エピローグ、温かく穏やかな時へと
腕時計は、壊れてしまった。丸い文字盤に刻まれていた印やら、記号やら、時刻を指し示していた針が、サラサラとした砂の様になってしまったのだ。丸い硝子の内側で、サラリと溜まっていた。
……、外して返さなければ、と思いつつ彼は用をなさぬそれを、そのまま身に着け過ごした。店主もその後の事は、彼に何も教えていなかった。
夏の流星群、秋の一等星、フォーマルハウトを彼はベランダで独り眺めた。
耳の側近くで腕を振る。シャリシャリと砂の鳴き声が聞こえる。
黙黙と過ごした。生活がゆるゆると始まる。世界が先へと進む。いち社会人として、懸命に課せられた事を、こなして行った。
吐く息を白くし、オリオン座を探した。春になれば引っ越す事がようやく決まった。思い出のある場所を手放す事に、心が傷んたが、指折り数えていた彼女の夢を叶える為には必要な事だと割り切った。
……、親戚から家族が増え、手狭になった郊外の、庭付き平屋の一戸建てを買わないか?と声をかけれた、君がいれば、喜んだろうにな。
夜空を彷徨う想い、逝った妻を恋い焦がれ眺める星の光、冬の空気は、骨身に染み入る程に冷たい。じんじん入り込むソレに、足元が、耳が指先が、痛いと声を上げている。部屋に戻る。暖房が効いている室内に。
血液の流れを感じる。壁にかけられた時計が、コチコチと音を立てて進んでいる。
生きている今。進んでいる時。
冷蔵庫からビールを出す。
独り部屋でそれを飲み干した。
時が移ろいゆく 春が訪れた。
独り彼は新居へと向かった。
そして、始まる新たなる時。休日には、花を植え、草と戦い、土を耕し、虫と戦い……新しい植物を買うためにホームセンターに通い、知識を得るために、年配者と共に、市民講座を受けた。週末は、目が回るような忙しさに追われる事にした。
革のベルトが切れたら、返そうと思ったそれと共に、植物に囲まれ過ごした数年、数カ月。
やがてある休日の昼下り、寿命が来たのかプチリと切れた腕時計のベルト。果たしてあの店も、店主もどうなっているのやらと思いつつ、彼は車でかつて住んでいた街へと繰り出した。駅前の立体駐車場に停めると、うろぼえなその店を探す。呼ばれていたのか、導かれる様にそれは、しごく簡単に見つかった。
――、「情けないね、全くねぇ男ってのは思い出の縁に頼るから……結局!庭付き一戸建ての主になっても、独り身とは……今からでも、熟年の恋のひとつぐらいどうかね?想う女がいるのなら!目は口ほどに物を言う、この『人魚姫の涙』を使えば、視線で女を口説ける、使ってみないかね?」
扉を開けると、いらっしゃい、恋の病なら先ずは王道!イモリの黒焼きはどうかね、上物が入ってるよ、と、あの店主が声を掛けてきた。まじまじと彼を見る店主。
あの時はお世話になりました。と壊れた腕時計を見せた。そうして彼は彼女が『魔女』と呼んだ店主に、聞かれるままに、不可思議な薬らしき物が、陳列されているショーケースを挟み、これまでの時を話をした。
なんとなく独身を通していると話すと、呆れたように情けないね、と言われた彼。恋はいくつになっても出来るさ、と老女は華やいで言う。
「そうですが……、時間が経てば考えます」
曖昧に答を濁した彼。そんな男を、じっと見定める店主。視線を受け、思いだす言葉。
『魔女』その言葉が彼の背筋に寒さを走らす。
「……、ふうん……、何かある、それに殉ずるのかね?勿体ないが……それも人の生きる道」
言葉を受けドキリとした。その時、カチリと大きな壁掛け時計の針の重なる音がした。
ボーン、ボーン、ボーン……古風なそれが時を告げている。
「おや、こんな時間、話し込んでいたら、夕暮れ時になったね……、今日はこれからお客が来るんでね、そろそろ店を閉めるんだよ」
店主はそう言う。そして受け取ったそれをポケットに仕舞いつつ、この時計は使い捨てなんだよ、でも捨てずに届けてくれてありがとう、と話す。
「いえ……、ありがとうございました」
男はそう答えた。では……、と店を後にする。扉に手をかけた時。
「ん……ちょっと頼み事があるんだけど。時計の代金代わりに引き受けておくれ。実は、今日のお客は王なんだよ、もし、お兄さんが途中で出逢ったら、とっときのマタタビ酒を用意しているって、言っておいてくれないかい」
代金代わりにと言われたら引き受けざる得ない彼。訳のわからぬ言伝に、きょとんとしつつ、はい、わかりました。と答えて外に出た。
……、変な事を頼まれてしまった。魔女ってのは本当なのかもしれない。
早足で店から離れようと歩く彼。かつては閑散としていた駅前も、今は賑やかさを取り戻していた。友人、家族連れ、恋人同士、仕事帰り、勤務に向かう人々が、ザワザワと行き交う。その中を縫うように歩き、駐車場へと辿り着く。
外が薄闇に包まれている。蛍光灯が点灯している、灰色のコンクリートの空間。規則正しく並んでいる自動車。白の軽バンに近づく。鍵をポケットから出した時、
艶々とした、黒天鵞絨見事な毛皮の大きな黒猫がスルリと、何処からともなく姿を表した。
口には子猫を咥えている。ミャアミャアと細く鳴くように口を動かしているが、声が出ないのか、動きだけのソレ。
いきなりの出逢いに、じっと黒猫を見てしまう彼。
黒猫も動きを止め、立ち止まるとじっと彼を見る。
「あの、薬局のお婆さんが、とっときのマタタビ酒を用意しているって言っておいてとのことです」
無意識に、口をついたソレ。それに対して、黒猫は頷く様に頭を動かすと、そのまま立ち去ろうとする。
何かが、彼を動かした。猫に話をするなんて、と頭では思っているが、衝動が行けと命じる。
「あの!その子を僕にくれませんか」
お願いします!と膝をつき頭を下げる。他人に見られたら、気が変な人間だと思われる事は分かっていた。だけど、彼はかつて妻の家に、結婚の挨拶に行ったときの様に、お願いします、大切にしますからと言葉を述べた。
黒天鵞絨は、光る金目でじっと見る。それは値踏みをする様な視線。頭を下げる彼に刺さる。
そのまましばらく、動かない両者、やがて……、座っている黒天鵞絨が、ぬっと顔を前に突き出すと、口から子猫を離す。
目の間で落ちるソレ、慌てて両手で受けとめた。
羽のように軽く、くにゃりと柔らかく、ほわりと温かさのソレを受けとめた。
「あ、ありがとうございます」
彼がそう述べると、ふい、と顔を背けて音なく歩き、その場から姿を消した黒い猫。
ペタンと腰が抜けたように、硬いコンクリートの床に座っていた彼は呆然としてそれを見送る、大切に抱える貰い受けた命をしっかりと胸に抱いて。
声が出ない子猫、そろりと持ち上げ頬に寄せる。
ミャアミャアと鳴いているのだろう、口を懸命に動かしている。毛皮に包まれた身の内から、軽い、軽い音を感じる。
とくとくとくとく……心臓の鼓動、生きとし生ける者の時の存在。夏菜子が囁いた声を思いだす。
『もし、私に出逢ったら……見つけてくれる?』
嘘か真かわからなかったその言葉。薬局の魔女の伝言。不可思議な事だらけだったが、彼は出逢えた幸せを信じる。
「うん、お家に帰ろうか、ホームセンターに寄って、君のベットや、ご飯や食器を買って……引っ越ししたんだよ」
ほんと?と声が出ない猫から聴こえた気がした。ポケットからキーを取り出すと、乗り込む。助手席に子猫をそろりと置いた。座るそれの喉を撫でる。
嬉しいのか、ゴロゴロ、ゴロゴロと喉を鳴らす子猫。
嬉しくて、可愛くて、何時までもそうしていたい彼。
帰ろう、そう言うと手を離しエンジンをかけた。
車が前に進む。朗らかに子猫に声をかけた。
「庭を造ったんだ、頑張ったんだよ、気に入ってくれるかな」
そう話をした。助手席には、命持つものが丸くなっている。顔をちろりと上げると、声無き声で応える。
「うん……頑張ったよ、虫やら雑草と、毎日の水やりとか、仕事しながらだから大変だよ、あ!それと君によく似た観葉植物もちゃんとあるよー」
他愛のない話をしながら、ハンドルを握る彼。助手席で、短い尻尾を嬉しそうに振る子猫。
そして。
郊外の緑豊かな庭に建てられた、小さな家に辿り着く。
そこで独りと一匹の、温かく穏やかな時が、ゆるりと過ぎていく。
終。