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Presence

作者: 夜岸明希



 ナトロン湖に立っている少女の夢を見た。


 それは真紅に染まる不思議な色の湖だ。燃え盛る炎のように赤い湖面。作り物みたいな光景。夢の中では太陽が真上に浮かび、ぎらぎらと光を放っているけれど、気温は感じられない。私は湖のほとりに立ち尽くし、どうしていいのか分からないまま、湖の底から突き出した岩場に立つ少女をぼんやりと眺めていた。


 黒い布を巻き付けた少女。風が吹くと布がはだけて、真っ白な素足がのぞく。長い黒髪がさらりと揺れる。顔は反対を向いていて、どのような人間かはっきりとしない。


 白い渦のようなものが点在する赤い塩湖。その渦は炭酸ナトリウムなのだと、少女は言った。喋ったわけではなかった。ただゆっくりと伸ばされた左手が、宙を軽くひっかいた時、私の頭にその声が直接響いた。


「あなたは、死にたくないのでしょう。この渦みたいに、醜いかたまりになりたくはないのでしょう」


 と、少女は言った。白骨と変わらない色の指先で、かり、かり、と空間を削りながら。ここからではよく見えないが、彼女の爪はきっと美しいのだろう、と私は思った。何もない空間、湖面を吹く風をひっかき、楽器を鳴らすように彼女はメッセージを羽ばたかせる。


「私は、」


 痛む額を手でおさえながら、考える。私は、死にたくないのか? 生きたくないのか? そもそも私は誰なのか?


 雲一つない青空。美しい大気。脳が吸い込まれるように感じられるほど高い天井だ。金色の光彩でヒビが入るブルーセロファン。匂いたつ真っ赤な湖と空を繋ぐ灰色の岩場に立っている少女は、振り返って、笑った。


「何もかもがはっきりしないと答えられないのね、あなたは」


 かなり距離があるはずなのに、少女の顔だけはくっきりと見える。風に揺れる前髪の奥に輝く、二つの赤い眼球。湖の色彩を取り込んで妖しく灯る双眸。血の気のない頬、青白い唇、なめらかで手触りのよさそうな鎖骨。右手で体にまとわりつく布をおさえ、ゆらゆらと立つ少女。私は彼女をじっと見る。どこかで会ったことがある気がした。しかしどうしても思い出せない。ここが夢なのだと理解していること、ここがナトロン湖だと理解していること、それだけが私の全てだ。


 あるいは目が覚めたら、思い出すのだろうか? 私がどこの誰で、生きたいのか、死にたいのか。


「違う、違うのよ、クロア」


 目を細めて、少女は言う。


「記憶はいらない、感情もいらない、ただ、私たちはここにあるだけ。在るだけ。思い出してはいけないのよ」


「クロアというのが、私の名前?」


 少女は首をふる。


 裸足で岩場を降りてくる。


 もうすぐ紅緋色の湖面に足の裏が触れるというところで、少女は足をとめた。ざあ、と一際強い風が吹き渡る。布がはだけて、彼女の腹が、ふとももが、すねが、あらわになる。それは人間の肉体には見えなかった。白すぎて、傷も汚れも、陰影さえもなく、プラスチックよりも人工物の硬質さが感じられた。精巧に作られた機械人形。


 少女は空を見上げた。どこまでも広く、どこまでも透明で、白金の光を宿した空を。


 私も彼女にならって、同じ方を見る。ソーダ水で洗ったような空に、無数の紅鳥が飛翔している。


 レッサーフラミンゴの群れだ。


 忙しなく羽をばたつかせて、空を震わせながら彼らは繁殖地であるナトロン湖に戻ってくる。


「私は、あなたに問うわ、クロア。あなたが何者であるのか、そんなことはどうだっていいの。私たちはたとえ誰であったとしても、記号の一つにすぎない。いいえ、記号ですらない。あなたはクロアかもしれない。けれど、そうだとしたら私もクロアなのかもしれない。大切なのは、あなたがどうしたいか、どうするのか、だけなのよ」


 少女の周りに、数え切れないほどのフラミンゴが集まる。次々と着水し、長い足で立ち、皆が私を見つめる。湖面が波打ち、空気が濁る。


「でも、私は本当に分からないのよ。本当に、何もかも。やりたいことなんてないし、なぜ今呼吸しているのかも分からないの」


「全てを知ったら、私たちは生きる必要がない。分かる?」


 黒い布を巻き直し、フラミンゴの群れを背景にして、少女は歩き始める。湖の上を、音もなく。


「後ろを見なさい」


 私の方に向かって歩きながら、少女は言う。


 自分で動かしたつもりはないのに、体がぐるんと後ろを向く。乾いた大地。ただただ地面が続く景色に、たくさんの異形。燕、鳩、ガゼル、水牛、ヒト。ぴくりとも動かず、皆、石灰化している。


「これは、ただのイメージ。私たちは、所詮このようなものにすぎない。生きていても、死んでいても。なぜ生まれ、なぜ死に、なぜ、ただの物質にすぎないのか。理解してから、何が出来る? 何も出来やしないわ。だって私たちは、単なる石ころ」


 虚ろな骸。命の失われた器。


「一つを知れば、三つを問うわ。人間だから。終わりはないの。仮に問いが終われば、死ぬしかなくなる。だから、ねえ、クロア」


 私の顔を両手で挟み、少女は微笑む。


 ああ、やはり彼女は、雨に濡れたかたつむりの中身のように美しい爪をしていた。


「あなたがやりたいことは、あなたが理解しているのよ。答えを知るのではない。問うのでもない。あなたが願い、あなたが求め、あなたがやらなければならないこと。理屈は、理由は、動機は、あなたを腐らせる」


「私は、私は、ねえ、」


 そう、ただ、生きてさえいればいいの。


 少女は黒い布を私に巻き付けた。そうだ、私は今まで、裸だったのだ。






 いつの間にか、私は一人になっていた。フラミンゴも、少女もいなかった。ナトロン湖も、青空も消えていた。


 広大で、薄暗い空間に、一人ぼっちだ。


 何百メートルも先の頭上に、小さな光が見える。太陽ではない。もっと何か、深いものだ。そして、今の私では近付けないもの。


 私は大きな井戸の底にいるようだった。歩いても歩いても、壁に行き当たらないほど広い井戸。


 薄闇をふらふらと歩く。


 夢から覚めても、私は私を思い出せない。やりたいことも、分からない。


 分からない、分からない、分からない。


 ただ生きていくこととは、何だ?


 普通に生きていくには、どうしたらいい?


 どうして私は、壊れているのか?


 少女の言っていたことは、嘘ではない気がする。


 質問の数だけ、答えの数だけ、世界は剥がれ落ちてしまうのだ。獲得したものは、記憶となり、過去となる。


 しかし、何も問わなければ、それは死と変わらない。


 歩みを止めて、光を見上げる。


 釣りあう。


 ナトロン湖の光景を思い出す。


 少女は岩場に立っていた。


 青空と、燃える湖面の間で。白い肌と、黒い布。フラミンゴの群れと、死んで石灰化した生物群との狭間で。


 死ぬ為に生き、生きる為に死に、「釣り合う為に在る」。


 私は、少女について考える。


 ふっと、楽になる。


 再び歩き始める。


 そうだ、そうなのだ。


 こうして、自分の足で歩くこと。


 どこかも分からず歩くこと。


 ただそれだけで、ただそれだけで。


 私は生きている。私は生きていく。


 そして、この夢は永遠に終わらないだろう。





 なぜなら、私はいつの時代をも、生きていないのだから。




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