4(1/2).ホースシュー・カフェにて - At Horseshoe Café
2023/04/01、改稿
一部内容を変更致しました。m(_ _)m
北西の国エルヴェシアで、その名を轟かせている大泥棒スワイリーは、別名『妖精泥棒』として知られている。
彼――男か女か定かではないが、ここでは"彼"と呼ぶことにしよう――が『妖精泥棒』と呼ばれる理由はただひとつ、彼の狙った獲物がすべて妖精が宿るとされている代物だったからだ。
エルヴェシア国民ではない読者の諸君よ、君たちには到底理解できないだろう。そんな真偽も価値も分からない超自然的な代物を盗んで、一体なんになるのか、と。その疑問への答えは勿論、「金になる」だ。それも、とてつもなく。そこが、エルヴェシアなら――もしくは、さらに北のアルビオン王国なら、宝石などとは比べ物にならないほどの高額で取引されるだろうことは間違いない。
先日、『パットズ・バー&グリル』に置き貯められていた古新聞をかき集め、日を跨いでようやく得た情報は、先に"彼"の呼び名として付けられたのは『妖精泥棒』の方だということだ。だが、いつ頃からかこの泥棒には『スワイリー』という名が与えられ、不思議とその名前は浸透して、今では『妖精泥棒』よりも『スワイリー』という呼び名の方が一般的になっているようだった。
「……パット、あんたは妖精について、どう思う?」
グレアムから依頼を請け負った翌日、『パットズ・バー&グリル』のカウンター席に座り、ジェムは新聞を左手に広げ、右手には考えを纏めるためのペンを持って、キッチンで暇そうにテレビを見ている店主のパットに問いかけた。小さなパイプ椅子に腰掛けていたパットは、そのでっぷりした尻を時折居心地悪そうに浮かせながら、テレビ画面から目を離さずに答えた。
「それは、一般的な妖精の話か? それとも、"妖精の階段"が信じているような妖精の話か?」
「どっちでもいい」
ジェムの返事に、パットは自身の少ない髪の毛の間に指を差し込み、ぐりぐりと頭皮を刺激しながら、ゆったりと身体をジェムの方へ向けた。
「――それは、どっちも、って意味だろ?」
それから、はあ、と大きな溜め息を吐いて、話を続けた。
「俺の母親はアイルランド系移民だったから、その影響で俺も妖精のことを信じていた時期があったよ――いや、今でも多少は信じてる。エルフとかドワーフの存在を、な。だけどそれは、生物としての類で、だ。"妖精の階段"が聖堂で教えているような、天使とごちゃ混ぜになったわけの分からんヤツとはモノが違う」
「でも、あんた自身はエルヴェシアで育ったんだろ? 建国の歴史を学んでいても、彼らの言う"妖精"は信じていないのか?」
「ああ、アレな。妖精たちを率いる女神エオストラの啓示を受け、アルビオンの探検家たちは――」
「――此の島に古の王国を蘇らせることを天命とし、女神の意志の下で此の地を開拓した」
パットの歴史の暗唱の続きをジェムが引き継ぐと、パットはそれを、はん、と鼻で笑った。
「進化論も学んだが、俺は猿が人間になったなんてのも信じてない」
「レムリア大陸なんてのも、そもそも存在しなかったと考えてるわけだ?」
「探検隊が啓示を受けたなんて話も、な」
なるほど、とジェムは相槌を打った。
「それじゃあ、"妖精の遺物"については? どう思う?」
「妖精が宿ってるとかいう宝物のことか? あんなもん、聖顔布みたいなもんだろ。信憑性に欠ける」
「……今の発言で、あんたがカトリック信者じゃないってことはよくわかった」
パットとの会話を切り上げ、ジェムはぱたん、と手帳を閉じ、それをシャツのポケットに仕舞って、広げていた古新聞を折り畳んだ。
そんなジェムの様子を見て、「お出かけかい?」とパットが訊ねた。カウンターテーブルに積み重なった新聞を片付けながら、ジェムは答える。
「会社の記録保管庫に。"妖精泥棒"なんて妙な奴を調べるのに、新聞の記事なんか漁っても役に立ちそうにないから」
「なら、俺が教えてやろう」
自信満々な態度のパットに、ジェムはちら、と視線を遣った。パットは得意げに続けた。
「"妖精の遺物"は金になる。だからヤツは盗むのさ」
ジェムは哀れみの目でパットを見遣った。
「そういうことじゃないんだ、パトリック」
「じゃあ、どういうことなんだ、ジェームズ?」
むすっと口を曲げるパットに、ジェムは肩を竦めた。
なぜ、調べるのか。
なぜ、調べてはいけなかったのか。
関わっていけないのは、この泥棒か。
それとも、"妖精の遺物"か。
「……それを調べるんだよ」
なんじゃそりゃ、とパットが不満げだが、ジェムはそれには応えず、まだ開店前の店を出て行った。
* * *
白き都、ブランポリス市はウェストコースト地方に位置する、エルヴェシアで一番栄える湾岸都市だ。古都と新都が混在するこの地域は、エルヴェシア共和国の400年の歴史を背負った土地であり、この国で最も発展した近代的な街でもある。高層建築物が林立する一方、湖を抱える広域な公園等もあり、文明と自然が融合する都市としても知られている。また、昼間の緑生い茂る公園ではポルカが流れ、夜間の商業施設が密集する港ではジャズが流れるというふうに、民族や文化のるつぼのような場所でもある。
そんなブランポリスの中心地の一画にある、華麗で小粋なことに定評のあるビルの喫茶店で、リリーは物珍しそうに辺りを見回していた。
オルトンがなぜリリーをこの店に連れてきたのかは分からない。ブランポリスに着くなり彼は、「ちょっと休んでから行こうか」と言って、今までリリーを連れてきたことのない、『ホースシュー・カフェ』という名のこの喫茶店に、迷うことなく入っていったのだ。
店内は、一部の天井がガラス張りの天窓になっていて陽が差し込み、アトリウムを意識した内装になっていた。ブランポリスの風景を切り取ったモノクロ写真が、不揃いな煉瓦を積み重ねたような壁を飾り、レコードは耳に心地の良い音楽を流していた。なかでも、一番リリーの視線を奪ったのは、店の軒先にぶら下げられた馬の蹄鉄だ。
馬蹄が幸運の御守りであることは、勿論リリーも知っていた。しかし、今どきこんな街中で、本物の蹄鉄を堂々とぶら下げているのは珍しかったのである。何かと信心深く古臭い上流階級の人たちですら、そんなことをしている人はなかなかいないというのに。
カフェのマスターは、髪をオールバックにセットした、針金のような男性だった。お好きな席へどうぞ、と声をかけられ、リリーとオルトンはテーブル席に着いた――かつて、30年越しの結婚式を挙げた老夫婦が座ったという、その場所に。
ふたりが椅子に座って落ち着いた頃を見計らって、ブロンドのふくよかな女性が、白いブラウスと黒のミディスカートに茶色の前掛けという出で立ちで、テーブルの傍にやってきた。胸に付けられたネームプレートには、ボニーと書かれている。ボニーの手には質素な手帳と、短い鉛筆が握られていた。オルトンはその女性の姿を見て、いつもの人の良い笑みを浮かべた。
「ご注文はお決まりでしょうか」
接客にはあまりにも無愛想な顔で、ボニーは言った。オルトンはにこやかな表情を崩さないまま、顎の前で手を組んで、メニューも見ずに口を開いた。
「ラテをふたつ。それから、ブラック・スミスを」
オルトンの言葉に、ボニーの片眉がぴくり、と動いた。リリーはボニーの微妙な変化に目敏く気付いて、ちろ、と彼女の目が動いたのも見逃さなかった。
「……名前は?」
「アルフォンス・ギファード」
ボニーはさらさらと手帳に注文を走り書きし、オーケイ、とおざなりに返事をして、さっさとカウンターの後ろに引っ込んでしまった。
接客態度は控えめに言っても悪いが、リリーはボニーを嫌とは感じなかった。瞳の色は温かいし、ココナッツミルクみたいな匂いがして、悪い人には思えなかったから。ただ、気になるのは――。
リリーは、ボニーが先程目を向けていたところに視線を遣った。それは、オルトンのドレスシャツの左袖だった。そしてそこには、彼にしては珍しく、カフリンクスが飾られていた。装蹄鎚と削蹄剪鉗を模したカフリンクスに、馬蹄が連なったかのようなデザインのカフスチャームを装着したそれらは、不格好にも、左袖にしか付けられていなかった。
「オルトン、それは? それに、ブラック・スミスって?」
リリーが指差したものを見て、オルトンは、ああ、と返事をした。
「これは幸運の御守りだよ。ブラック・スミスっていうのは所謂、暗号の一種で、僕に幸運をくださいって意味なんだ」
「なんでわざわざそんなこと」
オルトンは切れ長ながら目尻の下がった優しげなその目を、さらに細めた。
「僕たちには幸運が必要だろう?」
リリーはむっとした。
「そういうの、あんまり好きじゃない」
「そういうのって?」
「はぐらかして勿体つけるの」
「あははっ、ごめん、ごめん」
オルトンはテーブルの上で腕を組んで、姿勢を低くした。これは、真剣な話をするときの、彼の癖である。リリーは、彼に倣って腰を屈めた。
「"蹄鉄会"、って聞いたことある?」
「ううん」
「"蹄鉄会"っていうのは、『より良い社会を実現するため』に活動している人たちのことで、このカフリンクスはその団体の一員であるという証なんだ」
「えっ、いつからそんなのに入ってたの?」
「先月入ったばかりの新規会員だよ」
「そこでなにしてるの?」
「情報収集とか、意見交換とか。店先に馬蹄がぶら下がってる喫茶店のいずれかに定期的に集まって、交流会を開いてるんだ」
「じゃあ、今日はその定期交流会に参加しに来たってこと?」
「いいや。定期交流会があるときは、あの馬蹄と一緒にホースブラスっていう装飾品がぶら下がってるから」
そう言って、オルトンは窓の向こうに見える店先の馬蹄を指差した。そこには、馬蹄以外のなにもぶら下がっていない。つまり、今日ここで交流会は開かれないということだ。しかし、ならば、いっそう不可解なことがある。
すると、先程の店員、ボニーがトレイを持ってきて、リリーたちのテーブルにラテを配膳した。ふたりは、ありがとう、と口々にお礼を言って、彼女からラテを受け取った。ボニーは領収書を裏返しにしてテーブルに置き、ラテと一緒に持ってきた文鎮で、その紙を抑えた。
リリーは、目の前で羊のような笑みを浮かべてラテを嗜む幼馴染みを、戸惑いの表情で見つめた。
「ねぇ、オルトン」
オルトンは目線を上げて、続きを促した。
「ブラックスミスって、蹄鉄工のことでしょう? もしかして、"蹄鉄会"と関係があるの?」
オルトンのヘーゼルの瞳が揺らいで、一瞬、グレーに光った。リリーはそんなふうに、オルトンの緊張を正確に感じ取った。
「……今の質問、駄目だった?」
リリーの不安げな様子に、オルトンは微妙な笑みを浮かべた。
「ううん。相変わらず察しがいいな、と思って」
そう言って、リリーの質問から逃げるように、オルトンは領収書に手を伸ばした。その紙に書かれたものを確認すると、オルトンは1リブル札を2枚と10オズ硬貨を4枚テーブルに置いて、ラテを飲み切らないうちに席を立った。
「そろそろ行こうか」
「――でも、まだ飲んでないのに」
「あとで飲めるよ」
説明不足も甚だしい。リリーはますます混乱した。だが、なにがなんだかわからずとも、そろそろと彼に従うしか、リリーには術がなかった。
オルトンはボニーから受け取った領収書をスーツのポケットに忍び込ませて、リリーをエスコートしながら店を出た。彼はカフェのビルの裏へぐるりと廻り、狭い路地に設置された鉄骨の階段を登り始めた。
リリーは気を張り詰めた。カフェの裏に設置された階段である。従業員しか入れない場所だとか、関係のない人間は使ってはいけないものなのではないかと、ひとり恐慄いたのだ。
階段の先には無骨な鉄のドアがあり、その横には、『スミシー探偵社ブランポリス支部』と書かれた真鍮製のプレートが掲げられていた。
「スミシー探偵社?」
リリーはオルトンを見上げて説明を促した。しかし、オルトンは笑ってなにも答えなかった。
オルトンはドアに取り付けられた暗証番号式の補助錠を、先程の領収書の隅にあった走り書きの通りにボタンを押して、解錠した。
ドアの向こうは細長い通路になっていた。通路の右側には、窃盗事件や詐欺事件、脱獄囚や逃亡犯を扱った事件、危険性はないが不可解な事件など幅広い種類の、だが全て解決された事件の新聞の切り抜きが、壁一面をスクラップ帳に見立てたように貼られていた。一方、左側の壁はガラス張りになっており、コーヒー豆が入った幾つもの麻袋と大きなロースターが置かれた1階のカフェの工房を臨めるようになっていた。
「さっき、"蹄鉄会"について話したろ」
通路に足を踏み入れ、ドアをしっかりと閉めてから、オルトンが言った。
「その"蹄鉄会"の会員が抱える"悩み事"を解決してくれるのが、スミシー探偵社だ」
「探偵が悩み事を解決してくれるの?」
「そう。僕たちが滞りなく、社会に貢献できるように」
あれ、とリリーは考えるときの癖で、口許に人差し指の関節を押し当てた。
「でも、わたしは"蹄鉄会"の会員じゃないわ」
「うん。でも、君の悩み事は、僕の悩み事だろ?」
リリーは呆れた。
「それは、ちょっと横暴じゃない?」
「君が悩んでいると聞いて、僕は心配で夜も眠れなかったというのに?」
「嘘ばっかり」
「心配なのは本当だよ」
眠れなかったっていうのは、嘘だけど。リリーは、そんなオルトンの心の声が聞こえた気がした。
長い通路の先にあったのは、探偵社と聞いてリリーが想像していたものとはまったく異なる部屋だった。
暖炉としての役目を終えたマントルピースやその上に置かれた置時計などのアンティーク、天井に届くほどの高さの迫力ある本棚といった調度品の数々が、この部屋を時空を超越したような異空間に仕上げていたのだ。まるで老舗のホテルのラウンジか、或いは19世紀頃に建てられた古い邸宅の談話室に訪れたかのような気にもさせてくれるので、誰かがここに寝泊まりしていると言われても、きっと驚かないだろう――均等に並べられた机と、電話機とタイプライターと書類の山と、そして、社員らしきスーツ姿の人々に目を向けさえしなければ。確かにそこは、会社の事務室と思しき場所であるが、家具の材質などが醸し出す空気によって、およそ探偵会社とは思えない場所だったのである。
リリーとオルトンがこの部屋に足を踏み入れたとき、ふたりの訪問に真っ先に気付いたのは、マントルピースに凭れかかり、書類を片手になにやら考えに耽っていた様子の男だった。男は左手で顎髭を撫でながら、にやり、と笑った。
「おや、これはこれは。ギファードのとこの坊っちゃんじゃありませんか」
「お久しぶりです、ミスター・グレアム」
グレアムは、くつくつと笑った。
「坊っちゃんが先月、"蹄鉄会"に入会されたという話は聞いておりましたが、まさかこんなにも早くお会いできるなんてねえ。坊っちゃんみたいな御人には、私たちなんて生涯必要なることはないだろうと思っていましたよ」
「僕にだって、猫の手も借りたいときぐらいありますよ」
オルトンは朗らかに笑った。勿論、外面用の笑顔である。
涅色の髪をしたその男は、どこか人を惹きつける空気を纏わせていた。それが、その野性的な甘いマスクのせいなのか、逞しい身体付きのせいなのか、はたまた、低く落ち着いた声のせいなのかは定かでないが、ともかく、このグレアムという男は、出会って僅かな時間で人の興味を引き出すことのできる人間だった。
「――それで、そちらの可愛いお嬢さんは?」
グレアムがずい、と身を屈めて顔を突き出し、リリーの顔を覗き込んだ。彼ほどの整った顔でなくとも、ここまで顔を近付けられれば誰だってどぎまぎするだろう、とリリーは頭の片隅で思った。
「……リリアーヌ・ベルトランといいます。どうぞよろしくお願い致します」
リリーはもう少しで消え入りそうな声で名乗った。
「どうも、可愛らしいお嬢さん。私はアンヘル・アラン・フェヘイラ・グレアムと申します。少々長いですから、アラン・グレアムと覚えてください」
名乗ったからと言って、名前で呼んでくれるわけではないらしい。「お嬢さん」という呼称を変えないグレアムに、リリーは作り笑いを浮かべた。