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2022/05/29、改稿
一部内容を変更致しました。m(_ _)m
自宅の玄関を開けると、案の定、オルトンがはらはらした様子でリリーを待っていた。
「リリー! どこに行ってたんだよ、心配したんだぞ!」
「……ちょっと頭を冷やしに公園に。オルトンが考えてるような恐ろしいことは、なにも起こらなかったわ」
リリーは顔を顰めて言った。
「もう、君が安全ならなんでもいいよ――でも、なにがあったの? 言っとくけど、なにもなかったなんて嘘は通らないからね。君の顔を見れば、なにかがあったのは、一目瞭然だよ」
興奮したオルトンにリリーは呆れながら、彼の背後に控えている執事のエアハルトに目配せをした。エアハルトは、ハリウッディアン髭が良く似合う瓜実顔の老紳士だ。彼はリリーの頼みで、彼女を追いかけてオルトンが家から出ないよう、今まで足止めをしてくれていたのだ。エアハルトはリリーたちに軽く頭を下げ、すたすたと仕事に戻って行った。
リリーはオルトンの機嫌を取るためにも、客間に向かう前に事の顛末を話すことにした。
「男の人に話しかけられたの」
「なんだって? どこの誰だよ、そいつは。なにをされた?」
「落ち着いて、オルトン。まだ話は終わってないんだから」
リリーに兄はいなかったが、この控え目に言っても――言わなくても――過保護な兄のような親友は、実の両親(父の行き過ぎた過保護ぶりについては、リリーはまだ気付いていない)よりもずっと厄介だった。リリーは心の中で溜め息を吐いた。
「お茶でもしないかって誘われたの。でも、ほとんど初対面の人だったからお断りして……、それだけ」
「それだけ? 本当に、それだけ?」
「本当にそれだけだってば」
オルトンは、疑わしげに目を細めた。リリーは、次にあの男性に会ったときに彼とまた話すことになるであろう可能性については、黙っておくことにした。
「でも、なにか思うところがあったんだね?」
どうしてオルトンには分かってしまうのだろう。リリーは恨めしげにオルトンを睨み付けた。
「わたし、今日初めて男の人とちゃんと向き合ったの」
「向き合った?」
「オルトンの色眼鏡を通さないで男の人と喋ったの」
「……あぁ、そうだね」
オルトンの目が泳いだことにリリーはむっとしたが、取り敢えずそれを気にしないことにした。
「わたしを可愛いって言ってくれたの。吃驚したけど、すごく嬉しかった。でもね、それだけなの」
「それで良いんだよ。簡単にそんな台詞を吐ける奴なんて、ろくなもんじゃ――」
「そうじゃなくて!」
リリーとの喧嘩を思い出し、オルトンは渋々と話の先を促す。「·····と、いうと?」
「それ以上、なにも思わなかったの――つまりね、わたしは彼に対して特別思うことはないけれど、でも、だからって彼の想いを無下にしても良いのかな、って」
「リリー、それは違うよ! 相手が好意を示してくれたからって、君が応えなきゃいけないなんてルールはないんだ! だいいち、そいつの好意が本物かどうかも怪しいじゃないか」
オルトンは激しく反論した。すると、リリーは一層険しい顔をした。
「分かってる――分かってるけど、その好意が本物なら、有難いなって思ったことも事実なの。だから、わたしはどうするべきだったのかな、って」
オルトンは呆れ返って、リリーを憐れむような目で見た。この親友は、ときに信じられないくらいのお人好しを発揮する。開いた口が塞がらないとは、このことだ。
オルトンにとって、リリーの思考回路は、未知なる領域に近かった。人間は利己的で、欲求か悪によって意思決定する生き物だと考えている彼は(ホッブズの『リヴァイアサン』を読んでからは、ますますそう思うようになった)、リリーの他人本意な複雑な悩みを理解できず、いつも頭を悩ませるのだ。
苦悶の表情を浮かべるオルトンにはしかし、気付いていない様子でリリーは溜め息を吐いた。
「恋愛って難しいものなのね。お父様の話を聞いているときは、すごく単純に思えたのに」
そうだった。この家の主人は恋愛結婚で、しかも初恋を実らせたとかいう超純情男なのだった。この家族は、そもそもオルトンの理解を超える人種なのだ。
「……お父さん、一目惚れだっけ?」
「うん、お母様に」
リリーの母は彼女と同じく、チョコレートのようなブルネットの髪に南国の海のように美しい緑の目を持っていた。容姿に派手さはないが、しっかりと大地に根を張った姿勢が印象に残る、たおやかな女性である。リリーの父、クロード・ベルトランが言うには、初めて彼女に会ってその瞳を覗き込んだとき、彼は瞬く間に彼女の虜となったのだという。クロードは彼女と生涯を共にする男として、彼女に恥じないような立派な人間になることを決意したのだ、と。
「ベルトラン夫妻はいつも仲睦まじいよね。一目惚れをしただけだというのに、あんなにもお互いを深く愛し合えるものなんだろうか」
オルトンは壁に飾られたリリーの両親の写真を眺めながら、なにやら難解なことを思案するかのように言った。写真の周りには、リリーの母が描いた子どものような容姿の妖精たちが、愛のキューピットの如く無邪気に飛び回り熱っぽい視線を交わしている。
リリーは、キャビネットに仕舞われた両親の思い出の品々をぼんやりと眺めた。そのほとんどは、出張の多いリリーの父が旅先で購入した、妖精に纏わる品々だ。それらの多くに鈴蘭の花が象られているのは、この花がエルヴェシアにおいて愛する喜びを表す花だからにほかならない。
「愛するって、なんなのかしらね?」
「えらく哲学的だね?」
独り言のように発せられたリリーの疑問に、オルトンは揶揄い口調で応えた。
「あら、そういう話をしているんだと思ってたんだけど?」
負けじとリリーもおどけた調子で返す。
「僕は君のことを愛してると思うよ?」
「わたしもオルトンのことは愛してるって思う」
ふたりは合図もなく、自然と顔を見合わせた。そして首を傾げる。
「でも、奥さんになってほしいとかじゃないんだよな」
「なんか、一生添い遂げたい相手、とかっていうのとは違うのよね」
ふたりの間にロマンスが芽生えることは一生ないだろう。ふたりはくすり、とやんちゃな笑みを零した。
そのとき、廊下の突き当たりから、がちゃり、と音が響いて、応接間の扉が開いた。そこから現れたのは、ギャルソンヌ・ルックを彷彿とさせる黒いワンピースに白いエプロンを身につけた、小柄な女性だった。ベルトラン家のメイド、エレンである。
エレンはリリーとオルトンの姿を確認すると、「お帰りなさいませ、お嬢様。ようこそいらっしゃいました、アルフォンス様。お茶の御用意が出来ております」と恭しく言った。
「ありがとう、エレン」
リリーはこのメイドの淹れる紅茶が好きだった。茹でた栗のような香りの、甘くて爽やかなミントティー。思い浮かべただけで、気持ちが華やぐ。公園での出来事も、オルトンと喧嘩したことも、もうどうでもよくなっていた。
「ね、オルトンさえ良ければ、もう少しここにいてくれない? オレリア叔母さんのこととか、相談したいことがあるの」
「勿論さ。可愛い妹の頼みを断れるはずないだろう? それに、まだミセス・ベルトランにもご挨拶できていないし」
「残念だけどお兄様、お母様はしばらくアトリエから出てこないと思うわ」
リリーは苦笑いを浮かべて、軽やかな足取りで応接間に向かった。
オルトンも後を追って応接間に向かおうと、足を動かした――そのとき、にゃあん、と背後で猫の鳴く声を聞いた。思わず振り返ると、そこには白と茶色の疎らの毛で顔半分が真っ黒のオッドアイの猫がいた。それは、ベルトラン家の飼い猫のセイラだった。いや、だけど、とオルトンは眉を顰めた。
……さっきまで、そんな気配はなかったのに。一体いつ、現れたんだ?
すると、オルトンはその猫の足許に、なにか光るものがあるのに気付いた。近付いて確認しようとしたが、セイラがおもむろにそれを咥えて持ち上げてしまう。あっと思って手を伸ばすと、セイラが不機嫌そうにしっぽを振り回し始めたので、オルトンは態度を改め、ゆっくり距離を詰めて、その高貴な猫が咥えているチェーン付きの"なにか"を優しく取り上げた。
それはロケットペンダントだった。チェーンが1箇所解けているので、どうやらこの持ち主は気付かずに落として、それを猫が拾ったということらしい。ご存知のように、ロケットは中に写真等を仕舞うことができて、これを開けるために指を掛けられる突起が付いているので、オルトンはそれを目敏く見つけて蓋を開けようとした――が、誰のものか分からないものの蓋を開けるのは少し躊躇われた。それでも好奇心に逆らうことのできなかった彼は、取り敢えず共犯者を作ることにした。リリーの待つ応接間に向かうことにしたのだ。
そして彼は、拾ったそれをリリーに手渡したのである。
* * *
リリーは、好奇心に任せてそれを開けたことを後悔した。同時に、自分が如何に恋愛事に――恋愛結婚した自分の両親に――対して夢を抱いていたのかを思い知らされた。
リリーの呟いた内容と、彼女の異様な様子に、オルトンは半ばひったくるようにロケットペンダントを手にして、その中身を確認した。オルトンはその内容からリリーの動揺を瞬時に理解し、彼女の表情を窺うために身を屈めた。
「……リリー、早合点する前によく考えて。このペンダントは、ミセス・ベルトランがいつから身に付けているものなの?」
オルトンの落ち着いた声に同調して、リリーもゆっくりと言葉を紡いだ。
「確か……お母様が18のときにお祖母様が亡くなって、そのときお祖母様から受け継いだものだから……」
「もともとは君のお祖母さんのものなんだね?」
「……ええ」
「それじゃあ、この写真に映っているのは、君のお祖母さんとお母さんだ。きっと、ミセス・ベルトランがロケットを受け継いだときから、この写真は入っていたんだろう。ってことは、このメッセージもお祖母さんが受け取ったものだとは考えられないかな」
「お祖母様が?」
リリーは記憶の断片をかき集めて、聞かされたことのある祖母の話を思い出そうとした。しかし、思い出せたのは、母が祖母のことを心から敬愛していたということと、祖母が若くして亡くなったという事実だけだった。
「……わたし、お祖母様のことはあまり知らないの」
……そういえば、聞いたことないな。
オルトンも、いつだったかリリーの祖父母や親族の話を聞いたことはなかったかと、記憶の糸を手繰ってみたが、彼女の父方の祖父母の話以外は思い出せないどころか、聞いた覚えがないことに気が付いた。
ベルトラン家に嫁いだからといって、昔話を一切しないとは。まさか、まさか家族と縁を切ってまで、ミセス・ベルトランはクロード・ベルトランとの結婚を選んだなんてことはないだろうか。
オルトンは小さく首を振って、いろいろと推測をする前にリリーの話を聞かないと、と稚拙な仮説を一旦頭から追いやった。
「……じゃあ、お祖父さんのことは?」
オルトンの質問に、リリーは困った様子で視線を巡らせた。
「……もしかして、お母さんの旧姓も知らないとか?」
「それは流石に知っています! ストーニーです、……マガリッジ出身の」
「スティールでないことは、確かなんだね?」
「ええ、……たぶん」
リリーは語尾をくぐもらせた。確かに、リリーは自分の母のこと――母の家族のことや、母の過去のこと――をほとんどなにも知らなかった。母に訊いたことがなかったわけではない。それよりむしろ、母はあまり訊かれたくなかったように感じていたから、話題にしなかった。リリーはぽつり、とそのことをオルトンに伝えた。
「お母様は、あまり昔のことを訊いてほしくなかったんだと思うの。前に訊いたときも、はぐらかされちゃったし」
「ミセス・ベルトランはお父さんと不仲だったのかな」
「分からないけど、隠したかったのかも、……お祖父様のこと」
ふたりは沈黙した。ふたりが見つけたロケットには、もしかしたら、たとえ家族でも触れてはいけないタブーが隠されていたのかもしれなかった。オルトンはじっ、とリリーの瞳を覗き込んだ。長い睫毛に縁取られたエメラルドの目は、しばらく伏せていたかと思うと、オルトンの目をしっかりと見つめ返した。オルトンはリリーの考えを正確に汲み取った。彼女は敬愛する母のことを、ちゃんと知りたいのだ。彼女の母が娘から隠そうとするなにか、その正体と、何故それを知られたくないのか、その理由を知りたいのだ。娘として、母の心の内を知りたいのだ。
――それに、タブーは触れたくなるものだ。
「もし、このメッセージの正体が分かったら、今までとはなにかが変わるかもしれないよ」
「分かってる」
「君のお母さんが話したがらないのには、きっとそれなりの理由があるんだ」
「そうね」
「好奇心は猫も殺すって言うだろう?」
「ええ」
「それでも調べる気なの?」
リリーは一切の迷いを捨てて言った。
「家族の歴史よ。わたしには知る権利があるわ」
オルトンはしょうがないな、と笑った。この目になったリリーが引き下がることがないのを知っていたからだ。それに、オルトン自身も、ロケットの秘密に対する自分の好奇心に抗えそうになかった。そもそも、ロケットを拾って、それを開けさせたのは自分なのだし。
「――実は、父様の知り合いで頼れそうな人がいるんだ。その人に、このM・スティールって人について調べてもらえないか、訊いてみよう」
こうして、リリーとオルトンは翌日、街へと出発した。行く先は古都と新都が混在する街、 白き都、ブランポリスである。
ところでベルトラン邸を出る間際、娘を見送りに来た母、フェリシア・ベルトランがオルトンに妙な申し入れをしてきた。
「オルトン、くれぐれも『聖堂』には近付かないでね。他にも、"妖精の階段"が所有する場所なら、どこにだって行かないで頂戴――あなたなら、理由は分かるでしょう?」
オルトンは、頭の片隅で自分でも正体が分からない違和感を覚えながら、フェリシアの頼みを受け入れた。そして、彼はブランポリスへ向かう列車に揺られている最中に、その違和感の正体を導き出した。一体いつ、リリーの母に自分の仕事の話をしただろうか、と。
* トマス・ホッブズ。イギリスの哲学者、政治思想家。




