ネクロポリスのグラフィティ
人間の生き汚さは斯くも厄介で手に負えない。
第四次世界大戦を引き起こし、性別も、人種も、民族も、国家も。
老いも若いも関係なしに人類全員が発狂したように戦いだした理由は定かではない。
が、一つだけ決定的に言える事と言えば、それが原因で『地球上』は人間が生活するには限りなく不可能な土地に変わっていると言う事だった。
人間は地上から生存権を剥奪され、地下か、空へ逃げるしか術はなかった。
そんな人類が果て無き探求の元で編み出した、然も悍ましい術に手を伸ばすのに時間は掛からなかった。
『イレーシング・ネクロ』と呼ばれる技術群が可能とした結果は、人を死と言う枷から解き放つことに成功した。
『再臨者』と呼ばれる死から甦った者たちが、世界を席巻するに至るまでそう時間は掛からないだろう。
だが、しかし。
まだ人の世は続いている。
……
…………
……
『ヘイ! ジャック。インしてるかい?』
チャットメッセージが届き、彼はそれを開いた。
リクライニングチェアに寝そべって素っ裸の彼。いつもの通り、ダークウェブ上に転がって没入型追体験から意識を外し、それを見やる。
お気に入りで贔屓にしているテンダーの『B・W』の作品で興奮し、激しく勃起しているのは隠し切れなかった。
フィルムの内容は、ヴァイオレンス。この街の何処かで起こった殺人の映像をその場にいるかの様に体験できるのだ。
億劫な顔で、それを睨むと宛先の着信者名は『ウィル・オー・ザ・ウィスプ』となっていた。
「なんだよウィル? 俺は今おシコり中だぜ?」
変に思うだろう。誰もいない空間に独り言ちる彼。
それもその筈、頭皮と頭蓋骨の隙間に張り巡らされた網目状の埋め込み型デバイスと、脊椎に『disk』を入れ、47番目の染色体、『ネット接続端末塩基』を書き込む事で人間は常時、スフィアネットに繋がっている。
それが当たり前のように感じ取れる程に現実の世界はスフィアネットと溶け合い電子世界と物理物体の層皮で覆われている。
顔に装着した深層潜航ウェアを外し、浅瀬へと帰って来た。
彼の肌色は酷く悪く、この薄暗い部屋の中で煌々と光るディスプレイ画面だけの光源が原因ではなく、実際に彼の肌色は最悪だった。
青白い。
体の中から赤みを抜いたように白く、そして病的な皮膚色は常日頃から常飲している生化学用メチレンブルー色素による着色の影響だった。
『相変わらず殺人趣向映像で興奮する癖どうにかしたらどうだい? 青春少年、まだママの乳吸ってる方が可愛げがあるってのに』
「うっせえな……。で? なんか用か?」
『こりゃしまった! そうだそうだ──コーディネーターのグラフィティがまた現れたぜ、ジャック』
ジャックと呼ばれた彼は体をガバッと起こし、どこかワクワクしたように頬を綻ばせた。
「マジかよ! それを先言え! ハリーヤー!」
雄叫びを上げ、いそいそと服を着る。
と言っても着る服はダボダボの裾野擦り切れた制服のズボンに、素肌に真紫に金のストライプの入ったブレザーを羽織っただけだった。
これ以外に着れる服がないのだ。
首に演算補助U字ネック機械端末を装着し、耳朶の裏にあるコネクターポートに接続しより覚醒時のスフィアネットの認知閾意値を引き上げる。
扉を荒々しく蹴り上げる。
本来ならこの扉は自動扉だが数世代前のオンボロ社宅にそんな機能はとうの昔に失われただの鉄の扉となっている。
この街に蔓延る闇を覆い隠す大いなる『ヤミ』。
人類が暗がりに潜むことを決め、地下へと逃げ込んだ人間たちの巣窟。
この街、『地下構造6番街』もその一つだった。
この街には昼が無い。
何故ならそこは地下世界に広がる広大な隙間、マントルとマントルの間に生じた僅かな居住空間。
従来のプレートテクトニクスでは説明も付かない重大で偶発的な惨事が起こり、この空間『SPOT』生み出した。
地下の隙間、SPOTの割れ目に人類の居住圏を移動させざる得なくしたのは、人類自らの行いでありそれは『W・W・4』と呼ばれる熱核兵器の大量投入を許可した大戦争が原因で、それを引き金にあらゆる災害が齎された。
人類は禁忌を詳らかにする事に長けている。
熱核兵器の無尽蔵投入は、地上世界を蹂躙し従来の学術的動植物の死滅と、大地の致命的な高濃度放射線汚染を引き金に、あらゆる悲劇的事象が連鎖的に生じさせたと言う。
神は7日で世界を創造したというが、それを壊すのに苦労はない。
四つの絶望的災害事象で完結する。
第一の災害、地球表層気温の過剰上昇からの急低下によるスノーボールアース化。
これにより大量の居住地の剥奪と、食料飢饉が発生し戦争餓死者が30億人にも達した。
第二の災害、新種の次世代病原体の異常発生。
従来よりも感染性の高いウイルスから、致死性の高い細菌、そして人類を狂わせる寄生虫が各地で同時多発的に発生。
そしてそれらが人類の手で自ら撒き散らかしたナノマシンと|指向性DNA強化大桿菌が機械的に融合し、感染症学にも当て嵌まらない毒素が爆誕した。
これにより20億人が病死した。
第三の災害、既存の生物学的見地から見ても異常な進化を遂げた次世代生物たちの出現により人類はより生命圏を奪われる。過酷な環境下で人間以外の動植物はより柔軟に、そして強固に環境に適応して見せた。
赤道付近に逃げ延びていた人間たちは次世代生物たちの手によって殺戮され、10億5千万人が犠牲となった。
そして最後の災害──『自転磁極軸反転』が起きた。
自転磁極軸反転により地磁気が消滅し、地表はどんな生物でも、第二、第三で生まれた次世代生物たちでも高濃度の宇宙線に曝され死滅して逝った。
人類は地表で生きる権利を剥奪され、残された技術と手段を使い二組の人種に別れる事にした。
一組目の前者は上へ、宇宙へと向かった。母なる星を棄て、新天地へと。
恐らくK2-18bかティーガーン星にでも旅立ったのだろう。彼らの特徴として言うのであれば富裕層であり『一族懸けても資産が有り余る』ほどある人種であると言う事だけが共通点だ。
イーロン・マスクやらマーク・ザッカーバーグやらの子孫の大金持ちたちが、果て無き宇宙へ飛び立った。
そして二組目の後者は、地下へと逃げ込んだ。
自転磁極軸反転で偶発的に生じた地下空間、SPOTへと逃げ込んで、地上世界から完全に隔離することで生き延びる事ができた。
だが問題は生き延びるだけでは解決しない。
恒久的な生活を保つため、常に変化し続ける地殻構造で己が肉体をプレートに磨り潰されない為に、SPOTの外壁に超超硬度の物質性とインターネット機能、そして物理出力系を組み込んだ特殊外殻装置『極超構造体』を建築した。
これは地熱と核融合を主電源とし、現実と今ジャックたちが重ねて見ているネット構造の二つの認識現実を生み出し汎ゆる生活の基盤を支える母胎となっている。
都市を覆う巨大な構造体。
人の逃げ込める唯一の卵の殻であり、地球が死星にならない限り人間は死滅する事は無い。
「星空……ねぇ……」
キラキラと煌びやかに輝く満天の星々の光。
雲の一つとしてない快晴の空を見上げるジャックの眼に映るのは空と呼ぶには烏滸がましかった。
なぜならそれは極超構造体の天井であり、当たり前の事だが『空』など見える筈がなかった。
では何故、星空のように上が光り輝いているのか? それの問いに答えよう。
あれは極超構造体の漏電であり、地熱発電と核融合発電の莫大なエネルギーの貯蔵設備が無い為にああして放電している。
他にも極超構造体の上に存在すると言う『海』と呼ばれる汚染された海水の不純物の除去と、高濃度放射線の除染などの目的がある。
だが設計者の目的は、星空のように見せる風情として設計されているからだという。
だからとて、ジャックにとってそれは本当に星と呼んでいいのか甚だ疑問だった。
何故ならジャックは産まれてこの方、ホンモノの『空』と言うモノは一度も見た事が無かったからだ。
W・W・4が起きたのが2,058年。自転磁極軸反転が本格化し始めたのが2,100年。
今は──3,000年元年。数十世代をまたに掛けているのだから、『空』と言う言葉は知っていてもホンモノは見た事はなかった。
あまりにも膨大な時間が流れ、時勢と来たら生き辛い事この上なかった。
道行く人々の顔は、疲れを知らないと言った表情であった。そして着ている服も男女の違いはあれどどれも形式は同じ。
征府で定められた制服なのだ。
ジャックにとってこの上なく不愉快で、そして馬鹿らしい。
「……──っ」
見ているだけで苛々してくる。
誰もが無知を演じ、そしてその仮面が板に付き過ぎて取り方も忘れた様であるその生き方に苛立ちを覚える。
情弱を演じるに苦労をしないのか? こいつらは本当に人間なのか? 。
人としての好奇心を失った人間は果たして人間と呼んでいいものか? 少なくともジャックは否定的な意見をもってして、こいつ等を罵る事だろう。
「盲目の豚どもが……」
征府にただ首を垂れ続ける程、ジャックはまだ精神的に成長しきっていない。
なぜならジャックはまだ学生であり、いまこの極超構造体を運営している征府『エル・ソリア・ムエルテ』の研修生と言った具合だったからだ。
人としての尊厳を棄て従属を決めて、ただ妄信的に征府に奉仕し続ける。
究極の社会主義、いやそれよりも悪い。
人間個人は征府と言う巨大な組織を構築する微細なパーツであり、代替の利く汎用性の高い道具。
個人の自由権利は殆ど剥奪され、残されたのは就業規則という人道と言う耳障りの良い皮を被った絶対的なルール。
叛旗など振りかざそうものなら、征府が保有する治安保安員部隊『デリート&フォーマット』達が急行し、実質的に社会から抹消される。
人として、あらゆる歴史から消滅させられる。
物理メディア、電子的、そして人の記憶からも完璧に『消去』される。元からそのような人物などいないようにする。
あまりにも乱暴なやり方だと思うだろうが、実際それで数世代の間通常に社会活動が行えていたのだから問題はなかった。
だが積もり重なった滓は最後には致命的な亀裂を生じさせる。
ジャックもその『狂者』の一人だった。
このネクロポリスで人だかりが出来ること自体が珍しい。そんな世の中で一際異彩を放つホログラムピクチャ。
一種のピクトグラムのようにも見える幾何学的な模様のそれが、機能的で効率性はピカイチで無機質なこの地下都市で唯一、潤いをもって非効率で雑味を齎していた。
「ハッ──マジか、今回もとんでもないモノ残して置いていくな、コーディネーターさんはよぅ」
ジャックの薄ら笑い。
視界情報をスクリーンショットで瞬間的に撮影し、様々な方向から観察する。
この立体映像はここ数年で最もジャックの心を揺さぶった出来事であり、無味乾燥のこの世界で唯一と言っていい程関心の持てる『遊び』だ。
この立体投影落書きの手法、正しく巧妙。
これの制作者は一体どういった目的を以てしてこれを描き出しているのかは判らない。
ただ一つだけ言えるのは、この落書きには明確な問いが隠されていると言う事だけだった。
これに気づいている人間は少ないだろう。
何故ならすぐにこれらは清掃員たちに消されるから征府側も風紀を乱す愉快犯程度の認識しかないのだろう。
だが、愉快犯だろ殺人鬼であろうと、ジャックのような狂者にはいい遊び相手だった。
「今回は……ふぅん、1188桁のRSA暗号式に──こいつは『アルキメデスの螺旋』の数値の公開鍵暗号か……、じゃあ、いやおい待て待て、これじゃあ公開鍵しか導き出せないぞ……秘匿鍵暗号の要素は何処だ……」
コーディネーターと渾名されるその落書きを描いた者はかなり数学に明るい側面を持っているようだ。
この場にいる人間の中でジャックも同様に数学は明るい方だった。
数学は明快だ。そして必ず答えがある。
式そのものに欠陥が無い限り必ず問いの真相に到達できる。
そしてこのグラフィティにも必ず真相、『解』が存在している。
今迄がそうであったように。
ジャックは徐にポケットの中に納めていたそれを取り出した。
掌に収まるサイズの『キューブ』。
それは143個のパーツで構成された1:1.6の完璧な黄金比で成り立っている物体だった。
それは今迄コーディネーターが提示してきたグラフィティの中に隠され『解答』の結果であり今迄のグラフィティに隠されていた問いの到着地点。
一体何のためにあるのか何のために出力されたのか凡人にはまったく以て不明なそれであるが、ジャックは自らの手で組み上げたからこそこれが何らかの装置であると言う事だけは分かっている。
ジャックもこう見えて技能教育施設機関ではかなり優秀な成績の持ち主であるが、しかしながらその素行の悪さ。
そして『真っ当に』生きていても人生に張り合いも潤いもありはしない事は産まれてこの方ずっと感じていたから、唯一のめり込める技術開発やプログラミング言語に精通した知識量は『頑張った』と一言で言い表すにはあまりにも病的。
はた目から見たのなら気が狂った、強迫性障害の様にそれにのめり込んだ。
そんなジャックだからこそ分かる。
この『キューブ』は今迄ジャックが見て理解して来た技術群のどれにも当て嵌まらなかった。
今迄グラフィティの中に隠された問いの解答で導き出された情報、その数値はプリンターで出力する為のデータであり一目でそれが何かを作り出そうとしているのか理解できた。
だが、それらを実際に出力してみて分かったのは何かしらの事象現象を生じさせる装置であるがその『運用制御系』が無かったのだ。
例え今ここでこれを起動した所で何も生じない。
だが今回のこれがコーディネーターが残す最後のグラフィティであると言い切れる自信があった。
今迄のグラフィティの難易度から明らかに高難易度。
「こんな古典的な暗号を用いての問いか……解かせる気が無いな」
独り言ちりながらジャックは歓喜していた。
RSA暗号は1977年に発明された超古典的な暗号であるが、しかしながらそれらは古い手法であるが故に難解だ。
数学的構造が堅牢と言う訳ではない。ただ計算には莫大な時間が必要だ。
今回のコーディネーターが残したグラフィティの中にはRSA暗号本文と、公開鍵暗号があった。
そしてRSA暗号にはもう一つ、復号鍵暗号の数値が必要になってくる。
二つの数値が無ければ膨大な数の素因数分解を導き出さなければならない。
極超構造体の莫大な演算能力に掛れば虱潰しに行けるだろうが、しかしジャックは計算結果を悠長に待つほど気長ではなかった。
つい先日技能教育施設機関の課題で、新たなシステムプログラム開発の名目で征府奉仕のそれで開発したアルゴリズムを応用すれば──。
「Bingo! 一分と掛らず解けちまうなんて、俺様やっぱり天才だぜ!」
一人キャッキャと大喜びしているその姿は気でも触れているようであったが、実際ジャックは病気だった。己が存在をどれだけ鋭くするだけを突き詰めて今まで生きてきた。
その結果が今のジャックであり、征府で厄介な反征府犯罪者集団、呼び方は様々だが土地柄で不義連合と呼ばれ、カルテル登録名は『魔法使いたちの夜』。
その二大巨頭の一人がジャックでありハンドルネームを『ジャック・オー・ランタン』と名乗っていた。
世界各地の地下に点在する極超構造体。
その中でも取り分け大きな『八大征府』、その中でも名前を上げれば上位に食い込むであろう有数の違法集団であり、彼らの特徴として言えるのは度を越えた好奇心と向上心。
好奇心は身を滅ぼすか? 好奇心は漫画家をも殺すか? それとも好奇心は猫を殺すか? 。
YES! 絶対的にYES! だがしかし我々は姑息で老獪、一匹の猫の命が九つあろうとも、我々は集団。
総体の総メンバー数は既に百人近く存在し、それらが知識を共有している、
それらが一人一人の命の換算でするのならば百の命が存在していることに他ならない。
知識労働者であるが故にどこにでも入り込め、一人が欠けたところで99人の知識でそれを補う。
知識の総体が経験知識として全員に共有されるために全体とての魔法使いたちの夜の知識は失われない。
総体であり、ありながら個人。一人であっても総体。これが魔法使いたちの夜の実態なのだ。
この地下都市で人としての生き方を取り戻すべく、暴虐の限りを尽くす悪童。
確実にデリートコースだが、それでも何とか生き延びている。
「知識異常者の特権だな! さてさて……書き込みスロットは──」
そんなジャックの視界にチラリと見えた奇妙な影。
大きな黒色はこの都市の闇よりも黒く飛びぬけて漆黒のそれが視界の端に写った。
巨大な棺桶だった。しかも奇妙な事にどのメタデータにもヒットしない。
この極超構造体のどこにも接続がされていない孤立存在だった。
このご時世でプレッパーを気取る者は少なくない。
征府のタイトで徹底した統率社会を苦しく感じる者たちは、ジャックだけでなく数多くいる。
そう言ったモノたちは都市の暗部、ダークタウンへと逃げ込みジャックたちのようなカルテル化するのが常だった。
そう言った連中が雑多な高次情報行動履歴を乱造するから、この無限大の演算処理能力を持ち得た極超構造体を圧迫して常にデータ通信容量がカツカツなのだ。
そんな訳でジャックのような研修生であっても征府奉仕の名目で高次情報行動履歴の処理業務に当たるのだ。
「ツォミンディな野郎だな」
ジャックは手の平にプリントアウトした端末でインプラントを操作し、無意識下生体機能へと不正アクセスを行い、幻覚物質を放出させながら家路へと戻って行った。
視覚データを再度見ながら、解像度上げ棺桶を見てみる。
その棺桶には白い紋章がそこに刻まれていた。
まるでその者の個別の名前であるかのように。
『.06袮』と言う文字が。