A-part 1
この作品はクトゥルフ神話をモチーフとしています。クトゥルフ神話について作者が独自解釈を行っている場合がありますので、そういうのが苦手な方は注意してお読みください。
また、この作品はA-partとB-partに分かれます。それぞれ別の人物の視点でストーリーが進行していきますので、B→Aと逆に読んでいただいても差し支えありませんし、AとB相互関係を見るという楽しみ方もありますので、是非試してください。
感想とか評価とか一言とか批評とかいただけたら、作者は狂喜乱舞します。
それでは始めます。
予定通りに終業式が行われ、正午頃に学校という束縛から開放された。成績表が渡されても陰鬱な気分になるのは一瞬で、明日からは冬休みになる。これから体を怠けさせるにはうってつけな長期休暇になり、学生は怠惰な日々を送るのだろう。しかし、僕は家に真っ直ぐ帰らなかった。塾や友人と遊ぶ約束など、別段用があった訳じゃない。ふと、寄り道でもしてみようと思い立ったのだ。
行く当てはなく、僕は雑踏を幾度か交差しながら歩いている。一帯はクリスマスムード一色だった。樅の木でもない樹木は過剰な装飾が付けられ、クリスマスに関連した曲が空気を震わせる。イルミネーションが目に痛い。サンタクロースに扮した人々が町に溢れ、どこからか甘い匂いも漂ってくる。その匂いから、イチゴの乗った豪華なケーキを連想した。
僕はクリスマスを公にケーキを食べられる機会にしか思っていないので、この時期になると色めき立つ人間の気持ちはよく分からない。個人的には十二月二十五日は必要ないと思ったりするが、僕の姉はその日に休みを取り、一緒に遊びに行こうと計画している。
姉さんは僕と少し齢が離れていて、保護者代わりでもある。当の両親はNGOの仕事で発展途上国の技術支援を行っているので、今は姉さんと二人暮らしだ。でも、姉さんは就いている職業のせいか、帰宅時間はいつも夜遅くになっている。
その職業とは刑事――何を思ったのか、姉さんは刑事をやっている。特に正義感が強い訳でもないのに刑事になったのは、当時子供だった僕は驚いた。理由を聞いてみてもはぐらかすばかりなので、真相は不明。少なくとも凶悪犯を捕まえて、町の治安を良くするのが目的でないのは確かだ。
そんな理由で、僕が家にいなくても心配されない。時間を気にせず、安心して星が瞬く夜に出歩ける。唯一困ったことと言えば、帰った後が忙しくなる――家事を僕一人で担当しなければならなくなるからだ。
この寄り道は今に始まったことじゃない。
時々、第六感めいたものに突き動かされて予定外の行動に走る。何かが起きることを期待して――だけれども、行く先々では圧倒的に何も起きない。それでも懲りずに自分の役立たずな直感に従っている。
――何かが起きて欲しい。
その願望が、いつも心の内にあった。
今日も諦めて帰路についた。いつの間にか日が暮れて夜になっている。些細なことも何も起こらず、無為に時間を過ごす――儚い期待に裏切られるのはいつものことだ。
場所は学校の反対側。大通りは通らず、近道として選んだシャッター通り。大手スーパーマーケットが近くに建てられたために、その煽りを受けてこの通りの店は軒並み暖簾を下ろしてしまった。以後、この一帯の時間は停滞し現在に至っている。幽霊が徘徊するという話も聞くが、この空気も淀み具合が根も葉もない噂を立たせているのだろう。だが、もし幽霊がいるなら出て来て欲しいものだ。
その途中、照明が付いている店が見えた。他を見回しても無機質な扉が連なっているのに、一軒だけ明かりが付いている。
スーパーマーケットに負けない所もあるのかと一瞬考えたが、すぐに撤回する。
変だな、と思い直した。
この周辺で日付が変わる時間帯に開いている店舗は、コンビニ以外にないと言っていいだろう。それにも拘らず、僕の目に視界に映る店は開いているのだ。
僕は店を一望した。
建物全体は老朽していた。壁は色褪せが進み、所々削り落ちている。看板はない。代わりに錆びた鉄のフレームが剥き出しになっている。古びたガラス戸の向こう側から本棚が幾つも並んでいることから、辛うじて本屋であると判断できた。
近づくに連れて、僕に『入れ』と好奇心の声は大きくなる。
戸に手を掛けた。ガラガラと体に振動が伝わる。今にも崩れそうな外と違い、中は小奇麗なモダン調を呈している。その証拠に、年代ものの大きな掛け時計が振子を揺らし、存在感を示していた。店の明かりは三つとも裸電球で薄暗く、それがまた雰囲気を際立たせる。敷居を跨ぐと古書特有の匂いに混じり、少しカビ臭さが鼻をつく。本棚は木製で天井に達するくらいに高い。そこにびっしりと書物が詰められていて、壁の如くそそり立っている。
僕はその中の一冊を手に取った。本の詰め込みすぎで、少々力が要る。題名は分からない。ミミズが這ったような文字――恐らくアラビア語で、当然中身も僕には解読できない言語だった。ちらほらあるイラストには奇怪な生物が平面で蠢いている。石でできた建造物をバックに、手には鉤爪を持ち、龍と蛸と人間を足して三で割ったような悍しいもの。犬に似ているが体毛はなく、口から細い管のような舌が這い出ている生物。象よりも巨大で馬のような頭部を持ち、羽毛ではなく鱗が生え揃った鳥。どれを取っても、この地上には実在しないものだ。
「ほう、いらっしゃい」
突然、横から妙なアクセントがついた甲高い声をかけられた。本に集中していて、接近に気付かなかった。
僕は前触れもなく登場した人物に目を向ける。
第一印象は腰まで伸ばしきった雑じり気のない白髪だ。しかし、それに反して年齢は若く見える。彼の白髪は蛍光灯の光を恙無く反射し、先まで手入れが為されているのが分かった。皮膚も髪と同様に色素がほとんど失われている。この空間には似つかわしくない純粋すぎる色だ。体の線が細く遠くから見ると女性と勘違いしてしまいそうだが、れっきとした間近で見ると骨格は男性のもの。顔の一部分はサングラスで隠れて、白と黒のコントラストが映えている。
その男が僕の持っている本をなぞる様に触れた。キッチリした洋服の袖から覗く手は形容するとすれば、骨だった。
「そいつぁルーケイム幻想生物図鑑だ。発行は1844年。著者は不明。と言っても、内容はそこいらの本屋に置いてあるものと変わらない」
僕があっけにとられて無言でいるのをいいことに、男はミミズ文字の本の説明を続ける。口から信じられないくらいに紅い舌が覗いていた。
男の軽々しい口調だけでは想像できないが、これは百年以上も前の本らしい。そういえば、紙の質は劣化していて変色している。それが本当だったら、大変貴重で歴史的価値がある――と素人なりに考えてみる。もしかして、ここはその類の本だけを取り扱っている店なのだろうか。本棚にずらりと並ぶ厳かな背表紙を見る限り、その結論は正鵠を得ている。
「どのような本をお探しかい?」
サングラスの向こうにあるはずの眼が、僕の心に土足で踏み込む。僕は一種の悍しさを感じた。
「いえ、特には……」
圧倒されて反射的に出た言葉がそれだった。
本を買う為ではないのだから、それ以外に答えようがない。そもそも、ここにいるのも気まぐれだ。目的ははっきりしているが、何故に本屋に来たのかという理由は希薄だ。
これでは冷やかしと解釈されても仕方がないのだが男は、
「それは困ったねぇ」
と言って、特に不快になるわけでもなく口を曲げる。本当に困惑しているようだ。そして、何かを思いついた顔になった。
「だったら、お前さんに相応しい本を見繕うじゃないか」
「そこまでしなくても――」
最初は気になって入っただけだ。ただの興味本位だった。そんな不純な動機で、この男がそこまで親身になる必要はないと思う。
「これでも読んで待っていてくれ。こっちの方が面白い」
僕を挟むように立つ本棚は同じような本が並んでいた。手に持っていた図鑑は取り上げられて男よって本棚に収められ、代わりの本を無造作に引き出し手渡された。僕は今まで以上に慎重に扱った。男の方はというと、体を翻し何かぶつぶつ独り言をしながらこの場を立ち去ってしまった。
今度の本は英語らしいが、辞書なしに翻訳できる程僕の言語能力は高くない。イラストは一枚もなく、単純なアルファベットの文字の羅列が意識を鈍らせる。次第に視覚にも変調を来してくる。元々暗かった部屋が闇の濃さを増す。焦点も合わない。正面にいる人物の輪郭がぼやけて見える。目を擦ってみても治らない。この間、やけに振子の音が大きく聞こえていた。その音が心臓の刻むリズムと同調する。
男は用を済ませていたようで見つけたよ、と僕に近づきながら言った。僕の感覚では、待っていた時間は一分程度だったと思う。しかし、現実時間と体感時間にずれが生じていた。掛け時計を見ると、大きく予想は外れて五分も経っていた。
男は本を持っていた。ただし、忌まわしき存在を閉じ込めておくかのように、病的な程に何重にも皮のベルトが巻きつけてある。ベルトの僅かな隙間から見える本は血溜まりに漬けた色をしていた。
その口のように嗤う隙間を見ていると、僕の体の内から混沌としたものがこみ上げてきた。
それが何なのか、今の僕には理解できなかった。
男は僕のために用意してくれた本を差し出す。僕はあんな細い腕で、重たそうな本を支えられているのは不思議だと思った。受け取るとずっしりと、想像通りの負荷が腕にかかる。本を渡した今にも折れそうな指で、僕の肩をがっしりと締め付けるように掴んだ。
「こいつぁ――神様を喚び出せる本なのさ」
声は呪詛のように頭の中で反響した。
神様。
そんなものがいるなら。
これで何かが変わるなら。
僕は、喚び出してみたかった。
本を貰った。
あんまり夜遅く出歩いているから風邪でもひいたのだろうか。
店を出てから、頭は靄が掛かったように不透明で、足元もぐらついている。しかし、一歩一歩確実に歩を進めている。暗闇をかき分けている。数十分ふらふらと歩き続けていると、左右に鉄の箱が並んでいた。潮の香りが漂い、波の音が聞こえる。着いた場所は倉庫街らしかった。 近くには底知れぬ深淵に通じる漆黒の海が広がっている。
空には世界と世界を結ぶ門の象徴たる黄金の満月が浮かんでいる。
ここならいいだろう。
自然にそう思い、僕は立ち止まった。
今の僕を――周りから見たらどんな感想を抱くだろう。
こんな時間に出歩いて悪い子だ? 家出した少年?
家出して何かが変わるんなら、そうしただろう。
しかし生憎にも、僕にはそんな家を出て一人で生きられる根性が育つ環境には生まれなかった。二年前にそれを試みようとしたのだけれども、一分前の心に打ち立てた決意が容易に瓦解し、挫折した。意思の弱さにも程がある、と自分でも思った。
今、僕の体を突き動かしているのかは、あやふやだった。
善意。悪意。愛情。憎悪。好奇心。無関心。憧憬。嫉妬。
どれでも正解だと言えるし、どれも不正解とも言えた。
そして、この混沌とした感情は、この世界に対して向けられたものだった。より正確に、より詳細に言えば、この僕の周りを包む狭くて下らない外界にだ。何も変化がない、家と学校を往復するだけの単調な毎日。
なぜ他の皆はこの生活に耐えられているのか、僕には理解できない。それとも、この退屈を感じられないくらいに、皆は鈍感なのだろうか。だから僕は壊したかった。こんな針の跳ぶレコードは。同じ場所をくるくる回る時計は。
だから――
この本の使い方は教えてもらっていた。ベルトの戒めを解き、本を開くだけ。
僕は本に厳重に施されていた封を解いた。ベルトが音を立てて地面に落ち、隙間から見えた血の色は全体に広がった。
そして、厚みがあるページの中程に指をかけ、本を開いた。中身は実に不可能的で奇妙なものだった。図形が文字の代わりをしていたのだ。意味なんて分かるものか。しかし、一瞬で理解した事柄も存在していた。
そこに書かれていた文字は、僕を嘲笑っていた。
途端に僕は体の力が抜けて膝を付き、本も手から滑り落ちる。空気の重さに体を押し潰される幻覚に襲われた。一種の閉塞感が体を支配し、呼吸ができなくなる。喉が焼け尽くように熱い。平衡感覚が狂う。頭にノイズが走り、闇が視界を歪ませ、蝕んだ。
そして意識が途切れる前に、僕の目に何かが映った。