妙見桜奇譚
妙見桜は、別名龍神桜と呼ばれる。伊豆之目妙見社の境内にある、龍と見紛う枝ぶりの桜の巨樹をあおぎ、美誠矢は汗を拭う。まだ冷たさの交じる春風が、美誠矢のくせっ毛を頬へ弾いて流れた。
青空の背景に浮かぶ桜の蕾たちは、近くにあるのに不思議と遠くて、掃除の手を休めた美誠矢は飲み込まれてゆく錯覚に絡めとられる。
「龍神さんさ、浚われっと」
うっすら遠のきかけた意識が、しゃがれた声音によって引き戻された。かくんと背後に引かれ、慌てて右脚をふんばる。
声の主ーー河南の婆さまが、ふらつく美誠矢へ手招きした。若い彼女は、老いた友人たちが作り過ぎたぼた餅を、腹へ片付ける要員なのだ。まだ掃き残された虚闇を脚と杖で払い歩き、河南の婆さまがすたすた美誠矢の元へ。無意識に彼女を支え、美誠矢が頭を下げる。
「ごめんなぁ。まぁだいっぺぇ、掃ききんなくて」
足元に低くたゆたう黒雲のような「虚闇」が、美誠矢の背丈を超える箒にまとわりつく。しかしそれは果たされることなく、触れた刹那、炭酸の泡のごとく消えた。河南の婆さまが、低くのたまう。
「溜まったなぁ。こら、近ぇうぢに大掃除すっぺし」
「んだ。んだども、妙見さん大丈夫がぁ?」
二人は、妙見社の本殿を窺う。本殿は沈んで見え、薄灰の霧に漂う難破船にすら思える。
拳を握りこんだ美誠矢の二の腕をやわく掴み、老女が呟く。
「もうすぐ満開だぁ。あんだ、『あれ』ば呼んでこう」
「あいづはまだだって、妙高さまが言ってたっちゃぁ……」
ざぁ、と風が逆巻いた。薄灰の綿ごみにも見える瘴気の塊ーー「虚闇」が、巻き上げられて一気に泡と消える。
おもむろに河南の婆さまが紡ぐ。
「あんだの、あれ『覚醒』するっちゃ」
彼女たちの背後が、ぼぅっと光を放つ。妙見桜の枝えだに、小さな光が星空めいて灯っていた。