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ブラック・スミス 〜探偵と妖精泥棒と馬の蹄鉄〜  作者: 雅楠 A子
《本編:探偵と妖精泥棒と馬の蹄鉄》

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24/77

12(1/2).アシュビー家の冒険 - The Adventure of Ashbys

2023/07/06、改稿

一部内容を変更致しました。m(_ _)m

 早朝、フェリシア・ベルトランは、絨毯の上にはいくつばっていた。スポーツ用のハーフパンツを履いて、白いボーダーの半袖Tシャツを着て、身体のあちこちに絵の具を付けたままテレピンの臭いを漂わせて寝そべる彼女の姿からは、この人物がこの優美な邸宅の主人だとは誰も思わないだろう。加えて、その主人は、自分がそんな醜態を晒していることを少しも判っていないのだ。


 ベルトラン家の執事、エアハルトは、そんなフェリシアの奇行を目の当たりにして溜め息を吐いた。この人は、いつまでたってもお転婆である。こんなお姿、ご近所に住む上流階級の方々にはとてもお見せできない。


「·····奥様、」ごほん、とエアハルトは咳払いした。「如何なさいました?」


 エアハルトの呼びかけに、フェリシアは上半身を持ち上げ、あら、エアハルト、などと暢気(のんき)な声を上げた。


「ちょっと探し物をね。あなた、知らない? 私の御守り、ロケットペンダント」

「申し訳ありませんが、存じ上げません」

「そう。もう3日も前から見つからないのよねえ」

「3日前ですか、ちょうどお嬢様がお出掛けになった日ですね」


 ()()()。エアハルトの言葉に、はた、とフェリシアは気が付いた。そうだ、3日前といえば、リリーが突然都市に行きたいと強請(ねだ)った日じゃないか。フェリシアはまさか、と蒼ざめた。


「……ねえ、エアハルト」

「はい、奥様」

「セイラから、なにか聞いてる?」

「――と、言いますと?」

「運命がどうとか、未来がどうとか」

「なにも聞いておりませんが、この頃忙しくなされているようで。先程も、どこかへお出かけになられました」

「……エアハルト、ミス・オレリア・ギファードに電話してくれないかしら? リリーに確かめたいことがあるの」

「はい、奥様」


 フェリシアは、胸の前で手を組んだり解いたりを繰り返した。


 ……まさか、()()()()が来たのかしら。予言の示す、()()()()が。



 * * *



 エルモアの商店街から少し離れた、生成色の石造りの外観が並ぶマガリッジの住宅街にやってきたジェムとリリーは、ジェムの覚え書きに記された住所を探していた。ウィンズロウ通り15番地にあるというその建物を、この集合住宅地で見分けるには、一軒一軒タウンハウスを数えながら、表札も確認しなければならない。リリーは、注意深く住居の表札を確認しながら、ジェムに訊ねた。


「私たちのことはなんて説明するの?」

「ん?」


 ジェムは当惑した様子で振り返った。


「まさか、正直に探偵だって名乗るつもりじゃないでしょう?」

「……やっぱり駄目かな」

「私だったら、探偵なんて胡散臭い人、家に入れたくありません」

「酷いな」


 ジェムは苦笑した。しかし、確かにリリーの言う通り、馬鹿正直に探偵だと名乗ってしまったら、相手に警戒心を持たれてしまう。どうしようかな、とジェムは首を(さす)った。


 スワイリーの人間性や"妖精泥棒"について、もっと深く掘り下げられないかと考えたふたりは、小説家、バリー・H・アシュビーの家を訪ねることにした。『名探偵ニール・マイヤーの冒険譚』の作者であり、5代目スワイリーの被害者である。コリンの推察が正しいのなら、バリー・H・アシュビーは、ニール・マイヤー本人からスワイリーに関する情報を受け取っていたはずだ。

 そもそも、スワイリーとは何者なのか。"妖精の遺物"が盗まれるということが、世間的になにを意味するのか。妖精泥棒と呼ばれる窃盗集団であるとしか知らないふたりは、それらについてもっと調べるべきだと判断したのである。


「だけど、どうしてスワイリーは"妖精の遺物"じゃないものを盗んでいたのでしょう? 本当に、コリンが言うように、復讐のためなんでしょうか」


 目的地を探しながら、リリーが言った。彼女の問い掛けに、ジェムは、コリンから話を聞いたときと同様の不服そうな表情を浮かべた。


「復讐、ねえ。確かに、マシュー・スティールが当時のスワイリーだったら、復讐を考えなかったこともないだろうけど、だからといって、ものを盗むことが彼の復讐になるのかは疑問だな」


 ジェムの意見に、なるほど、とリリーは考える。


「幼い自分からお父様との時間を奪われたことへの復讐だったのではないでしょうか。つまり、それだけの時間を費やした作品だからこそ、盗むに値した、ということでは?」

「小説の原稿のこと? どうかな。時間と同等の価値を持つのは時間だけだと、ぼくは思うけど」


 それでは、何故20年前のスワイリーは、バリー・H・アシュビーの小説原稿なぞ盗んだのか、ますます分からない。リリーは、うーん、と唸って、ジェムの否定に負けるまいと考えを捻り出した。


「……じゃあ、20年前のスワイリーはスワイリーだけど、妖精泥棒ではなかった、とか」


 声を絞り出すように提示された意見だったが、リリーの予想に反してジェムは立ち止まり、彼女を凝視した。その瞳は、きらきらと輝いているようにも見える。


「……スワイリーのことを詳しく知っている人物だけど、その本質には気付いていなかったのかもね」


 彼はリリーの意見を支持した。


「――じゃ、じゃあ、20年前のスワイリーは、よくできた偽物という可能性が?!」

「まあ、なにを本物とするのか、今のぼくたちには、その定義すら曖昧なんだけどね。なんにせよ、バリー・H・アシュビーは60年前のスワイリーと20年前のスワイリーを知っているわけだし、ふたりの違いがはっきりと分かるのは、彼だけかもしれない」


 そうやって時々議論を交わしながら、ちらちらと家の軒先ばかりを確認する作業を続けていると、リリーが、あった、と声を上げた。

 ウィンズロウ通り15番地にあったその建物は、この通りの他の住宅と同様に、3階建てで横幅が短く縦長の物件だった。リリーが率先して扉の前に立ち、呼び鈴を鳴らすと、間も無くしてその扉は開かれた。


 はい、と返事をして現れたのは、シナモン色の髪の女性だった。髪型は側頭部と後頭部を短く切った、ピクシーカットという名の流行りのスタイルで、襟が大きな白のリネンのブラウスと、さくらんぼ柄のロングスカートに、ラズベリー色の前掛けを着用していた。ロイド眼鏡を掛けた顔は、目が垂れている他これといって特徴がなかったが、聡明そうな雰囲気を上手く纏って着こなしていた。


 リリーは、覚悟を決めた。


「こんにちは。こちらは、ミスター・バリー・H・アシュビーのご自宅でしょうか?」

「そうですが……」


 女性は、ちら、とリリーの背後に立つジェムに視線を遣った。すると、みるみるうちに顔が青白くなっていく。


「……"蹄鉄工(blacksmith)"の、方ですか」


 ジェムとリリーは驚いて、目を丸くした。思わず、どうして、とリリーは口走った。ジェムは女性の視線から、彼女はジェムの襟のバッジを見たのだと理解した。


「"蹄鉄会"の会員でいらっしゃいましたか」と、ジェムは仕事用の笑みで訊ねた。


 すると女性は、きゅっ、と唇を噛み締めたあと、かろうじて聞き取れるほどの小さな声で、「祖父がそうでしたから」と答えた。


 ピクシーカットの女性は、ゆっくりとした動作で扉を全開にし、どうぞ、とふたりを家の中へ招いた。ジェムとリリーは顔を見合わせ、お互いの意思確認をしたあと、神妙な面持ちでそろそろと玄関をくぐった。


 家に上がって直ぐ様、リリーはふんふんと匂いを嗅いだ。そして、眉を顰めた。


 ……酸っぱい。腐ったミルクみたいな匂いがする。


 女性に案内された先の居間には、一般的な民家には些か大層な家具が置かれていた。焦茶色の垂木が張り出た屋根の色に合わせて、飴色の布地が張られた三人用のソファーとアームチェアが、同じ飴色に加工されたオーク材のローテーブルを囲むようにペルシャ絨毯の上に置かれ、その奥には石造りの暖炉まであった。

 中産階級の家、とは言え、調度品の質はほとんど上流階級に匹敵するだろう。


「お客様をお迎えする予定はなかったので、少し散らかっていますけど、そちらにお掛けになって――あっ、今、お茶をお出しします」


 女性は早口に言って、慌ただしい様子でキッチンに駆けて行った。


「お気遣いありがとうございます」


 ジェムは女性の背中に向けて言った。たとえ相手に聞こえなくとも言うことが重要なのだ、とジェムがグレアムから教わった最低限のマナーである。


 ピクシーカットの女性が居間の仕切りの向こうへ消えてしまうと、リリーはぎゅっ、とジェムの袖を掴んだ。


「あの人、なにか変です」


 不安げなリリーの訴えに、ジェムは深く息を吐いて、ぐるっと、部屋の状況を確認した。漠然とした違和感を覚え、リリーの言う通り、先程の女性の態度はあまりにも不自然だとも思った。


 ……嫌な予感がする。


「……そうだね。もしものときのために、逃げ道になりそうな場所は確認しておこう。だからといって、大丈夫って保証はないけど」


 リリーは、こくんと頷いた。さっと辺りを見回すと、先程女性に座るように促されたソファーの真横に、くずかごが置かれているのが目に入った。くずかごの中には、僅かながらもまだ中身の入っているスナック菓子の袋が放り込まれていた。リリーは、その光景を意外に思った。


 ピクシーカットの女性がティーセットを盆に乗せて戻ってくると、ふたりはどうやって自然を装おうかな、と頭を悩ませた。というのも、この女性の手が、誰がどう見ようとも小刻みに震えていて、かたかたと盆の上の食器が音を立てて揺れるからである。この状態を不審に思わない人間などいないだろう。


「あのう、ミス?」


 ジェムの呼びかけに、ちょうどローテーブルに盆を乗せようとしていた女性は、びくっ、と肩を竦ませた。そのせいで、盆の上のティーセットが、かしゃん、と激しくぶつかり合った。


 ……参ったな。なんでこんなに怯えてるんだ、この人。


「……すみません、驚かせてしまいましたね。それに、どうやらお休みのところをお邪魔してしまったようで」

「いえ――いえっ、お構いなく――座ってください、どうぞお茶を――お口に合うか、分かりませんが……」


 そう言ったあと、女性は、はっとした様子でソファー横のくずかごを手に取り、さっと部屋の隅に持っていった。

 その様子をジェムたちにじっと見られていたことに気が付いた女性は、慌てた様子で「どうぞ座ってください、どうぞ」と再度ソファーを勧めた。こうも(しき)りに座れと言われて、座らないのも不自然なので、ジェムとリリーはその飴色のソファーに腰を下ろした。


 震える手で注がれた茶は淡い朱色で、マスカットのような香りがした。

 本来ならば、お茶が注がれるのを待ってから話をするべきなのだろう。だがジェムは、その作法を破ってでも、他に注意を向けている今こそ、彼女に話しかけるべきだと判断した。


「ぼくはジェームズ・カヴァナーといいます。ミスター・アシュビーは――?」

「……あ、ええと、……昨年、亡くなりました」

「……それは、大変失礼致しました。お悔やみ申し上げます」

「いえ……」


 つまり、二人のスワイリーを知る人物は、いなくなってしまったということか。この可能性を考慮していなかったジェムは、一瞬、言葉を失った。気を取り直して会話を進める。


「……ええと、あなたは、その、ミスター・アシュビーの――?」

「孫です」

「お孫様」


 ことん、とティーポットが置かれた。そして、カタカタと食器を震わせながら、紅茶が配膳される。


「……お名前をお伺いしても?」

「……マージ」

「マージ?」

「――マーガレット・アシュビーです。……マージ、と祖父に呼ばれていました」


 そんな詳細な情報を自ら教えるとは、どうやらジェムとの会話にあまり注意を払っていないらしい。だとすると、一体なにに緊張しているのだろう、と疑問に思いながら、ジェムはなるべく沈黙が生まれぬように会話を続けた。


「ここにはおひとりで住んでいらっしゃるんですか?」

「……はい」

「来客は多いんですか?」

「――ご用件はなんでしょう?」


 ……なるほど、聞かれたくないのは、これか。


「ミス・アシュビー、あなたのお祖父様についてですが、うちの会社の創設者であるニール・マイヤーに懇意にしてもらっていたというのは、本当ですか?」

「ほんとです。よく、ここに来て、面白いお話をたくさんしてくださいました。とくに、怪盗コンバラリアの話はわくわくして、いつも夢中になって聞いていました」


 もしかすると、本当に、コリンの推察が当たっているのかもしれない。


「実は、その怪盗コンバラリアについてお伺いしたくて来ました。彼は実在したんでしょうか? スワイリーがモデルだという噂は、本当ですか?」


 マージの顔は、みるみるうちに血の気が引いていった。血が凍る思いをする、というのは、こういう顔をする人間が覚える恐怖をいうのかもしれない。それまで小刻みに震えていたマージの両手は、突然硬直したかのように動かなくなった。

 なんだ? と怪訝に思っていると、背後から衣擦れの音がして、ジェムはさっと振り返った。


「姉さん――あら、お客様?」


 そこに立っていたのは、ビスケット色の髪の若い女だった。白磁器のような白い肌に琥珀色の瞳を持ち、唇はぽってりとしていて、目鼻立ちがはっきりとした派手な顔で、豊麗で艶っぽい印象を受けた。マージの清楚な服装とは打って変わって、胸許が大きく開いた、露出の高いワンピースを着ている。姉さん、と呼んだにしては、あまりにもマージと顔が似ていない。唯一、瞳の色と髪色が近いだけだ。


 隣で、うっ、とリリーが呻いた。何事かとジェムがそちらを見遣ると、リリーはふるふると首を振った。


「ごめんなさい、()()()()が」


 鼻を摘んで喋ったせいで、リリーの声はくぐもっていた。


 ……失礼なことだとは分かっているけど、ちょっと、耐えられない。匂いが濃過ぎる、甘過ぎる――これは、きつ過ぎる、バニラの匂い。


「もう姉さんたら、ほんとに困ったさんね。そんなに人見知りしてちゃ、お客様に失礼よ」


 笑顔で姉を諭した女は、一瞬でじろ、と鋭い視線をふたりに寄越してきた。値踏みをするかのような、無遠慮な視線だ。


「お祖父様の書斎を見に来られたの?」


 女の質問に、ジェムは笑みを崩さずに問で返す。


「失礼ですが、あなたは?」

「妹よ。似てないでしょ? よく言われるわ」

「お姉さんとご一緒に住んでいらっしゃる?」

「最近はね。この街に用事があって。用事が終わったら出ていくわ――だから、いつでも会えるわけじゃないのよ、あたしには」

「つまり、お話を伺うなら今日しかないかもしれない、と」

「そうね、今日しかないかもね。あたし、同じ場所にずっと留まっていられるような女じゃないから」

「では、単刀直入に聞きますが、ミスター・アシュビーとは、よく話されました?」

「あなた、お祖父様のファン? なら遅かったわね、お祖父様は昨年、死んじゃったのよ」

「ミスター・アシュビーとは、あまり親交がなかったんですか? それとも、小説家だったお祖父様に対して、なにか不満が?」

「どうしてそう思うの?」

「こちらの質問に答えてくださらなかったので」


 女は、じっ、とジェムを見つめた。

 この女性と話すときのジェムの声には、マージと会話していた時と違って、棘があった。だが、腹の底を探るような目付きで言葉を交わし、こんな無遠慮なジェムの指摘にも微笑みを絶やさず顔色を窺わせないところを見ると、なかなか彼女は肝の据わった女性である。


「――お祖父様の話なんか聞いて、どうするわけ?」


 なんか、とは、随分な言いようだ。


「そのお祖父様のお話が、誰かを助けることになるかもしれないと言ったら、話してくださいますか?」


 ジェムの問いかけに、女はにや、と片側の口角を上げた。


「……なにそれ、新しい奉仕活動? それとも新興宗教の勧誘かしら? お生憎様だけど、あたし、自分の利益にならないことには興味がないのよね。他人に労力を割けるほどお人好しじゃないの」

「なるほど。では、なにか拝見できる資料などはないでしょうか。例えば、ミスター・アシュビーの手記とか。それだけ許してくださるのなら、あとはお手間を取らせません。如何でしょう?」


 そうして、マージの妹を名乗る女性と、ジェムがにこやかな表情で睨み合う様子を、リリーは、はらはらとした気持ちで見守っていた。ふと、マージの方に視線を移すと、彼女は自らの膝の上で固く指を組んでいた。瞳には黄色味がかったグレーの光がガス灯のように揺らいでいる。顔を俯け、微動だにしないその姿は、まるで聖堂で女神に祈りを捧げる教徒のようだ。


 ……もしかして、妹を怖がっている? だけど、一体なぜ?


 はあ、とわざとらしい溜め息が、女性の口から吐き出された。


「――いいわ。このあたし、ミアが書斎に案内してさしあげます。――こちらです」


 ミア、と名乗った女は、指の腹で行く先を示して、ふたりを誘導した。彼女が主導となるこの状況に気乗りはしないが、まだまだ情報が足りないジェムとリリーは、警戒しながらも素直にミアに従った。


 ミアが現れてからというもの、不穏な空気が漂っているのをリリーは五感で感じ取っていた。相変わらず匂いは鼻を突き、マージの瞳に宿る不安そうな光が気になり、胸のあたりがひりひりする。だが、状況がまったく分からない今は、なんの判断も下すことができない。

 この匂いの正体は一体なんだろう。ブリアナの言う通り、自分が危険を感知する能力を持っているのなら、これは危険を意味するのだろうか。だとしたら、今、自分のすべきことは?


 アシュビー宅の玄関から階段を上がって再奥の部屋に、バリー・H・アシュビーの書斎はあった。

 書斎の壁の一面は、本棚になっていた。だが、このバリー・H・アシュビーという男は、どうやら几帳面ではなかったらしい。本の置き方が乱雑で、本棚の使い方を知らなかったのでは、と最早疑うくらいの有様だった。広い作業机の上にはダイヤル式の電話機の他、ガラス製の水差しと2個のグラスに陶器製のティーカップ、衣服やティッシュなどの生活用品までもが片付けられずに雑然と置かれ、筆記具は転がり放題だ。


「泥棒にでも入られたんですか?」


 ジェムの不躾な質問に、ミアの片眉がぴくりと動いた。


「えぇ、一度ね、20年前に。そのときのままなのよ、この部屋は」


 ミアは、それではごゆっくり、と言葉を残して、部屋を出て行った。


 部屋にふたりだけになったジェムとリリーは、即座に顔を見合せた。


「どう思う?」とジェム。

「気味が悪いです」とリリー。

「同感」


 それからジェムは、ちら、とバリー・H・アシュビーの作業机に目を向けた。ふたつのグラスのうち、ひとつは底の方にまだ水が残っているし、もうひとつの方は飲み口に赤い紅の拭われた跡が残っている。()()()()()()()()()()()()


「リリー、」


 ジェムは背後を気にしながら呼びかけた。


「さっき言ったこと、覚えてる?」

「さっき?」

「もしものときのために、逃げ道を確認しておこう、って」

「……はい。と言っても、ちゃんと確認できていませんが」

「机の向こうに窓があるだろ?」


 ジェムに言われて、リリーはもう一度机のある方を見た。そこには確かに無視できないほどの大きな窓がある。ジェムは続けて訊ねる。


「あそこから飛び降りろ、って言ったら、できる?」

「……できるって言ったら、あなたはここに残るの? わたしを逃がして?」


 リリーの問いかけに、ジェムは答えない。それだけで、共に過ごした時間がまだ短いリリーでも分かった――彼が、リリーに対して誠実でいようと、はぐらかしたり、誤魔化そうとせずにいようと努めてくれていることが。


「……それは、状況を見ながら判断する」


 ジェムはリリーに視線を向けることなく、そう言った。一方で、リリーは彼にきっぱりと答える。


「だったら、できません」

「リリー、」

「それにわたし、高所恐怖症なんです」

「……ここ、2階だけど」


 まあ、いいか、とジェムは嘆息した。気味が悪いというだけで、まだなにも起きていない。とにかく今は、当初の目的を達成することだけ考えよう。

 そうして、ジェムが書斎を調査しようと本棚の本に手をかけたときである。


「ジェム、」


 リリーに呼びかけられて振り返ってみると、彼女は不安そうな顔で胸許のロケットペンダントを握り締めていた。


「さっきから、これ、ひりひりします」

「ひりひり?」

「ほら!」


 リリーは、ジェムの目の前にぐい、とロケットを持ち上げた。促されるままそれに触ろうとすると、びりっと、鋭い痛みがジェムの指先から身体中を駆け巡るように伝わった。


「いッて」


 思わず飛び退き、目を白黒させているジェムの反応にリリーも吃驚(びっくり)して、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。そんな、電流が流れたみたいな、自分が触ったときにはそんなこと起こらなかったのに、とリリーは胸許のロケットに視線を落とした。


 そのとき、どたどたと階下が騒がしくなった。ふたりは瞬時に部屋を出て、階段を駆け下りた。そのとき見た光景に、ふたりは自分たちが既にかなりの厄介事に巻き込まれてしまったことを悟った。マージ・アシュビーが、大柄な男によって、喉元にナイフを突き付けられていた。

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