5(1/2).蒼ざめた羊 - The Pale Sheep
2023/04/01、改稿
キンバリー通り32番地。
オルトンたちがグレアムから教えられたその住所は、『パットズ・バー&グリル』と看板が掲げられた飲食店だった。すっかり日も暮れた時刻に、オルトンはその店の前で一度背後を振り返り、そして溜め息を吐いた。
……まさか、こんな怪しい店構えの所だったとは。こんな所にリリーを連れて行ったことを知られたら、あの人にどんな嫌味を言われることか。
オルトンを悩ませている当人であるリリーは、そんな事情など知る由もなく、ドアノブに手をかけない彼を不思議そうな顔で見上げている。
「入らないの?」
オルトンは悩ましげに声を絞り出した。
「……リリー、こういう場所にある店って、どういう場所か知ってる?」
「えっ? 看板には、BARって書いてあるけど」
「……うん。そうだね。確かに、そうなんだけど。ここさ、地下だろ?」
「そうね?」
「地下にある店っていうのはさ、大抵――」
「もう、つべこべ言わずに入って」
「あ、おい、ちょっと」
リリーにドアノブを回され、背中を物理的に押されながら店内に入ったオルトンは、想像していたのとは別の意味で圧倒された。
三階建の半地下に位置する『パットズ・バー&グリル』は、ボックス席がふたつ、テーブル席がみっつに、カウンター席がななつのこじんまりとした店だった。肉の焼ける匂いが充満し、落ち着いた店内の雰囲気にはそぐわない音楽が流れていた。給仕は姿勢の綺麗な黒人男性がひとりで、調理場には無骨な白人男性がひとり、その無骨な白人男性こそが店主のパットだった。
パットは、禿頭のでっぷりとした男で、今まさにカウンター裏のグリルで生のパティを焼いていた。その手捌きは一見プロのように見えるが、閑散とした店内の状況を考えれば腕前は疑問だ。
ふたりの来店にほんの少数の客が顔を上げ――ひとりはソファに凭れて眠りこけていた――、遅れて店主が顔を上げると、「ウィリー、客だ!」と声を張った。粗暴そうなシェフだ、とオルトンは不安になりつつも、愛想笑いを顔に貼り付けることを忘れなかった。
パットに呼ばれた給仕のウィリーは、いそいそと2人の前に現れ、「こちらに」と席を案内した。
カウンター席に腰を下ろしたリリーは興味深そうに店内へ視線を巡らせていた。元来、彼女は好奇心が旺盛なのだ。それゆえにオルトンの心配性は悪化の一途を辿り、彼女の行動を制限していたせいで、今の彼女の受動的な性格が形成されてしまったのである。この点においては、当のオルトンも、先日、少々反省したばかりである。
オルトンはぐるり、と店内を――というより、客の顔を――見回しながら、グレアムの言った、彼が"一番信頼を置いている者"を探した。
一体、彼はどこにいるのか。どんな姿をしているのか。知っているのは、ジェームズ・カヴァナーという名前だけなのだ。何を見て、"彼"だと判断したら良いのか。どうやってこちらに気付かせたら良いのか。――そして、何故この店なのだろうか。
「ご注文は?」
無骨な店主は厨房の作業台に手をついて、身を乗り出すように訊ねた。
「えーと――」
オルトンはちらりと店内の客のテーブルを見た。そのとき、全ての客のテーブルに、決まって同じ料理が乗っているのを見逃さなかった。
「――皆さんと同じものを」
店主はじろり、と周りの客を見て、あろうことか嘆息した。パットは、あの料理を作るのはもう飽き飽きしていた。しかし、彼はそれ以降、機嫌の悪そうな態度を改めて、文句も言わずに調理を始めた。実に真剣な顔つきで、パティ2つと2センチ幅のベーコン4枚を焼き始めたのだ。
オルトンがしばらくその様子を眺めながら、どうしたことだろうと考え込んでいると、リリーにくいくいっ、と服を引っ張られた。何事かと視線を遣ると、彼女の怪訝そうな視線とかち合った。
「緊張してるの?」
「なんで?」
「だって、さっきからそれを弄ってるから」
リリーはオルトンの袖口のカフリンクスを指差した。オルトンは、言われて初めて自分の手許を確認した。確かに、自分は実に神経質そうにこれを弄っていたようだった。オルトンは溜め息を吐いた。
……どうも締まらないな、今日の僕は。普段ならこんな痴態は晒さないのに。リリーの言う通り、柄にもなく緊張しているのか。
リリーは申し訳なさそうに眉を下げ、肩を竦めた。それから、オルトンのためにウォーターサーバーから(辺りを見回していたときに、カウンターの脇のテーブルに置かれているのが目に入ったのだ)水を汲んでやることにした。席を立つと、いつものようにオルトンに腕を掴まれて行き先を聞かれたので、これまたいつものようにリリーは自身の行動を説明した。まさか、あんな近場までついてくることはないだろう、とリリーが思っていると、オルトンは一瞬迷う素振りを見せて、そうか、と小さく呟いた。いくらなんでも、過保護過ぎないだろうか。
そのとき、ちょうどカウベルが鳴って、店内中に誰かの入店を知らせた。音に反射的に反応して、リリーとオルトンが入り口に顔を向けるほんの直前、信じられないことが起きた。店主が「ジェームズ!」と大声を上げ、腕を振り上げて、そちらになにかを投げたのだ。
店主の声に驚いてリリーたちが振り返ったのと、背後でびちゃ、となにか繊細そうなものが割れた音が聞こえたのは、ほとんど同時であった。ふたりが再び入り口の方に顔を向けたときには、既に見事なまでに無駄になってしまった卵と、その行方を見守る、一切汚れた様子のない出で立ちの青年がそこに立っていた。
店主は、ちっ、と舌打ちして、何事もなかったかのように作業に戻った――即ち、バンズを焼き始めた。
「あああああ! ちょっと、店長! だから、食べ物を粗末にしてはいけないって、何度も言ってるじゃないですか!」
店主の叫び声を聞きつけて、給仕のウィリーが慌てて駆け寄った。店主はむすっとした顔で、「トマトは投げてないぞ」とほとんど呟き声で答えた。
「卵も駄目です! たとえフェスティバルで投げられているものだとしても、職場で食材を投げてはいけません! しかも、飲食店で!」
そう言いながら、既に手にしていた布巾で、ウィリーは店主の始末を片付けている。さらに、このよくできた給仕は、傍らに立つ青年に「被害はありませんか?」と訊ねることも忘れなかった。
青年は首を横に振った。
「……大丈夫」
その声は低く、呆れを含んでいた。
彼は、蜂蜜色が疎らに混ざったアンバーの髪色の青年だった。細身な身体付きで、それが彼を幼く見せているようだったが、捲られたシャツから覗く腕は程よく鍛えられていて、彼が少年ではないことを証明していた。また、その中性的な顔付きは一見人寄せしそうだが、重い瞼が被さった切れ長の目が逆の効果を発揮していて、些か近寄り難い雰囲気を纏っていた。
しかし、オルトンはその目付きに、なにか惹かれるものを感じた。オルトンの傍らに立つリリーも同様で、その青年から目を離せずにいた。それもそのはず、彼のようなタイプの男性に、彼女は会ったことがないのだ――彼のように、なにかを背負い込んだような、その目に暗い光を宿した男には。
「こんにちは、ジェム。今日は仕事だったのかい?」
入り口付近のテーブル席に座っていた老婦人が、やってきた青年に声をかけた。
「こんにちは、ミス・バザロヴァ。今日は非番ですよ」
ジェム、と呼ばれた青年は、にこりと微笑んで応対した。しかしバザロヴァ老婦人は彼の返答に関して大した興味は持っていなかったようで、そのまま話題を変えて喋り続けた。
「実はお昼頃に、ロスのご婦人がこの店にやってきたらしくてね、今日のパトリックは随分酷かったんだよ。いつもに増して愛想が悪いもんで、ご新規さんなんか、ほとんど回れ右して出て行っちまって」
どうやら常連客にとって先程の出来事は見慣れた光景だったらしく、何事もなかったかのように会話を始めた老婦人の声に、リリーは我に返った。そして、中途になっていた目的を果たすため、ウォーターサーバーへ向かった。一方のオルトンも、先程より肩の力が抜けた様子で、リリーに注意を向けつつ、同時に、店内で交わされている会話に耳を傾けていた。
常連客の老婦人の話は続いている。
「どうやら今日も打診されたらしいのよ、お店を一緒にやらないかって。でもね、それってつまり、キッチンの主導権を彼女に譲れってことでしょう、彼女が提案しているのは? それはもうね、料理人として、パトリックのプライドも傷つくってもんですよ」
すると店主が、けっ、とあしらった。
「相談する相手を間違ってるよ、婆さん。そいつだって、俺の料理よりあっちの方が美味いと思ってんだから。俺がそいつに望んでいるのは、家賃だ。家賃さえ払ってくれりゃ、あとはどうだっていい。『ロス』に行くのだって、好きにすればいいさ」
それにジェム青年は、顔を顰めて言い返した。
「だったら、卵なんか投げ付けてくるなよ。いつも言ってるけどさ、他の人に当たったらどうするつもりなんだ」
「憂さ晴らしだ。むしゃくしゃしてやったんだ」
「それで許されると思ってんなら、あんた、幼稚園からやり直せ。それとも、これまでの努力を無駄にしたいのか? ――まったく、こんな役まで父さんから引き継いだ覚えはないぞ」
ジェム青年の台詞に、店主はふんっ、とそっぽを向いた。その子供っぽい態度に、青年は嘆息した。それから彼は、しっかりとした足運びでゆっくり歩き出し、オルトンの横で立ち止まった。何事かと視線を遣ると、ジェムは上手に営業用の微笑みを浮かべた。
「どうも、"蹄鉄工"をお探しですか?」
青年の言葉に、オルトンははっとした。それは、"蹄鉄会"とスミシー探偵社の間で交わされる、合言葉であり、合図だったからだ。
「……あなたが、ミスター・ジェームズ・カヴァナーでしたか」
確かに、青年の白いシャツの左の襟には、グレアムと同様に、火鉗と蹄鉄とを模したピンが挿してあった。彼がスミシー探偵社の社員である証である。青年、もとい、ジェームズ・カヴァナーは頷いた。
「グレアム支部長からは、あなたの依頼を請け負うようにとしか伝えられていないので、お手間ですが詳しい依頼内容をお聞かせ願えますか?」
「ええ、勿論です」
オルトンは傍らに立つカヴァナー青年に身体ごと向けて座り直し、背筋を伸ばした。
「僕の名はアルフォンス・ギファードといいます。どうぞ、お見知りおきのほどを」
ジェムは、努めて自然にアルフォンス・ギファードという青年を観察し始めた。ブルーのダブルのスーツを立派に着こなしているがまだ若く、自分と同世代か、もしくはひとつふたつほど年上だろうと推測する。
アルフォンス・ギファードの胡桃色の柔らかく癖のある髪は、上品にアシンメトリーにセットされていて、目尻の下がった切れ長の目は、微かに目視できる程度の青を地にしたヘーゼルであった。その目の上の、山形のしっかりとした眉は、この男の堅実そうな雰囲気をきちんと作り出している。しかし、彼の特徴で最も印象的なのは、いかにも高級そうな採寸されたスーツでも、いかなる形の顔のパーツでもなく、常に微笑んでいるせいで笑みがこびりついて地の顔になったとでも言うような、羊のようなその表情だ。
ジェムは、その笑みが苦手だと感じた。この男の笑みは、"笑顔"ではない、と思った。人の良さそうな笑みの仮面を嵌めた、剛直で合理的な人間――そうだ、弁護士のような人間が、ちょうどこういう顔をよくしている。
「あなたには人探しをして頂きたいのです」
「人探し、ですか」
ジェムは、厄介そうな仕事だな、と身構えた。
「ええ、その人は――そのう――顔も知らない人、なのですが」
いよいよ厄介だ、とジェムは心の中で嘆息した。グレアムは、何故この仕事をジェムに引き受けさせようとしているのだろう。内密ではあれど、既に仕事を請け負っている身だというのに。
一方その頃、リリーは気後れしていた。コップに水を汲むという目的は既に達成されている。しかし、それを持って、オルトンと会話中のジェームズ・カヴァナーの前に現れるという行為が、なぜだか無性に恥ずかしいことのように感じられたのだ。それゆえに、リリーはオルトンと合流できずにいるのである。
すると、どうしたことか、カヴァナー青年がこちらに視線を向けてきた。リリーは驚いて、思わず肩がびくりと跳ねた。
「その前に、席を変えませんか? その方が、同行者の方も話しやすいでしょう」
ジェムの提案に、オルトンは意外そうな顔をした。このジェームズ・カヴァナーという青年が、リリーの存在に気付いているような素振りは、このときまで全く見せなかったからである。
ジェムは、とりあえず、とぐるりと店内を見回して、ボックス席を使うのが良いだろうと判断した。
「どうぞこちらに」
カヴァナー青年に案内されて、オルトンとリリーはボックス席に移動した。席に着いたと同時に、まるで見計らったかのように注文した料理が配膳された。
「どうぞ、ベーコン・エッグ・スピナッチ&トマトバーガーです」と、仕事のできる給仕は、料理名を伝えることも忘れなかった。
「ジェムはどうします?」
ウィリーに訊ねられて、ジェムは返答に窮した。店主兼シェフのパットとは、先程喧嘩したばかりである。不用意な発言はできなかった。
「……シェフの気に障らないものを」
ウィリーはにっこりと完璧な笑顔で、「かしこまりました」と、テーブルを離れた。