10(1/2).なぜ、デイヴに頼まなかったのか? - Why Didn't They Ask Mosley?
2023/04/30、改稿
一部内容を変更致しました。m(_ _)m
蹄鉄会本社を出た直後、玄関口の大仰な階段を駆け下りながら、リリーはぎゅっ、とジェムの袖を掴んだ。
「これからどうするの?」
正直なところ、ジェムは途方に暮れていた。
結局、なぜ探偵社がスワイリーの調査を打ち切ったのか、本当のところはなにも分からなかった。聞かされたのは、"蹄鉄会"という組織への嫌疑と、5代目スワイリーと"蹄鉄会"の因縁話に、行方の分からない常務取締役という名の手掛かり……。ジェムは深い溜め息を吐いた。
……会長は、スワイリーを調べさせて、ぼくになにをさせたいんだ?
「上層部に目を付けられるかもしれないけど、最近活躍中のスワイリーのことを調べてみるのも手かな、なんて考えてる。……きみはどう思う?」
「わたし?」
リリーは目を丸くして聞き返した。まさか、自分の意見を求められるとは思わなかった。ほんの数時間前には、信用していいのかわからないとまで言われたのに。たとえ形だけだとしても、わたしの考えを聞こうとしてくれるとは。
……そんなこと言ってる場合じゃないんだけど、どうしよう、ちょっと嬉しい。
すると、道路を挟んで正面に、幅広なボートテイルデザインのクーペが停まった。それを見たジェムは、目に見て分かるほど身体を強ばらせた。
クーペから降りてきたのは、かなり細身の金髪女性だった。自分のスタイルに自信があるからこそできる着こなしで、金色に光るサングラスを外した彼女は、ジェムの姿を目に留めると驚愕の表情を浮かべた。
「……ああ、まずい」
ジェムが呟いたの同じ頃、クーペの運転席から白いスーツジャケットを着た大柄の男が現れた。男は金髪女性の視線を辿り、ジェムの姿を目にすると、形相を変えて女性になにやら早口で伝えた。
その瞬間、ジェムはリリーの腕を掴むと、血相を変えて言った。「ここにいて」
「えっ?」
「急用ができたみたい――ちょっとやりすぎたかな」
そして、ちら、と道路の向かい側を見遣ると、男は既に女性との会話を切り上げていた。もう一刻の猶予もない。ジェムはリリーの腕を離した。
「ごめん――すぐ戻る!」
言うが早いか、ジェムはその場を走り去り、それを目撃した男は道路を渡るより先に、ジェムと同じ方向に走り出した。
なにが起きたのか分からぬまま、取り残されたリリーは、ふと、同じように取り残されていた女性の方に目を向けた。すると、なんとも偶然に、女性の方もこちらに顔を向けていた。そして、女性の正体に驚いて、リリーは息を飲んだ。
――キャスリーン・グリーン。
キャスリーンもこちらの正体に気付いたらしい。彼女の整った顔がみるみるうちに顰めっ面になり、それからなにやら呟いた。
聞こえなくても、キャスリーンがなにを言ったか、リリーは瞬時に理解した。あの顔をするときは、いつもそう。彼女は、リリーの名前を呼んだのだ――あの不機嫌な声で。
リリーはさっと目を逸らして、ジェムを追いかけるように駆け出した。
こんなときに、こんなところで会いたくなかった。声はもっと聞きたくない。ひとりで立ち向かうには、あまりにも恐ろしい――あの人は。
……ああ、嫌だな。やっと自信がついてきたのに、結局わたしは彼女から逃げている。傷付く覚悟も、立ち向かう勇気もなく、弱い立場でいることを甘受している。高校はもう、卒業したのに。
ざわざわとした心が分からなくなるまで走って、走り続けて、息が上がったリリーはその場に蹲るように足を止めた。息を整え、冷静さを少しずつ取り戻し、ゆっくりと顔を上げ、辺りを見回した。
「どこ行ったのよ、あの人……」
リリーは、すぅ、と深呼吸した。するとどうしたことだろう、今まで経験したことのないおびただしい数の匂いがリリーの鼻腔を襲った。生理的な涙が出るほどの刺激に思わず、けほっ、と咳き込む。
……なに、これ。今まで、こんなことなかったのに。道行く人たちの匂いが強過ぎる。水中にいるみたいに音が反響して聞こえて、ぼうっとするし、目に入ってくるものの情報量が多すぎて、眩しくて目がちかちかする。気持ち悪い。
リリーは、地面に膝を着いた。
落ち着け、落ち着け。こんなときに、こんなところで、へたばってる場合じゃない。負けたくない、強くなりたい、弱いままの自分は嫌だ――と、そう願って親元を離れる決意をしたんじゃないか。それでオルトンと喧嘩して、自分の甘さと向き合って、自分で考える力を身につけようと頑張った。頑張って、慣れないこともした。ジェムに手を差し伸べてもらって、ようやく自分を認められそうになった――だけど。だからこそ、また誰かに助けてもらわなきゃ立ち上がれないだなんて、そんなのは嫌だ。
リリーは、ふう、と長く長く息を吐いた。そして、情報が多すぎるならひとつに絞ればいい、とひとつの感覚に集中することにした。普段使い慣れているのは、嗅覚だ。どれかひとつの匂いを――誰かひとりの匂いを掬い上げて、その匂いに集中してみるんだ。ミルクの匂い、挽肉の匂い、ミントの匂い、ラベンダーの匂い、白檀の匂い、卵の匂い、アルコールの匂い、ぶどうの匂い、オレンジの匂い、ジャスミンの匂い、ムスクの――違う、これは、なんていうんだっけ。甘くて薔薇みたいだけど、燻したような匂いも混ざってて、ちょっぴり木々の匂いにも似ている――そうだ、ミルラだ、ミルラの匂いだ。
……待って。ちょっと待って。なにかが違う。なにかが変。はっきりしない。距離が遠いからじゃない。混ざってる。オレンジじゃない。ジャスミンでもない。ミルラも……、みんな、ぼんやりしてる。みっつが絡み合うように混ざった、香水とも違う、滑らかで優しい……これは、石鹸の匂い。
* * *
尾行を撒くことには長けていたジェムも、今まさに自分を追ってきている男の運動能力の高さには、頭を悩ませていた。気を緩めると、直ぐに距離を縮められてしまい、男の大きな手が襲いかかってくる。だからといって、先日のように公共交通機関を利用することはできない。リリーをあの場に置いてきてしまっている手前、あまり遠くには行けないのだ。まったく、苦しいだけの追いかけっこだ。なんの意味もない。
そもそも、ジェムには、この男から逃げる理由はない。あの場から走り去ったのは、"あの場"から立ち去らなければいけなかったからだ。つまり、リリーとキャスのいる場で、この男と対峙することだけは避けたかったのである。
……こいつ、公共の場だろうと関係なく掴みかかってくるからな。それぐらいの尊厳は守りたい。ぼくにもプライドはある。
だから、ジェムが今すべきことは、男から逃げ切ることではない。いずれは会わなければならないかもしれないと思っていた相手だ。それが今になったところで、特に支障もない。
ジェムが今しようとしているのは、できるだけ人目の少ないところに男を誘い込むことである。そこで男の鉄槌を喰らったり、問い詰められたりするのは、大したことじゃない。話す機会が得られるのならば、それはむしろ好都合である――。
人気のない路地裏に逃げ込んだジェムは、上がった息を整えるふりをして、足を止めた。すると、直ぐ様男の手がジェムの肩を掴み、壁際に追い詰めた。
「――ちょっと、待てよ、デイヴ。なにをそんなにいきり立ってるんだ」
がん、と顔のすぐ横に拳が飛んできて、ジェムは首を竦めた。少し、怒らせ過ぎたかもしれない。
デイヴは、はあ、と息を吐いて、一旦気を落ち着かせた。
「分かっているだろ? 昨日のことだよ、お陰で散々な目に遭った。不審者扱いされ、警察まで呼ばれるところだった」
「ぼくはただ、尾行されてるのに気が付いたから、自己防衛で撒いただけだ。それがきみだったってだけだろ、わざとじゃない」
「よく回る舌だな、カヴァナー。お前は尾行者の顔も確認しないで逃げるような馬鹿じゃない。むしろ、徹底的に相手の特徴を観察してから、撒くはずだ。そうだろ?」
「そんなに優秀だったら、もう少し割の良い仕事をもらえてるよ」
そんな自虐的な台詞が、彼の逆鱗に触れたらしい。デイヴは胸倉を掴んで、ジェムを壁に押し付けた。喉元に指の関節が食い込み、息苦しさに呻く。
……おいおい、勘弁してくれよ。今の話のどこに腹を立てる要素があったって言うんだ。
「だったら、何故隠す? お前のその能力で、どれだけの人間が助かると?」
人の胸倉掴んでなに言ってるんだ。
「こそこそと人の秘密を暴くことが、どんな助けになるって? 知らなくてもいいことを知って、事態を悪化させることになんの意味があるんだ?」
「それはお前の決めることじゃない」
「そうだな。でも、だからこそ、他人の探究心を満たすための道具にはなりたくない」
「だから、能力のない人間のふりをするのか?」
「……助けが必要な人は、ちゃんと助けてるだろ」
ジェムは答えをはぐらかした。
「これだから腹が立つんだ、お前には、いつも!」
デイヴの怒声に怯んで、ジェムは口を噤んだ――はずだった。はずだったのだが、どういうわけか、遠い昔にグレアムに教え込まれた上調子な振る舞い方や、幼少期の負けん気な気質を、突然憑依するように思い出してしまった。
つまるところ、無駄な挑発をしてしまったのである。
「馬鹿力だけが、あんたの取り柄だもんな」
ぴしっ、とデイヴのこめかみに青い癇癪筋が走った。なにゆえ、わざわざ火に油を注ぐようなことを言ったのだろうか。ジェムは自分自身にほとほとうんざりした。目前に迫る硬くなったデイヴの拳を、そのまま受け入れてやろうと荒んだ気持ちで目を閉じ、覚悟を決めた。そのときである。
「待って」
喧嘩を止めに入るには、あまりに弱々しい声に、ジェムは目を開けた。
「お願い、やめて」
息を切らせながらリリーが言った。ジェムは、路地裏に現れたそんな彼女の様子に目を剥いた。
にわかには信じがたい光景だった。リリーの背中からは、薄い昆虫翼のような光の膜が拡がり、マントみたいにたなびいていて、彼女の緑色の瞳には、人に畏怖を抱かせるほどに美しい金色の光が射し込んでいた。しかも、それらのリリーが纏っていた光は、ジェムと目が合うと塵のように消え去ったのだ。
すべてが夢だったのではないかと疑うような光景に、ジェムは呆けたようにリリーから視線を外すことができなかった。
――いや、本当に夢だったのではないか?
「……君は、」
デイヴの呟きとともに、ぱっ、とジェムは彼の手から解放された。突然自由を得たジェムは、その反動でよろけて転びそうになったのをデイヴに支えられた。それからデイヴは、ジェムの皺の寄った襟元を伸ばしたり払ったりして正した。
「大丈夫か」
「…………」
「すまん、やり過ぎた」
「……いや、」
けしかけたのは自分の方、と言いそうになって、ジェムは言葉を飲み込んだ。デイヴが素直に自分の非を認めるなんて、こんな珍しい事象に水を差すべきではない。
「――一体、なにがあったんです?」
リリーがふたりに詰め寄った。
先程のリリーの姿が脳裏に焼き付いて離れないジェムは、何事もなかったかのようにこの場にいる彼女に戸惑った。リリーの問いかけにも上手く応えられず、ええと、と口ごもった。
その、となんとか言葉を紡ごうとして、口をついて出た言葉は、
「――羽」
「え?」
「いや、さっきの光は、……」
「光?」
駄目だ。これ以上は、聞いてはいけない。現実的に考えて有り得ないことは、口にするべきじゃない。
「……なんでもない」
ジェムの様子が変なのを、リリーは気がついているようだった。怪訝そうな顔で、じっと顔を窺って、なにかを探ろうとしているようだった。ジェムは、ふい、と彼女から視線を逸らした。
「あの、」
謙ったデイヴの態度に、気味が悪いなと思いながらジェムは見遣ると、同時にデイヴの顔を見たリリーがあっ、と声を上げた。
デイヴの姿は、つい最近、ウォッシュバーン・パークでリリーに声をかけてきたあの男性とまったく同一だったのだ。
「この間の!」
「――っ、先程は、恥ずかしいところを見せてしまったが、いつもはこうじゃないんだ!今日はたまたま――その、虫の居所が悪かったというか、平常でいられなかったというか……」
……なんだ? ふたりは知り合いだったのか?
ジェムは片眉を上げた。
「ええと、」ちら、とリリーは、ジェムの顔を窺い見た。「良ければ、少しお話しできませんか? おふたりの間に、なにか行き違いがあったならいけませんし、差し支えなければ、わたしにも事情をお聞かせ願えないかと」
リリーに促されて、デイヴはジェムの方に顔を向けたが、不快そうにさっさと視線を外された。とはいえ、リリーの提案を断るつもりではなかったようで、デイヴは、勿論、と答えた。
「俺も、冷静に話をしたいと思っていたんだ。追いかけて問い詰めるなんてのは、本来、俺のやり方じゃないんでね」
そして、ぎろり、とジェムを睨んだ。要するに、ことの原因は突然走って逃げたりしたジェムの方だ、と言いたいのだろう。とはいえ、視線を外したりもう一度見たりと、忙しい男である。
「社長令嬢のことは、いいのか?」
ジェムは、つい最近の出来事を思い返しながらデイヴに訊ねた。彼女のことだ、あの場に独り置いていったとなれば、手もつけられないほどかんかんに怒りそうなものだが。そんなキャスリーン・グリーンのお世話係をしながら、いつも他の案件も担っているというのだから、デイヴ・モーズリーは底知れぬ体力を持つ男である。
しかし、デイヴは慌てた様子もなく、答えた。
「頼まれた仕事はもう済んだ。問題ない」
「きみがそう言うなら」
ジェムは、肩を竦めた。デイヴには、キャスリーンの相手など苦でもないらしい。
「そういえば、お嬢様がお前を知っているようだったが」
デイヴの質問に、ジェムはそっぽを向いた。
「あんたの依頼主に聞けよ」
自分の口からは極力言いたくない。
「――歩きながら話そう。ここじゃ誰が聞いてるかも分からない」
「賛成だ」
珍しくジェムの意見を肯定するデイヴに、ジェムは自分の耳を疑った。いつもなら、なにかしら条件を付けてくるか、代替案を出してくるのに。
明日は嵐かもしれない。




