86400秒 朝。
「ね、消えてない」
柔らかい唇の感覚。離れるとクラリとする彼。続きをしてみる?といたずらっぽく笑う彼女。その顔を見つめながら、困った様に答えを返す。
「う……、洗濯物干せなくなってもいいなら……」
「洗濯物?なんで干せなくなるのよ」
思いもよらぬ返事に、身体を離して真顔で聞く夏菜子。
「ベランダ……、思い出しちゃうよ……、出れなくなるよ、だから干せない」
まあ!何それ!洗濯物は干してよね!やっぱりやめとこう、と夏菜子が甘い空気をバッサリと斬った。静かなる夜更け、空には白い月が煌々と光っている。それを無言で見上げる二人。昂ぶっていた物が落ち着き静まる。
ポツリと呟く。
「あと、どれ位残ってるのかな……、この腕時計、きちんとした時刻は見にくくて……、携帯で調べよっか」
頭を振り答える。
「んー、それなら朝6時に、アラーム鳴らしたら?それまでは……時刻なんて無い方がいい」
「6時って遅くない?」
「いいの、バタバタしている方が。先ずは、ここを片付けて、朝の支度をして、で明日は出勤?」
「いや、9時にアクセスするんだ」
へぇ……私もそうなってたかな、と夏菜子はテレワークに、興味を持った。
「そうなんじゃない、君の会社もそうなってるよ」
それをきっかけに、夜通し話を交わした二人。夏菜子はやりたかった事を、明るい声で指折り数え彼に話した。花や野菜を育てたい、郊外に住みたいな、空気が綺麗でしょ、だから車もいるね、と指折り数え話す。
ウンウン、えー!郊外だと通勤大変だよ?買い物だって。そうなったら、車かぁ、あれば便利だよなって!ローン組むんだよね、うあわ……大変だな……、先を考え指折り数える彼。
そして……気が付かぬ間に身を寄せあいそのままに、ウトウト眠ってしまった二人。チチチ……、鳥の声、ヒュルリと冷気が動いた。ぞくりとして、先に目を覚ましたのは彼。いつの間にか狭い場所で横になっていた。
彼の腕に頭を置き、胎児の様に丸くなり眠る夏菜子が腕の中にいた。すうすうと寝息を立てている。動かさぬ様に、彼女と向き合う様に身体を動かした。
空いた手を背に回し、そろりと抱きしめた。
髪に顔を埋める。香りを吸う。柔らかさを手に感じる。体温を身体に感じる。そして……、自分の高まる鼓動を、そして……
彼女のソレが無い事を知ってしまう。とくん、とくんと血潮に打つ存在が無いことに気がついた。
チ、チ、チ……、時の音はそう表す。チクタクチクタクとも、ジリジリジリジリとも、先に進む音。
とくんとくんと規則正しい身体の中の音、生者の証、未来に進む音、自分にあり、夏菜子に無いソレ。
同じ時を過ごしていても、先に進んでいる生者、止まっている死者。
「一緒についてっちゃ、ダメかな?」
そう言う。
「ダメ、私の夢を叶えるって、約束したじゃん、それと笑って、先の話をしようよ、先ずは家探し、してよね、それと並んでガーデンのお勉強も、私、テラコッタはイタリア産がいいなー。バラのアーチも欲しい」
パチリと目を覚まし、囁く様に話す。
くにゃりと泣き笑いで、どれだけ金かかんの?と聞く彼。その顔をじっと見ると、頬に両手を持って行くと、何かを囁きながら、おはようのキスをした夏菜子。
「ね、約束」
わかった……。頑張ってみると答えた彼。
ピピピ!ピピピ!ピピピ!携帯のアラームが鳴り響いた。
残り時間、3600秒の知らせが。
「片付けよう」
無駄にしたくないと、夫が動き始める。
「テレビ、つけとこうよ、時間出てるし」
部屋に入るなりリモコンを押した。アナウンサーの明るい声が流れる。
「30分までに片付けて朝食作ろうよ」
昨日使ったままの食器を、二人で洗いつつ、話す夫。
「トーストとコーヒー」
時間ないもんねと、寝坊したときのように話す妻。
拭いて食器棚に片付け、ゴミをまとめ、キルトを洗濯機にかける。
使ったタオルケットを布団干しにかける。クッションをパンパン、と叩いてゴミを払う。ケトルに水を入れスイッチを入れる。
……只今、午前6時30分です。おはようございます。
アナウンサーの声。残り時間1800秒。
「目玉焼きなら作れる、トーストに乗っけよう」
アニメのアレみたい、飴玉と林檎も買っとけば良かったー、と夫の言葉に笑いながら、フライパンを火にかけ、冷蔵庫から卵を2個取り出す妻。
ケトルで湯が沸騰する。オーブントースターに入れたパンが焼き上がる。これだけは、と置いていたペアのマグカップに、粉を入れて湯を注いだ。
皿が2枚、トーストも2枚、それにマヨをかけ、目玉焼きをのせた。塩コショウを適当に振る。
さ!食べちゃおう!と大急ぎで口にする。慌てることで、ふらつく心を抑え込む二人。
逝かないで、ついて行きたい。
ここに居たい、側にずっと。
この世の条理に逆らう気持ちを押し込める。
……6時45分です。天気予報をお知らせします。
アナウンサーの声。残り時間 900秒。
「あと、15分だね……行ってきまーすってするから、見送って」
食卓の何時もの椅子に座る妻が、マグカップを空にしながら話す。
「……、うん、行ってらっしゃいってするんだね」
泣くな!と言われている夫は、溢れる気持ちを堪えて話す。
「そう、お仕事に行く妻を、ヒモの夫が見送るの」
からかう妻。クスクスと笑う。
「はい?なんだよ、ヒモって!それに今はお家にいようだよ」
「ふーん、じゃあ抱きしめて、ラストを迎える?私はその方がいい」
その言葉にドキリとする。妻の優しい想いに気がつく。
うだうだと話しをしてたら、時間が来ちゃう、と朝食の食器をまとめてシンクに運ぶと、カチャカチャ、音を立てて洗う。手伝うよ、と席を立ち布巾でそれを拭いていく。
あとどれ位なんだろう、秒針の時計買っておけば良かった、と彼は腕時計に目をやる。
チリ、チリ、チリ、チリ……、じわ……りと動く、1秒1秒の存在、過ぎゆく時の実感。
タイミングを見計らい、玄関に立つ二人。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい……、まだ大丈夫かな?」
腕時計の文字盤を見る。ごくごく僅かに元の位置に戻っていない針。
……5秒、抱きしめた。
……5秒、キスをした。
「行ってきますのチュウもしたから、行ってきますね」
「はい、行ってらっしゃい」
笑顔で小さく手を振ると、妻は玄関ドアを開け外に出ていった。
笑顔で小さく手を振ると、夫は玄関ドアの前で、崩れるようにしゃがみ込む。
しばらくして、リビングから7時の声。
そうして来た、腕時計の終わりの時。
文字盤を覆う硝子の中から、かしゃんと小さな響き。
86400秒が、終わった朝。