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ブラック・スミス 〜探偵と妖精泥棒と馬の蹄鉄〜  作者: 雅楠 A子
《本編:探偵と妖精泥棒と馬の蹄鉄》
3/77

2(1/2).ベルトラン家の醜聞 - A Scandal of Bertlands

2022/05/28、改稿

一部内容を変更致しました。m(_ _)m

 決して開けるべきではなかったのだ。


 客を(もてな)すためのその部屋で、リリーは驚愕で、蝋人形のようにその場に凍りついていた。彼女の掌には、真鍮製のロケットペンダントが握られていた。それは、母が肌身離さず身に付けていたロケットだった。


 リリーは幼いころ、好奇心に駆られて母にロケットの中身を見せてほしいと懇望したことがある。しかし、「とても大事なものだから、あなたがそれ相応の歳になったときに」と言いくるめられ、彼女が18になった今でも、母がその蓋を開けてくれることは一度もなかった。その蓋が、今はリリーの掌の上で完全に開かれている。


 ロケットの中には、セピア色の幼子を抱く見知らぬ女性の写真と、裏蓋に、知らぬ名前とメッセージが刻まれていた。


  I stole your love.

 (君の愛はいただいた)

  M.Steel

 (M・スティール)


 Mのイニシャルにもスティールという姓にも心当たりはなかった。だが、メッセージに込められている内容は明らかだ。

 母には、父の他に想い人がいる。そんな考えが、リリーの頭の中でぐるぐると螺旋を描いていた。

 リリーの両親はいつも仲睦まじく、愛し合っていて、リリーは彼等こそが理想の夫婦像だと思っていた。だが、この一文から考えられるに、母には――あの母には、秘密のロマンスが隠されていたのだ。しかも、これを肌身離さず、ずっと持っていただなんて、まさか、秘密の相手とは今でも関係が続いていて――父はずっと騙されていたのだろうか。


「どうしたの、リリー。顔が真っ青だよ」


 聞き慣れた声で、リリーは我に返った。大型草食動物のような堂々たる物腰の、その声の持ち主の青年は、怪訝そうな顔でこちらを見ていた。リリーは青年の姿を確認すると、オルトン、と彼の名を呟いた。


「お母様には、お父様の他にお慕いする人がいるのかもしれない」


 リリーは今にも消え入りそうな声で言った。



 * * *



 バーニーヴィル市は、エルヴェシア共和国のノースランド地方に位置する、緑の風景広がる穏やかな丘陵地帯である。小川のせせらぎが聞こえるほど静かなこの田舎には、都会の喧騒から逃れるようにして多くの上流階級の人々が住居を構えている。各邸宅には己のセンスを競うかのようにそれは見事な庭園が設けられ、どこでも指で額縁を作って掲げてみれば、しっとりと濡れた油絵のような景色に浸れるだろう。昼下がりには、鳥の囁きと植物の湿った匂いに紛れて、微かに紅茶の甘酸っぱい香りが漂い、この土地をさらに格調高く演出している。まさに長閑で閉鎖的な田舎の景色である。


 リリーこと、リリアーヌ・ベルトランは、風が心地よくそよぐこの田園の地で生まれ育った。羊を思わせる穏和な微笑みを湛えた少年と、まるで仲の良い兄妹のように駆け回った。この少年――現在は、21歳の青年である――の名を、アルフォンス・ギファードという。

 彼らがまだ幼少の頃、アルフォンスより3つ幼いリリーは、この高貴な響きの名を上手く発音することができなかった。アルタントゥ、アルハンシュ、オルホンシュ、オルトントゥ……。ついに痺れを切らしたアルフォンスは、"オルトン"で妥協した。それが定着して、アルフォンス・ギファードは親しい間柄からも――否、かなり親しい間柄だけに――オルトンと呼ばれるようになった。

 オルトンとは家族ぐるみの付き合いであった。特にリリーの父親が、彼を大いに気に入っていた。秀才で家柄も良く上品な身のこなしのこの青年は、その柔らかな雰囲気で女性にも評判が良い。しかし、本人は恋愛事に全く興味がないようで(それこそがリリーの父親が気に入る所以なのかもしれないが)、彼の頭を占領しているのは、生きづらい世の中を悲観すること――と、彼の大切な親友に群がる虫除けについてであった。


「もし、僕の大切な親友が社会の闇に傷付けられでもしたらって、想像するだけでも、自分の半身が殺されたような気分になるんだよ」


 気が向けば、オルトンはそんなことを言っていた。見た目とは裏腹に、ペシミスティックな男である。

 そして彼は、大切な親友であるリリーが彼の想像したような危険に遭う心配のないように、何処の馬の骨とも知らぬ男――というよりは、家柄も血筋も関係なくあらゆる欲深き人間――が彼女に近付くことのないよう何時も気にして先回りし、色恋沙汰が引き起こし得る悲劇について彼女に滔々と語って聞かせるという暴挙に出た。そのお陰で、リリーは生まれて此方恋人と呼べる関係ができたことはなく、デートと呼べるような庶民的なお付き合いすらも経験したこともなく、果てには恋という感情すら分からなくなってしまった。恋に恋する初心な少女時代の妄想や幻想は、オルトンによって早々に打ち砕かれてきたからである。

 深窓の令嬢と称するには、些か世俗に染まってしまっているかもしれない。まったくその成果は、オルトンの――いや、オルトンと彼女の父親の苦労が伺えるものである。


 しかし、そんな彼らの長年の苦労も虚しく、恐れていたことが遂に起きてしまった。


 それはある日、リリーが遂にオルトンに反発して、ひとりで――リリーの父親とオルトンのふたりは、彼女がひとりで出かけることにすら目くじらを立てるのだ――、バーニーヴィルの北部に位置するウォッシュバーン・パークを訪れた時であった。


 スケッチやメモのために常に持ち歩いている手帳を広げ、樹齢900年という公園の(かし)の木の姿を、リリーはただひたすらに書き写していた。集中する彼女の背からはきらきらと虹色に輝く光の粒が溢れ出し、それらはふわふわと綿毛のように舞い、くるくると植物のような模様を描いた。やがて光の粒たちはオーロラのような膜を張り、蝶の羽のように広がって、さらにリリーの瞳が黄金に輝き始めると、(かし)の葉が呼応するように震え始め――。


「やぁ、今日はひとりなのかい?」


 リリーは太陽の光を遮って自分に落ちた影が、人の影であることに気が付いて顔を上げた。

 無心にペンを走らせていたところを邪魔されて、リリーは少々むくれていた。


 ……筆が乗ってきて、(かし)の木が語りかけてくるように感じて、まさにこれからというところだったのに。わたしたちの神聖な対話に割り込んできた人は、一体誰なの? もしかして……


 しかし、リリーの目が捉えたのは、彼女が想像していた人物ではなかった。ピンストライプ柄のハンチング帽を被った体格の良い、オルトンとは似ても似つかない若い男性が、半ば気恥しそうに立っていた。帽子の下からは狐色の短い髪が覗いている。


 ――そもそも、なぜ、リリーがオルトンに反抗することとなり、この若い男性が彼女に接触する機会を得ることになったのか。それを知るには、少し時間を遡る必要がある。


 事の発端は、オルトンがベルトラン邸を訪れたことから始まる。いつものように客間に通され、柑橘系の甘酸っぱい香りのする紅茶をオルトンが堪能していると、ぱたぱたと駆け足でリリーがやってきて開口一番にこう言ったのだ。


「オルトン、お願い、お父様を説得して。わたしが一人暮らしするのを許してくれないの!」


 なんのことやらと目を白黒させていると、リリーはどん、とオルトンの向かい側に座り、ふくれた顔で喋り続けた。


「わたし、もう少しで大学生になるでしょう? これを期に、独り立ちするべきだと思うの。今までお父様とお母様にいっぱい甘やかされて育ってきたから、そろそろ自分の足で立てるようにならなきゃ、って。だけど、お父様ったら、まだ早いって言うのよ。『ひとりはまだ心配だ』って。『じゃあ、いつになったら大丈夫なの』って聞いたら、『そのときが来たらかな』とかって誤魔化されちゃって、全然話にならないんだから!」


 なるほど、とリリーの父親の気持ちを汲んだオルトンは、にっこり笑ってこう言った。


「だったら、僕の叔母さんのところに住まわせてもらったらいいんじゃない? オレリア叔母さんのアパートなら、君の大学にも近いし、家事で困ったことがあったら聞けばすぐに教えてくれるだろうし。君のお父さんも安心するだろう」


 リリーは口を尖らせた。


「それは一人暮らしって言わないわ」

「君に一人暮らしはまだ早いよ」

「オルトンまで!」

「だって君、今まで一度も家事なんかやったことないじゃないか。僕がいないと外も歩けないし」

「それは、オルトンが勝手についてくるんじゃない!」

「勝手にとは酷いな、僕は君のお父さんに頼まれたから子守りをやっているだけなのに」

「わたし、もう子守りなんか必要な歳じゃないわ!」

「だけど実際、ひとりじゃなんにもできないだろ?」

「その機会を誰かさんがことごとく奪ってしまうからだとは思わない?」

「それは、責任転嫁、っていうんじゃない?」


 リリーはわなわなと拳を震わせた。


「……オルトンなんか、もう知らないっ」


 そんな面白味のない実に子供っぽい捨て台詞を吐いて、リリーはベルトラン邸を飛び出したのだ。言っておくが、これは家出ではない。決して、計画性のない家出なんかではない。

 とにかく、ふつふつと煮え滾る頭を冷ますため、リリーは無心になれる場所を求めてウォッシュバーン・パークに訪れたのである。


「ほら、今日はいつもの『彼』を見かけないから」


 リリーは逡巡した。目の前の自分に話しかけている男性が悪い人だとは思えないが、オルトンから、「知らない奴とは口を聞くな、ろくなことにならないから」と散々聞かされている――つい先ほどまでオルトンへの反抗心を抱いていたというのに、結局彼の言葉に従うことを考えているなんておかしな話ではあるが。しかし、このまま口を聞かないというのも、顔を紅潮させながら、こんなにも一所懸命に自分に話しかけてくれている"彼"に失礼だろう。それに、


 ……"彼"は、知らない人、ではないし。


「俺のことは知らない? 見たことないかな……、よく君の学校に行ってたんだけど――そのお――キャスリーン・グリーンの運転手として……」

「……警護も兼ねてらっしゃるとか」

「そう、それ! それが俺だよ!」


 男性はリリーの声を聞いて、如何にも嬉しそうに顔を綻ばせた。その笑顔に伝染するように、リリーも微笑む。


 ……やっぱり、悪い人ではなさそうだ。()()キャスリーンの相手ができる人、なんだし。


「実は、よく君のことを見かけて……、その度に可愛い人だなって思っていたんだ。だから、いつか話だけでもできないかな、って」


 ――初対面で可愛いとか言う奴は気をつけろ、決まって下心があるんだから。連中は己の欲を満たすためなら簡単に嘘を吐くんだ、褒め言葉なんて額面通り受け取っちゃ駄目だからな。


 なんて、オルトンの言葉が脳内で(こだま)する。普段から、そのような陰口を聞かされていたリリーは、この台詞に口篭った。


 ここは適当に相槌を打って、早々に立ち去った方が良いのだろうか。いや、でも、もし、これが彼の素直な気持ちだったら?


 ……ああもう、こんなとき、何を言うべきなのかまったく思い浮かばない!


 きゅっ、と唇を真一文字に引き結ぶリリーの表情を見て、男性は慌てて釈明した。


「あぁ、悪い、怖がらせるつもりはなかったんだ! ただ本当に君と話がしてみたかっただけで、君を無理矢理どこかに連れ出そうとか、そんなことは全然考えていなくて、ええと、その――えへん、どうだろう、一緒に、お茶でも?」


 リリーは自分の考えていることを読まれた気がして、急激に居心地が悪くなった。しかし、この場合もどう返答するのが適切なのか、リリーにはまったく見当がつかない。


 このまま彼の誘いに乗れば、オルトンにあとでこっぴどく叱られるだろう。いや、叱られるだけならまだしも、オルトンがいつも言うようなとんでもない事態に巻き込まれたりなんかしたら? 自分ひとりの力なんて知れたものだし、全力で逃げる以外に方法がなくなる。そんなリスクは負いたくない。

 だが一方で、この男が純粋に自分に好意を持ってくれていた場合、返答によっては、彼の勇気を踏み躙ることになってしまうだろう。返答に窮したリリーは視線を泳がせた。


「……本当にごめん。急に言われて、驚かせてしまったみたいだな。大丈夫、君が嫌なら、俺はこのまま引き下がるし、二度と君を困らせることもしない。顔も見たくないってんなら、二度と君の前にも現れないし――」

「いえ、そんな……そんなこと。ただ、あまりにも急なことだから、今日は、そのう……」


 このように、上手く会話を進めることができないリリーだが、この男性に対して嫌悪感を持っているわけではない。むしろ、彼の瞳の色は澄んでいて好感が持てるし、多くの場合、意地悪な人間から漂ってくる嫌な匂いだって、一度もしなかった。しかし、彼は少し押しが強いようで、それだけが困りものだったのだ。顔見知りとはいえ、ふたりきりで話すのは、リリーには少しハードルが高い。


「そうか、良かった。それじゃあ、そうだな、お茶はまた今度にして……、次に君を見かけても、今日みたいに話しかけるだけなら構わないかい? それとも、それも迷惑かな?」

「……いいえ、迷惑では」


 すると男性は今日一番の笑顔を浮かべて、良かった、と呟いた。「じゃあ、また」と別れの挨拶をして男性が去る頃に、リリーはようやく彼の容姿を観察する余裕を取り戻した。紫のシックな柄シャツにツイードのベストとジーンズという装いの、実はなかなかにお洒落な男性だった。見た目で判断するのは良くないけど、もっと紳士的に――じゃなくて、淑女的な対応ができたら良かったのに、などと考えてから、それ以前にまともに対応できなかったことに、酷く落ち込んだ。

 そうして、ひとり残されたリリーは空虚感にも似た感情に襲われ、描きかけのスケッチを中途にして、その場から逃げるように家に帰ることにした。

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