ビンゴ
閑話回
五月も半ばが過ぎたころ、兄さんが好きそうな人の情報をあらかじめ用意していた。
そうして、兄さんが会社に出勤する前の玄関でそれとなく渡すと兄さんは驚いたように目を見開きつつも、封筒の情報を受け取った。その情報に嘘偽りもなければ、前の依頼から期間もほとんどあけていない。
「どうして、そろそろ頼むってわかったんだ?」
「なんとなくだよ」
本当にそれ以外の言葉はなかった。
情報を掴むにも、横流しするにもある程度の時間が必要だ。それを見越していつもこなしている。だからこの兄の依頼もなんとなくの感覚で次の依頼の時期がわかるのだ。兄の状況を含めつつそれから、情報を渡す。もちろん、他の兄妹の裏稼業に被らないように細心の注意を払っている。
「ありがとう」
と、素直に兄さんは受け取った。
封筒の中身にはある男の情報が載っている。その男は、売春行為をしている元締めだった。
男の環境は芳しくない。
まず、男は自身の不貞から会社を首になっている。それからその不貞は治らずそのまま生き続け、ある商売に行き当たる。
それが少女の春を売る行為だった。
男はなぜか知らないがそれなりの魅力を持っており、多くの女性が寄ってきた。その女をだましては売りさばき、その事実で強請った。
過去の不貞で作った娘すらも売ったのだ。やっていることは、ヤクザと同じだ。
裏の大きな組織で雇われていない、バックがいないこんな男はきっと早々と裏社会で抹殺されるだろうと考えていたが、兄さんによる些細な罰を与えてもいいだろう。
兄は封筒の中身を邉や希星に見えないようにさらっと目を通すと、うなづいた。
「ビンゴだ染香」
「ビンゴは一列揃わないとならないよ兄さん」
「そういう意味じゃないよ」
苦笑する兄さんの顔つきが真剣になる。日本男児さながらの頼もしさを秘めた眉を吊り上げ、口をひきしめた。
「ちょうどやりたかったところだ」
固い場所だったんだ、とばれないように兄さんは専門用語を使った。つまりは、カードキーで開ける家みたく、やりにくい相手だったということだ。
背後からどたどたと、希星が玄関に駆けてくる。自然な手つきで兄さんは資料を封筒にしまうと黒い鞄にしまった。着崩れしているスーツを直し、底が擦り切れた靴を履く。
もう何年も兄さんのそんな背中を見ていた。
「姉さんどいてー」
希星が来るところをよけて、兄さんの後姿を再び見た。
「てか、二人とも何してんの?」
いそいそと靴を履き、髪を結いつつ、希星は不審そうに見てきた。その光景に兄さんと私は二人して笑いあう。瞬時に目をそらした。
「今日の夕飯の話だよ」
「今日は兄さんが作るフレンチフルコースがいいなあってね」
「なにそれ」
希星が目を輝かせて、噛みつかんばかりに兄さんに食いつく。
「希星は何がいい?」
兄さんが希星の期待を応えようとにこりと頬を緩ませる。
「ラーメン!」
フレンチ関係ないなあ、こう思ったのは、きっと兄さんと同じだろうと、感じた。
珍しく大学に遅刻せず着いた。
その大学も昼までで、すぐに家に帰る。その帰り道、そういえば今日は、確か高校のほうも午前で終わりだと気づいた。
五月の終わりにある試験の一週間前になると、高校が家に帰る時間を早めることがある。希星の高校はそうだった。
それとなく思い出すのは朝に渡したあの男の情報だ。男は今日、高校生が帰り道に行く交差点で取引があったはずだ。
また男は女の子に目を付けている可能性もある。もしかしたら希星がその男に掏摸を働いている可能性もある。そこから私の情報が漏れだし、朝の会話につながれば、希星に気づかれる危険性がある。
なくもない話だ。希星はあれで勘が鋭い。私よりわかっているのではないか、と思うことがある。だから兄さんや邉の秘密を隠すのに苦労したし、現在進行形で苦労している。
念には念を入れ、希星の帰り道である交差点に向かう。希星が標的に交わるのを、阻止しなければならない。
と、思ったはいいが……
交差点に行った時には、既に希星のすっきりした顔があった。
私を見つけ、手を振る。
その背後にはポケットを探り、鞄を探り続けている兄さんの標的の男がいる。男は群衆から浮いているヒョウ柄のTシャツを着ていた。このご時世大阪のおばちゃんしか着こなせないものを完璧に着こなしている。男のそばには赤い車が配備されていた。黒いスモークガラスで、中は覗けない。
「お姉ちゃんってば」
手を振っていても私が気づいていないと思った希星は、しびれを切らして私のもとへ来た。そして、私の腕をつかむ。希星のおさげが小さく揺れた。ぱちくりと瞬きを一回して、それが私の妹だと改めて認識した。そして事の重大性を思い出した。途端に焦りが頭を過ぎる。
「希星だよ、わかる?」
頷いて、そっと希星に耳打ちした。
「ヒョウ柄のTシャツ男をやったの?」
間髪入れずに希星は満面の笑みで返した。
「もちろん」
仕事が早い、と瞬時に考えてしまうのはもう私がどっぷりとこの世界に浸かっているせいだろう。もしくは、希星の腕にまたもや感嘆しているのだ。
少なくとも、あの男には何人も護衛がついているはずだ。ヤクザのまがい物でも、裏の世界に身を置いているのだ。お付きの二人は護衛とみた方が賢明だ。
ともかくあの二人をかいくぐり、どう掏ったのか今は聞かないようにして、それよりもここを離れたほうが先決だろう。男に近づいた一人である希星に掏りをしたのではないかと目星をつけるまで、時間はそうかからない。
「とりあえず、近くのファーストフード店によらない?」
赤と黄色の看板が目立つお店に半ば無理やり、私は希星を連れ込んだ。
「あのおやじ、中学生時代の私の友達と歩いてたんだ。で、エンコーしてるんだって確信したの。ただそのやり方がひどくって、調べてみたら黒いものがでてきてね」
ずずずっと、ピンク色のイチゴシェーキを飲みながら希星はあのヒョウ柄のTシャツを着た男を掏摸した時のことを詳細に述べた。
少しだけ遠いつながりだが、希星には希星なりに動く理由があったみたいだった。
赤と黄色の装飾が施された店内は気が散る。集中を切らさないよう緊張感を保つ。心を引き締め、希星を見る。あくまでポーカーフェイスで感情を悟らせないように表情を作る。
「それだけ?」
「それだけ」希星がきっぱり断言する。
探る私を逆に怪しんだのか、希星は飲み切ったシェーキを下すと、私の顔をのぞいてきた。私が頼んだアイスティーは全く飲み進んでいない。
「そういえばなんで今日お姉ちゃんこっちの道に来たの? 私を迎えになんていつもしてないのに、珍しいね。やるの見たいんだとしても、この間見たところだし……」
「別に」
「別に?」
言葉を探す。
あくまで兄さんのことは知られてはならない。私が兄妹のやっていることを隠すために動いていることも、これも漏れてはならない。
漏れてしまったら、と考えると先が思いやられる。そんな想像をいつもしそうになって消してきた。日常が崩壊するさまを思い描くのは散々だ。
私はため息を吐くふりをする。
察しのいい希星はこれが演技だと気づくだろう。胡散臭いが、今はそれで充分だ。こういう時兄さんなら、あっけなく私の嘘に騙されてくれる。希星は侮れない。とどのつまりは、希星は面倒なのだ。
「白状するとね、バイトで調べてるんだよ」
「あの人を?」
嘘偽りなく話した。これで演技と嘘が混ざって、希星もわからないだろう。
「そう、あの人のこと」
本当は『今』でなく『前』に調べていたのだ。兄さんの依頼がくることを見越して、先に調べていた。それが嘘に上手くくるまれた。
へぇ、と希星は相槌を打つ。少なくともその反応は信じてもらえたようだった。
それを皮切りに希星はこの話題には飽きて、次の話題にシフトした。学校指定の鞄から何かを取り出したのだ。四角く、長細いそれはしっかりとした革製のものだった。ブランド物で、見ただけで高価なものだとわかる。
「見て、これ」
希星は自慢げに机の上に出す。隣には空っぽのシェーキの入れ物がある。比較するにはあまりにもお粗末だった。
「趣味の悪いヒョウ柄」
けらけらと笑いこけ、先ほど掏ったとされる財布を差し出す。きっと、あのTシャツとお揃いにしたんだよ、とにやにやする。
この罰の象徴は希星にとっては大きいが、あの男にとっては小さいだろう。希星は自分の身分を知ってか知らずか分相応の罰を与える。なんだかかわいらしくもある。そうしてかわいらしい焦げ茶のくりくりっとした瞳を向けていった一言にいつもの流れで頭を縦に振ってしまうのだ。
「中身も外もいらないし、お姉ちゃんにあげる」
適当に処分しといて、とお願いされた。
私は、こんなものはいらないし、処分もしたくないのだが、結局妹かわいさゆえに受け取ってしまう。
分かっている。乗せられているんだ。
いつもの時間より帰るのが遅くなった兄さんを、玄関にあるベンチに座って待つ。先日の雨が染み込みしなびた木に背をもたれかけさせる。
数年前に日曜大工だとか言って父が作ったものだ。だが、そのあとすぐに単身赴任が決まり、今は日曜大工もそのままほっぽりだした状態だった。
このベンチはその一つだ。唯一完成したもので、座るとぎしぎしと壊れそうな音がする。なんとか壊れずに座れるのはそれなりに父さんが趣味を頑張っていたからだろう。
雨の日以外は私はそこで座って本を読むことがあった。そうして兄妹の帰りを待つのだ。
たまに鍵を忘れて、そこで待つこともある。忘れ過ぎて、趣味が読書へと発展したのは内緒だ。
五月半ばを過ぎた今は雨のせいで、ここで待つことは少ない。
文庫本を読みつつ、いつもより遅い帰りの兄さんを待つ。そうこうしていると文庫本なんて読み進むのは遅くなる。字を読むのが面倒くさくなり、ページをめくることすら煩わしくなり、家に近づく影に思いをはせるようになる。
今日はきちんと帰ってくるだろうか。兄さんは鈍いから、捕まってはいないだろうか。
邉は大丈夫だ。弟は、無口で顔を見られたくないシャイな一面があるが、話術は長けていて何度も危険なところを切り抜けているのを噂で聞いたことがある。
だが兄さんはそうはいかない。一度小さなミスをすれば、あれよあれよと捕まるほど鈍感だ。下手をすれば今回の依頼人の手で消されるかもしれない。泥棒をやる時はさすがに不器用さや鈍感さも薄れてはいるがそれでも心配だった。
文庫本を閉じて、家に近づく影を見つめる。伸びている黒い影は男のものだった。黄色い照明と茜色の照明が合わさり、影が濃くなる。
ごくりと唾をのみその影がこちらに来るのを待つ。
「おかえり」
私が話しかけると影がほほ笑んだように見えた。
「ただいま」
玄関にやってきた影の本体が返す。
黒い手袋をしていない兄さんがそこには立っていた。もう今は何も背負っていない。いつも通りの市役所勤めの公務員だ。
手には行きしなもっていった鞄しかない。奪ってきたものはすでにかたずけてある。
私は立ち上がり、スカートについた土を払った。兄さんに向き直る。兄さんの焦げ茶色の髪がしおれているように見えた。落ち込んでいるのだろうか。
「どうだった?」これはただの見分だ。「今日のところも簡単だった?」
「今日のところはおかしかった」
「何が?」
冷汗が背筋をつたう。今日の希星のすりで、情報が違えてしまったこともなくはない。肝が冷える。
「いや、いつも通りやって、家をでたんだが、情報通りに家の主人が帰宅しなかった」
帰宅しない、なんてことはいくら掏りがあってもあり得ない。あの主人はいつも定刻通りに、何があっても帰るはずだった。情報は確かに得ていたはずだった。それが違うことなんてめったにない。
邉の姿がふと頭に浮かんだ。先ほど邉は大丈夫だなんて、考えていたがなぜ一瞬よぎったのか疑問が湧いて出た。
ここ数日で見た彼の周辺を整理する。
邉を探していたあの男女は一体何を依頼したのだろうか。希星から慎助兄さんときて、もしかしたらもう一度つながるのではないだろうか。
二度あることは三度ある。
「兄さんちょっとだけ、出かけてくるからこれ持ってて」
文庫本を押し付け、携帯片手に私は玄関をでて、人がいる駅の方面に歩き出した。
駅は人であふれていた。
言葉であふれていた。
きっとここで何かを叫んでも中身に気づきはしない。
人込みに紛れて、電話をする。かけるのは邉だ。すぐに邉はでて、有無を言わせず私は今日見かけてたあの男の名前を告げた。
『姉さん、なんで知ってるの?』
「ビンゴだね」
『それは、一列並ばないと言わないやつだよ』
「一列並んだんだよ」
どうでもよさそうに電話越しに邉が笑った声が聞こえた。どういうことだよ、とでも言いたげだった。
『この間姉さんと俺が居酒屋の前で出会ったあの男女から依頼された人なんだ。相当恨みを買ってたみたいだね。涙ながらに依頼してきたよ。今日殺し屋を向けた』
「じゃあ、もう会えないんだね」
『あったことがあるの?』
「ないけど、調べてたんだよ」昨日の今日までだ。
こんな偶然あるんだね、と邉が今度は嬉しそうに笑った。大きな笑い声が聞こえて、その声で私の心は温かくなった。
邉の声は私にだけ特別に思える。誰にも向けない声と明るさが、私にだけ向けるのだと知っていた。そう思いたいだけなのかもしれない。
『今日はバイト、早く上がれそうなんだ』
「じゃあ、今日も一緒にご飯食べれるんだね」
『うん。ご飯何かなあ』
「きっとラーメン」
朝に希星が食べたいと言っていたのだ、と付け足す。そしてさっき会った兄さんの手にはスーパーの袋の姿はなかった。
きっと外食だ。
『なら早く帰らなきゃ、だ』
そうして二言三言当たり障りのない会話をして、電話をきった。
今日はいろんなことが同時に起こり、頭がパンクしそうだった。こんな日もあるのだと、不思議な気分になった。しばらく人込みに紛れ歩いて、余韻に浸っていた。
あの男の身に降りかかった、掏り、泥棒、殺し、と災難三拍子とも私の兄妹がかかわっていると思うとまたおかしくなり小さく声に出して笑ってしまった。
男にとって踏んだり蹴ったりな一日だっただろう。どうして俺だけ、となっただろう、そこに私の家族がかかわっていて、ビンゴになっていると知りながら罰を受けるのだ。
おかしな日だ。
最後の詰めをするため私は探偵事務所の現役探偵さんに電話をする。
「もしもし、黒木さん?」
探偵に男の口から邉や私、希星や慎助兄さんに各々の秘密が行き渡らないよう、口止めをするのを黒木さんに頼まなければならない。
「折り入って頼みがあるんだけど、聞いてくれない?」