ボーダーズ・アビス
スフィアネットに階層深度があるように、極超構造体にも物理的な階層がある。
極超構造体は地殻とマントルの間、大陸プレート間のその隙間、SPOTに建造された超剛性の物質体である。
それらは楕円形のレンズ状の巨大物体であり無理くりそこにねじ込んだために色々と不都合が発生しやすい。
地球には重力がある。その法則には人間は絶対服従であり逆らう事の出来ない絶対的な自然界の原理だ。だから、その法則に従うしかない。
しかし、レンズ状の空間にどうやって一千万人の居住空間を建造する? 。
地下で横に広げようにも極超構造体の存在している地層は地球物理学分野で言えばリソスフェア、岩石圏と呼ばれる地層にあり、その地層は粘性剛性に措いて非常に強固、偏に『硬い』といっていい。
掘るにも苦労する。そして何より極超構造体という殻を飛び出さないといけない。
そんな馬鹿な事をする人間はほんの一握りの限られた人間だけであり、殆どといっていい人間がこの殻の外へと出向くことを嫌い引きこもっている。
人類総引きこもり世代。
そう形容するとなんだか面白おかしく聞こえるが、冗談や戯言、洒落といった意味ではなく本当にこの極超構造体の外に出たがる人間はいない。
何故なら外は非常に恐ろしい地獄絵図だから、この暗闇に覆われた電気と電子と電粒子に満たされたこの空間に居た方が外界より幾分か生きやすいのだ。
この限れた極超構造体の空間内でどういう風に居住空間を得るべきか。
所狭しと改装と階層を重ね、物理的階層と電子階層の二重構造で生み出されたそれらを幾重にも折り重ね、極超構造体内部は玉ねぎの構造の様なオニオン構造体となりえた。
ジャックが今いる階層は、『地下構造6番街』。外側から数え六番目の階層に当たる比較的安全な区画だった。
だが今から向かうボーダーズ・アビスの場所は13番区画皮層。
この征府、エル・ソリア・ムエルテが統治下にある極超構造体の18層ある中で中心に近い場所。
即ち危険区画だ。
「あら? 性別も決まってない若い子がここに来るなんて、不良ねえ。遊んで行かない?」
甘く蕩けそうな語り口、その艶やかな声音。
そんな淫らに声を掛けてくる女がいた。
売女、淫婦、女郎、娼妓。言い方は様々だが彼女を判り易く言うのなら、自らの体を売り物にしていると言う事だけだった。
薄く透けたアダルトなベビードールの繊維は僅かに発光し彼女の肉体をライトアップしているようなそんな印象を受ける。
右の頬にはピンク色のネオンタトゥーで『V』を刻み込み、彼女の歩いた後に『『私に着いて来て』』という発光スタンプが光っていた。
古き良きギリシャの娼婦に準え倣った客引きの方法だった。
これにもキチンとした意味がある。
本来なら自らの体にメタデータを張り付けて今迄閨を共にした男性たちとの遍歴、その男性の性的快感の指数のパラメーターを表示する方法が一般的なのだが、エル・ソリア・ムエルテ内で公的に娼婦をするには征府での征府認定娼婦資格が必要であり、内壁付近の違法娼婦たちにはそうした性的快楽指数値は公にはできない。公開したのなら、30分と掛からずデリート&フォーマットがすっと飛んできての粛清されるだろう。
これも征府の人口調整征策の為だった。
粛清の種類も様々だ。カルト教団よろしく精神を弄り回されたり、四肢をもぎ取って卵子製造機に加工されたり、最悪の場合は物理的にも社会履歴諸共痕跡が抹殺される。
そうすべき理由があるからだ。
このエル・ソリア・ムエルテ征府の統治している極超構造体の演算能力は無限ではあるが、概念的無限ではない。
限りない訳ではなく数学的無限、厳密にはクエタの35乗の演算能力であり有限なのだ。
人々は日々多くの高次情報行動履歴を発生させる。それを全て処理するにはそれだけでは圧倒的に演算機能が足りないのだ。
過剰行動履歴の乱造は重罪であり粛清対象になり易いのだ。
人々は絶えず監視され管理され統制されていなければならない。そうでなければ表を堂々と歩けない。
「悪い。ボーダーズ・アビスに行きたいんだが」
「ッチ。あそこの新入りのガキかい……通りの奥だよ。精々『廃人』にならない事だね」
「ありがと」
ジャックはは手にプリントされたスマートを操作して彼女に金子を与えた。
真っ直ぐ通りを進むと見えてくる。
ボロボロのコンクリート製の建屋。その小汚さを覆い隠そうと煌びやかなネオン管で飾り立て下品で猥雑な印象を受けるそこに書かれた『|ボーダーズ・アビス《boarders abyss》』の文字。
ボーダーズ・アビス。深淵の縁という意味か、それとも間借り人の深淵か。
どちらにしろいい意味ではないのだろう。そこに屯している連中のメタデータを見れば一目で判る。
誰も彼もがデッドコピーの偽造身分であり、それにより人々が何とかデリート&フォーマットから逃れているのが見て取れる。
腕のいい偽造師が居るのだろう。身分情報類たちは浅い階層を出歩いてD&Fに呼び止められる隙が無い程に精巧に作られている。
データだけを見れば白に限りなく近いだろう。
だが、それを嘲笑うかのような風体。明らかに「まともな生き方をしていません」と宣言しているかのようにガラの悪い服装に、これ見よがしの過剰機械化拡張。
法令も無視していれば、規則などあったモノではない。目に見えて分かる過剰な機械化拡張だ。
極超構造体の中心に近づけば近づく程、人の形を止めているモノは少ないだろう。
アカデミーの噂話に依れば、中心に居座る公権力者たちは人の形どころか人の器さえ捨て去り精神だけで極超構造体を運営する集合精神共有集積体に接続するという。
もしその噂話が本当なら征府に所属する征府民が望み焦がれるモノだろう。
集合精神共有集積体へ接続することは大変名誉な事であり光栄なのだ、接続が出来たのならこのエル・ソリア・ムエルテの全てを掌握できるのだから。
所詮噂話程度だが、それに縋りたい者たちは多い。
神という存在が不在なこの世界で、神になりえる存在の極超構造体に食い込めるのならどれほど名誉栄冠な事だろうか。
だがそれは過去に存在していた『宗教』の柵で、未だにそこかだ脱する事ができていないのが人類だ。
肉体の欲。
食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲、独占欲、自己承認欲。
それらは人類が脳という高次機能器官が進化して精神や自我と呼ばれるモノを獲得してから未だに捨て切れていない古臭い機能なのだ。
遺伝子の記憶とでもいうのか、欲望はどんな毒よりも精神的錯乱を齎す。
それらは純粋な快楽を追い求めている。
「やっと来たな……特待生」
バリーが店の前で待ち構えていた。
制服を脱ぎ捨て前開きのガラの悪い衣服を着ていて、一体どれだけアカデミーで猫の皮を被っていたのか物語っていた。
隠し切れていないのが真実だが、少しはアレでも成りを潜めていたのだろう。
「そっちの方が板に付いてる」
「よく言われる。──さあ、奥へ」
そう言いジャックを奥へと向かい入れたバリー。
店の中は何と言うか、混沌としていた。
目に刺さるステージライトがサーチライトのようなスポットライトのレーザーサイトがあちこちを這い廻り、ド派手に店の中をライトアップしている。
しかしその雰囲気にそぐわない客たちは思い思いに、ソファーに座ったり、簡易ベットに横になり、別の場所では浮浪者のように座り込み寝そべっている。全員が顔にヘットマウントディスプレイモジュール、深層潜航ダイブウェアを装着していた。
ブレイン・バーティングング──脳に直接、他者の体験経験を流し込む娯楽の一つ。
人々の『幸せ』と感じる体験を追体験している。
どこか19世紀に世界各地にあったと言われている鴉片館を思わせるその中身に、チラリと客たちのブレイン・バーティングングを覗くと、出るわ出るわ。
異常性癖のオンパレード。
快楽追及の為だけの追体験のそれら。快楽の種類は様々だ。親孝行、他者への施し、善行──それ以外の害悪とされる行いも。
人は人それぞれの《《幸福》》を持っている。善行ばかりが快感を生じさせるわけではない。加虐性欲という言葉があるように偏った性的倒錯者がいるようで悪を働く事で興奮する愚か者もいる。
そういった事が大っぴらに出来ないこの社会で、そう言った欲を満たすのには実際にそれを行うのは困難だ。だから逃げるのだ。
ブレイン・バーティングングに。
こう言ったモノは征府は推奨していないが、しかしながら求める者が居るならそれを創り出し供給する者もいる。
ジャックも殺人趣向的追体験を時折しているが、こいつ等は一癖も二癖もある。
美しきを廃し、ただひたすらに快楽だけを追い求めたのなら人は倦み腐れ、終いには堕落する。
その結果がこれなのだ。
溺水性愛、嘔吐性愛、犯罪性愛、身体欠損性愛──死性愛。
果ては無い、底は無い。永遠に堕ち続ける奈落の落とし穴。
人が人たり得る最悪の性、その行きつく先は変態の異常者だ。
ジャックもまた殺人の追体験を好む、変態の異常者だ。
「ニコさん、ニコさん。連れてきましたよ。ニコさん」
さも高級そうなソファーに腰かけていた人物が反応した。
バリーがそう話しかける人物はかなりの大柄でそして雰囲気は、「ニコさん」と呼ぶには女性的だった。
そして何よりおかしいと感じたのは、そいつは──大柄過ぎた。
人二人分の体積がそのまま備えたようんな、その直感は間違いではなかったのだがその女性はひたすらに大きく、そして不敵だった。
ガッチリとした筋肉を纏い、ジャックの胴体よりも太い二の腕。
マッシブなその体を抑え込むように皮ベルトが全身を締め付け、あたかもそれは拘束衣の様にも、卑猥なSMボンテージレザーにも見えた。
「生憎と、ニコラウスはネンネシしてるんだ。アタイが相手してやるよ」
「なんだ……ニコさん、おねんねしてんの? はァ、折角連れて来たのに」
「連れてきた? そのひょろひょかい?」
ギロッとした眼がジャックを睨んだ。
その眼は恐ろしくも赤々と光っていたが、同時に母性の様などこか慈しみも感じさせる目をしていた。
体を起こし、立ち上がった彼女の体。腹はボテっと膨らんでいて妊婦を思わせる。
しかしそれは胎児が体内に居る訳ではない。
奇怪で異様、変態趣味を前面に押し出した生体拡張手術の結果だった。
ビラビラと爛れたような襞。グロテスクなまでに肥大化したそれ。
ひと言で例える、いや例えなくても真実を言うのならそれは、女性器──腹部に備え付けられた特大の外陰部だった。
何のためにその施術を行おうと思ったのか、甚だ疑問なのだが、そこに何かを収めているのだろうか? 。
大きく膨れ上がった腹部に収納したなにか女性器から何かが零れ落ちないようにレザーベルトでかっちり締め付けていた。
「大人しそうな奴だね。仲間でも同じ目的の者でもねえ。ここはお前さんの来る所じゃないよ」
ジャックの頭をポンポンと叩いてくるその女性。
本能的に、ゾッとしてしまう。
ーーヤバい。この女、マジでヤバい。
恐らく度重なる生体拡張手術で尋常ではない腕力、膂力、握力共に『怪力』といっていい程のものであると直感で来た。
無数に張り付けられた生体拡張手術の手術痕の拡張タグに記されたコメントされた数々。
雑な手術を受けてきたのだろう。ろくにコメントアウトされずベタベタに体中メタデータの塊で暴力的にジャックの視覚情報を凌辱してくる。
生物的に弱者。そう実感できてしまうほど恐ろしいそれらに戦々恐々としている最中でバリーが割って入って来た。
「ちょっと待ってくださいって。Mrs.プレグナント、コイツ一応『ブレンド』できる能力あるんですよ」
「へぇ……坊や、一体どこでそんなおイタを覚えたんだい?」
ジャックは委縮して声を出せなかったが、ジャックの心の声を代弁するかのようにバリーが喋り出す。
「今迄俺が持ってきたトリッパーの殆どがこいつが造った奴だったんですよ」
「ふぅん……アンタが最近妙に電粒子濃度の濃いの持ってきてたのはそう言った絡繰りかい? あら、アカデミーで特待生なのかい? あらあらまあまあ、その歳で生体分泌系のアクセス権限まで持っているなんて中々いないねぇ」
「ど、どうも……」
勝手にジャックの経歴にハックを掛けてきたMrs.プレグナントと呼ばれたこの女に少しむかっ腹を立てるが、だが逆らう気にはなれなかった。
ここまで体を弄った生体拡張手術者に逆らう、即ち殺されても文句は言えない。
何よりここは13階層区画、ここまで深い階層にまで守衛官やデリート&フォーマットは踏み込んでこない。
黙りこくって言う事を聞くに限るのだ。もしくは反論するだけの技量、反撃するだけの暴力がいる。
「で? この特待生を連れて来てアンタは何をしでかす気だい?」
顎で指し聞いてくるMrs.プレグナントに、頭を掻いて恥ずかしそうに言うバリー。
「いやァ、この間ニコさんが新しいブレンダーが欲しいって言ってたじゃないっすか。アンパーサンドマンのトリッパーじゃ満足できないって。だから新しいのって思って──」
「アンタはホントに──」
腕が振り上げられバリーを殴りつけた。
嘘みたいにぶっ飛んで、壁に叩きつけられるバリーの姿にジャックは腹の底から冷気が漏れて冷や汗を掻いて戦々恐々としてしまう。
「勝手な真似するんじゃないよ。そそっかしい子だねぇ、ニコラウスは勝手に新しいブレンダーを連れて来いって言ったかい? 言ってないよねえ。ええバリー?」
「スイマセン! スイマセン!」
殴られた頬が真っ赤に腫れ上がり、拳大の大きな瘤となっている。明らかに頬骨が砕けて内出血を起こしていた。
殴り殺される──そう察したのかプライドも何もかもをかなぐり捨てて、惨めで哀れにすら思えてくる懇願をしていた。
日本と呼ばれた土地の民族で行われた、今の世の中的にその土地にあった国は征府へと変化し『根之堅洲府』と呼ばれている所での最高峰の謝罪姿勢である『土下座』なる姿勢で必死に許しを請うバリーであった。
額を床面に擦り付けて必死に死にまいとしているが、この女は容赦がなく止めの様にその頭を踏みつけそうになったその時だった。
「うっ……ッ! 。 あァっ、──いつも以上に……ひどい寝起き悪阻だねぇ──!」
滝の如く口から吐瀉物をバリーの頭目掛けて吐きかけたMrs.プレグナント。
振るえる手で腹の拘束具の金具を外すと、プシュッ、という音と共に異様に生暖かい、そして生臭い羊水が胎に備え付けられた特大の女性器から溢れ出た。
──破水した。
そう思うと、彼女の腹に備わっているそこからヌッと腕が出てきた。
赤ん坊の大きさの腕ではない、大人一人分の、立派な成人した大腕が出てきて、まるで着ぐるみを脱ぐかのようにMrs.プレグナントの中から現れる男。
「ふぁア……──あァ……よく寝たァ。あれ? バリーじゃん? どうしたの? ゲロ塗れで?」
Mrs.プレグナントの中から産まれ出でたのは飄々とした男であった。
奇妙な程にメタデータが身体に張られていない。
生体拡張手術者ではないのか? 。
いや、全くと言っていいほどデータがなのだが、ただ一つコメントアウトされている表示が見えた。
──立入禁止──。ただその一言だけメタタグが張り付けられていた。
「あー……なるほど? プーちゃん? あんまりバリー虐めないであげてよ。こう見えて僕の後輩なんだから?」
「はァはァ……でもコイツ。勝手な行動ばっかだよ」
「勝手な行動って?」
「それ」
出産のせいか、ぐったり、いやどちらかと言うか全身の骨が文字通り抜き取れたように倒れ、腹が萎んで一回り小さくなった印象のMrs.プレグナントがジャックを指差した。
「んー? んン~? んんン? ハッ! ハハハッ! NO! ノン! ノーウ!」
声高に叫んでジャックに詰め寄って顔を寄せて値踏みするように言い放つコイツ。
やけにコイツの周囲の空気がやけに冷たい。雰囲気的なモノではない。
──物理的に冷たいのだ。
周囲の熱を吸い取るヒートシンクように、光熱から襲うの悪寒の様に、人の精気を否応なくコイツは吸い取っていく。
「Happyじゃないねぇ? いけない? それじゃあいけない? ブレンダーならもっとハッピーに、人に幸せを幸福を快感を至福を届けるのなら己もハッピーに、より狂気的に!」
ジャックの腕を取り差し向けてくるそれは深層潜航ダイブウェアであり、その中にインストールされているであろうプログラムは十中八九の確率で脳内分泌系をクラッキングする違法式次第。
ステンレス製のマグカップに飽和し切っていない白い粉が浮いた液体を同時に渡してくる。
飛べと言うのか、これはきっと人を堕落させるあの世への片道切符。最悪の旅行券だ。
ジャックは躊躇うが、しかし拒否権は無い。取れる行動は一つだった。
それを取り、言う。
「健康に乾杯」