――でも違いました。呪文みたいなものだと、分かったんです』
『……その呪文、どんなものだったか覚えていますか?』
ここで約一分間の沈黙。当時の彼女はこれを口に出すのを躊躇していた。
「『あでぃめ とるな ふうむ たぼん えちゃる いらしる りいお ふうむ やたんばら えぬみ してふ とぅうるすちゃ ふたぐん』」
何度も反復して聞き、既に暗記してしまった呪詛めいた文言を私は録音されている女性の声に重ねて呟く。
女性は両手で自らの腕を抱きこみ、身を震わせ始めていた。
担当医はそこで何か言おうとしたが、私は右手で遮り、それを制した。
『私は呪文が聞こえる方向を見ました。人の形をした物がいたんです。その時は暗くて良く見えませんでしたが、呪文はそれが唱えているようでした。鼓膜を直接震わせるような低い音が、それから繰り返し出されていたんです。とても怖くなって無我夢中で走りました。でも耳から全然離れなくて――私は何かに足を取られて倒れてしまいました。立ち上がろうにも足を挫いて……呪文が私の後ろにまで迫ってきて、堪らずに振り返ってしまって――』
『一体何が、いたんですか』
私は焦る気持ちを抑えつつ、女性に問い質した。
『――腐った臭い――どろどろの体――人間じゃない――緑の焔が吹き出て――』
抽象的な単語の直後に聞こえたのは、叫ぶような女性の金切り声。
女性は髪を振り乱してがちがちと歯を鳴らす。目は血走り、これでもかというぐらいに見開かれていた。
担当医の怒鳴り声で『もういいでしょう』と聞こえて、再生は終了した。
その後の部分は改めて言うまでもない。女性は興奮状態に陥り、最後に担当医の用意していた鎮静剤によって眠らされたのだ。結局、体と精神への負担を鑑みて事情聴取は中止された。
私は逃げるように病院を後にし、この薄暗い空間に篭って現在に至る。
この録音は何度も聞き、咀嚼し、反芻した。
女性が最後に見た人間――のようなもの。
「あれは明らかに現実逃避による認識の齟齬です。余りの恐怖体験のために目に見える映像を改竄してしまったのですよ。しばしばそういうことが起こり得ます。事故の後遺症で見るもの全てがグロテスクに変じてしまったという症例もあります。人間というのは見たものがそのまま脳に認識されるという訳ではないんです」
担当医は支離滅裂な女性の証言を、恐怖の余りに自分が脳内に描き出してしまった想像の産物と説明していたが、それだけの理由で私は無視すべきではないと思っている。
「これは皐月君、なかなか面白そうなものを聞いているじゃないか」
暗闇からフェードインしてきたかのように、この警視庁資料室の主――闇が溶け込んだ肌を持つ内藤徹風が忽然と現れた。
私が呆然と内藤徹風を見ていると――自然だけども、どこか違和感のある笑みを浮かべる。
「僕がここにいるのは当然だろう。それよりも、先程の録音をもう一度聞かせてくれ」
私は身を乗り出した内藤徹風の横柄な態度に辟易しつつ、レコーダーを操作した。
再生されている間、内藤徹風は表情を崩さずスピーカーに耳を傾ける。私には既知の内容が流れ、終盤において女性の悲鳴が聞こえた。普通なら何かしらの反応を取るはずなのに、内藤徹風は眉一つさえ動かさなかった。
「この女性の見た化け物が本当に事件の犯人だと思っているのかい?」
彼女の見たものが妄想などではなかったなら――これは第四係が担当するべき事件になる。この化け物は現実に存在し、夜の町を跳梁跋扈していることになる。
「まだ、何とも言えません」
何を決めるにしても、手元にある情報が少な過ぎた。女性の加害者が連続変死体発見事件の犯人であるというのも、未だ推測の領域を脱していない。ましてや犯人が人間かどうかも分からないのだ。否、そもそもこれらは特異事件ではなく、私は見当違いをしたまま無駄な徒労に時間を費やしているのかもしれない。
「ですが捜査する余地はあります。この呪文のようなもの――言語学者に相談してみるべきでしょうか」
人間のようなものが唱えていたであろう単語群。
明らかに日本語でない言語であり、何節かに区切られた単語で構成されている。確かに呪文の様相を呈していたが、私にそれ以上のことは分からない。警視庁のデータベースに検索をかけてもヒット件数は一つもなかった。パソコンに取り込んで逆転再生もしてみたが、更に訳の分からない単語にアウトプットされただけに終わった。
本当に、意味のない音節の羅列なのだろうか。
「いや、それよりも……」
心当たりがあるのか内藤徹風は言い淀み、懐から取り出した名刺入れから当然の如く名刺を摘む。それにテーブルを台にしてボールペンで何かを書き込み、私に渡した。
私は名詞を観察する。
表には明朝体で『内藤徹風』としか印刷されていない。一方、裏には『帝都大学 文化人類学研究室 氷見夏彦教授』と達筆な文字がある。
「氷見教授に会うといい。僕の名前を出せば快く協力してくれるだろう」
「教授?」
訝しむように私は聞いた。その言葉には親しみが含まれている気がしたからだ。
「この氷見夏彦という人物とお知り合いなんですか?」
「まあね。僕は氷見教授に一時期師事していて、そこで録音されていた呪文に似通った語句を聞いたことがある。教授なら何かしら分かるはずだよ。連絡は僕からしておくから、明日にでも」
私は内藤徹風の顔を見た。その顔は何が面白いのか、いつにも増してにやついていた。