第72話「女たちの信念」
姫香も真凛も2人の様子を遠くから見守っている。
もはや仕事も手につかないほどに、奏の事が気になって仕方ないのだ。
「八武崎さん、あなた、黒杉財閥の人と何かあったの?」
「――何もなかったと言えば嘘になります」
「今更詮索はしないけど、もう彼らに関わるのはよしなさい」
「好きで関わっていたわけではありません」
「八武崎さんの事だから、むげに突っぱねたりしたんでしょ。あなたは昔っから正直者だから、そういうところには毎度ひやひやさせられるね」
「申し訳ありません」
「謝ってほしいんじゃないの。むしろ感心してるの。でも今回ばかりは相手が悪かったかな。私も抗議したけど駄目だった」
明子が困り果てた顔をしながら奏に同情する。
この事からも、明子がいかに奏を信頼していたかがうかがえる。しかし、会社の一社員に過ぎない明子の力ではどうにもならない。
「何があったのか教えていただけませんか?」
「……今朝、人事部長がこのオフィスにやってきて、私にあなたをクビにするように言った上で、あの通達を掲示板に張り付けていったの」
「人事部長に直談判してきます」
「待ちなさい!」
明子が少し強い口調で奏を制止させようとする。
「これ以上彼らにかかわっちゃ駄目。次は消されるかもしれないよ。だから――」
「部長、これはあたしの問題です」
「黒杉財閥の人たちが怖くないの?」
「正直に言うと、怖いです。でも気づいたんです。自分の信念に背く生き方をする事の方がよっぽど怖いって。だってそうでしょう。自分が何の信念も持たず、自分が何者であるかを考える事さえ放棄して、ずっと誰かの言いなりになって生き続けるのって――そんなの、死んでいる人と何ら変わらないじゃないですか」
「……」
奏は後ろを向いたまま反論する。しかし明子は何も言い返せない。
彼女にも奏の言う事が痛いほど分かる。かつて女性の社会的地位が現在よりも低かった時代、それこそ死人のように生きていれば、安定した結婚生活を送れた立場ではあったものの、あえてそれをしなかった彼女だからこそ、奏の心境が分かるのだ。
「ここで彼らに屈したら、庶民は簡単に屈するものだって思われますよ。そうやって彼らを図に乗らせたら、また誰かが悲しむ事になるんですよ」
「……私ね、一度は結婚まで約束した相手がいたの。でもその相手からは、結婚したら専業主婦になってほしいって言われたの。その時の私は今のこの仕事にやりがいを感じていて、とても辞めようって気にはならなかったの」
数十年ほど前までは、女性は結婚すれば退社するのが当たり前だった。
そのため、当時の明子は結婚か仕事かを選ばなければならない立場にいたのである。奏も母親からこの時代の話を聞いていたため、その状況が手に取るように分かるのだ。
「仕事を選んだんですね」
「ええ、仕事を辞めても良いと思えるほど好きじゃなかったって事だから」
「私は仕事も結婚も、全うできそうにないですね」
「……ずっとこの仕事、続けたい?」
「はい。初めてあたしを認めてくれた会社ですから。あたしが就活してた頃、どこの会社からも、どうせ結婚したらすぐに辞めるんだろとか、女はいざとなったら結婚に逃げられるから良いよなとか、女だからというだけの理由で、色々と悔しい思いをしました。でもこの会社の社長面接の時、社長はあたしの話をちゃんと聞いてくれて、希望した部署にまで配属してくれたんです。だからっ、あんなしょーもない男のプライドのために……仕事を辞める事になるのがっ……悔しくて仕方ないですっ!」
多分、今頃は樹もこんな気持ちなんだろうな。
奏は本音で話し続ける内に心の奥底にあった憤りを抑えられなくなり、明子には背を向けたまま、同僚たちの前で涙を流してしまう。
その姿に多くの同僚たちが同情の目を向ける。
その感情は憐みからくるものではなく、彼女が今までにどれほどの苦労を重ねてきたかを知っている事による悔しさからである。
「うっ、ううっ……!」
明子が奏を後ろからそっと抱きしめる。
「あなたはさっき、仕事も結婚も全うできないって言っていたけど、私はあなたには仕事も結婚も全うしてほしいって思ってるの」
「えっ!」
奏が泣く事をやめ、明子の声がする方向へ顔を向ける。
「もちろん、好きな相手がいればの話だけどね」
明子はそう言いながらニッコリと笑う。
「……何故そこまで、あたしに肩入れしてくれるんですか?」
「不本意かもしれないけど、あなたは昔の私によく似てるの。だからつい応援したくなっちゃったの。まるで人生の決断を迫られていた時の私を見ているみたいで放っておけないの」
「でも、私はもうクビに――」
「クビになんてさせませんっ!」
「姫香……」
「そうですよ。奏さんは何にも悪い事はしてないんですよ。なのにいきなりクビっておかしいですよ。私やっぱり納得できません」
「真凛……」
「そうだそうだ。八武崎はここに残るべきだ」
「そうだよ。八武崎がいないと仕事が回らねえからな」
今、奏の前には姫香や真凛をはじめとした同僚たちが立ち尽くし、それぞれが明子に奏のクビ撤回をヤジを飛ばすように訴えている。
「みんな……」
奏はこの光景にまた涙が止まらなくなる。それはさっきまでの悔し涙ではなく、確かな信頼関係を確認できた事による嬉し涙であった。
彼女の信念が、同僚たちの心をも動かしたのである。
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