私たちの理由
大きなブレーキ音がした。
それは、耳をつんざく嫌な音。忘れられない音。私の嫌いな大きな乗り物の音。
車のエンジンが回っていない。父さんの手からハンドルは離れていた。
私は白い大きなクッションがあてがわれ、身動きができない。でも四肢はきちんとあって、痛みもあって、指を動かせないというわけでも、神経が断裂したわけでもなかった。感覚があった。耳に、目に、鼻に。次第に感覚が研ぎ澄まされていく。
小さな私の瞳に残酷な現実が刻まれていく。それは頭をハンマーでたたきつけられたぐらいの衝撃だった。
助手席の大きなお腹をした母さんは白いクッションと頭とで挟まれて意識がない。
私の右には邉がいる。私がかばったからか全く傷がなかった。
ただ私の左手側にある助手席はつぶれていた。くしゃっと蜘蛛の巣がはられたようなガラスが助手席の目と鼻の先にあった。そのつぶれた反動で助手席の後ろは圧迫され、兄さんの姿が見えない。
ずっとずっと、クラクションが鳴っている。
ずーっとずーっと、鳴っている。
恐ろしいぐらいに鳴りやまない。
怖くなった。血だまりとか、私の擦り傷とかそんなものよりも、このクラクションや大きな異物がこちらに迫ってくる車内に、怖くなった。空気が薄まり、小さな肩で息をし始めた。おびえて、避けて、それでも瞼は開いていて、否が応でも目の前の景色が瞳に映ってしまう。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
しばらくして邉が意識を取り戻したのか、「大丈夫?」と何度も何度も確認してくる。
目まぐるしく記憶が回り続け、映写機は狂ったように同じ光景を映してくる。オーバーヒートした私の頭の中は必死に抵抗をし続けた。そのたびに邉の声が響き渡る。
花が咲いた。
左隣に一輪。助手席に一輪。運転席に一輪。徐々に外に向かい、私は花を咲かせた。
多くの花を咲かせたら、心が和らぐのではないか、ここから救ってくれるのではないか。だから私は救命信号代わりに花を咲かせ続けた。
大丈夫じゃない。でも私は弟を落ち着かせるために笑い続け、邉の手を握り続けた。
冷たくなった手に汗をにじませ力を籠め続けた。痛い、と邉は言わなかった。
痛いはずだった。もう力加減もわからなくなっていた。力を込めすぎていたのか赤くなった邉の手が見えた。握られた邉の手が痛いのがわかっていたはずだった。
でも、自身の痛みに耐えかねて手を離さなかった。邉も何も言わなかった。
「大丈夫だよ」
また嘘をついた。
リリン……リリン……
リリンリリンリリンリリン……
リリンリリンリリンリリンリリンリリンリリンリリン
目覚ましが鳴っている気がする。
……気がするのではない。
今なっているのだ!
飛び起きて、隣の目覚ましを止める。
目覚ましの短針は十を指している。それをぼんやりと眺めて、はっと気づく。
「遅刻したぁ」
もうとっくの昔に大学の授業が始まっていた。だから、すぐにあきらめた。
昼から大学へ行こう、と切り替え布団に潜り込む。やわらかい枕に頭を預けて、うすっぺらい布団を頭からかぶる。
頭は寝癖がいくつかついているが、直すには面倒になってしまっていて、全て投げ出し、瞼を閉じる。
聞こえるのは水滴の音だ。一粒、一粒、落ちていく。滴る水に思いをはせる。
透明な粒は私のもとに来る頃には、黒く濁っている。だからこそ、こんな気持ちいい音を奏でるんじゃないかと、ふと思ったりもした。
じめじめした息と、こすれる布に嫌気がさす。
頬を指先でなでると、ほんの少しだけ濡れていた。唇を強くかんだ。
ぎゅっと目をつむった。
事故の時に私の左にいた兄さんのたもとには多くの花が咲いていた。
この花は、おそらく対面の車と接触する前にとっさに咲かせたものだった。
そのおかげかは知らないが兄さんはあばらの骨を何本か折るだけで命を失わずに済んだ。
問題は母さんのほうだった。
何時間も集中治療室にこもり続けた。私達も待ち続けた。
やっと医師が治療室から出てきた時には、一つの命が失われ、一つの小さな命が生まれていた。
次に思い出せるのは、小さな命に指を差し出した時のことだ。
指を差し出すと、小さな命は手を握り返してくれた。弱弱しいその反射反応に私は感動し、「この子、邉の妹になるんだよ」と邉に声をかけた。
透明なケースに手のひらサイズしかない私の妹は、お母さんに似てぱっちりとした目をしていて、透き通るような柔く白い肌をしていた。
しばらく間を置いて、笑い声のような、泣き声を漏らし、必死に四肢を動かした。まるでこの透明なケースの世界で私は収まりきらないといったように、彼女は存在を示していた。
これが『希星』との初めましてだった。
宙を漂うように、次の場面に移る。
そこは私達の何の変哲もない街の姿があった。
私はふわふわと体が浮いているように感じた。そこに私は霊として存在しているのではないかと思うほど不思議な感覚だった。
雲まで飛べるかな、と地面に足をつくと、途端に街全体が見えるところまでジャンプする。そこで一旦止まり、背景が瞬時に変わる。
「まだ、覚えているか?」
兄さんが尋ねていた。
酒の席だった。近くの居酒屋ではなく、たまたま兄さんに付き合い遠出したときのことだと思う。
兄さんは手に黒の革手袋をしていた。そして、傍らには『秘密』とでかでかと書かれた袋が置かれていた。
「ほら、あの日のこと。母さんが死んだ日のこと」
酔っているのか顔が赤い。私の方はというとまだ未成年だったのか、目の前にはオレンジジュースが置かれていた。濃厚なミカン色がする液体をちびちびと飲む。
忘れたよ、そんなこと、なんて言ってはぐらかした。
「俺は覚えてるよ。目の前にトラックが来たこととか、押しつぶされそうになった時お前の力に助けられたこととか、邉の声とか……」
嫌なことを思い出しそうになる。それでもあの時のことを心のどこかでは吐露したがっているのか、口が勝手に開きその話を続けてしまっていた。
「あの時、目の前に猫が通ったんだ。邉が『猫が通る』って言って、父さんが一旦車を止まらせた。
で、次の瞬間、対向車線のトラックがアクセルとブレーキを踏み間違えてこっちにきた」
「なんだ覚えてるじゃないか」
キキィーッと大きな音がしたのはその後のことだ。
もうすでに、何もかも遅かった。
目の前には血と粉々になったガラスがあった。スピードはあんまり出ていなかったから、幸いにも私達兄妹と父さんの命は助かった。
あの事故以来、今でも私達家族は、車に乗るのを避けている。やはりみんなの中ではトラウマになっているようであまり事故の話もしなかった。
例外もいる。邉だけは運転をする。必要なら乗せてくれる。彼にとってはあの時の出来事は辛いことでも何でもないようだった。
この時は酒の席だったからか、兄さんは珍しく事故に関して饒舌だった。
兄さんは続けた。
「あの時もし邉が『止まれ』なんて言わなかったら猫を轢いて、そのまま車は発進して、事故にあったのは俺達の車ではなかったのかもしれない」
「なにそれ」
そんな言い方あんまりだった。まるで邉が母さんを殺したと言っているようだ。
私はそんなことはないと思っている。あれはただ運が悪かったのだ。トラックの運転手はヒューマンエラーで事故を起こし運命的なのかーーそんな運命ならこっちから願い下げだがーー偶然通りがかった猫を見て車を止め、ひどい目にあっただけだ。
運転手も、猫も、邉も責められない。
誰も悪くない。
「もしそうならって話だよ」
兄さんは普段より乱暴な口調で言ってのける。「もしそうなら、俺達の車は猫を轢いていた。そして後ろの車が事故にあっていた」
「誰も悪くない」
「ああ、だけど邉はそう思っちゃいない」
かすかに耳に残る邉の弱弱しい声に私は身を引いてしまう。時折邉はその無口さと無表情さを破り、恐怖にかられた表情を灯すのだ。
『強くなるから』あの冬の日の邉の誓いに、私は背筋を凍らせた。
どんな形でも、と言われると現状の邉の仲介者という立場が怖くなった。
あれが邉の強さなのだろうか。
「邉は、間違っていなかった。誰も間違っていなかった。トラックの運転手も、ただ、ただ、ただ……」
兄さんの声が萎れていく。
誰も責めないことにした私達は、生還したトラック運転手も責めやしなかった。間違いは誰でもあるから、と考えて彼を許した。
「邉は正しかった。猫を轢かなかった。それは俺たちの中でも正しい事柄だった。
それなのに、世間は邉を責めるだろう。ちょっとした間違いを起こした運転手を、俺たち家族は許したのに世間は責めるだろう。
俺は、嫌いなんだ、そういったことが。
だから、俺は悪を丸めて飲み込んでも、そういうやつらに目にもの見せたかった。邉の正しさや、俺たちが許した正しさがまかり通るように、それ以上の悪さをしている悪者にどれだけ悪いことをしているか、身をもって体験させたかった。
運が悪かったんじゃなくって、自分のした悪い行いから巡り巡って、自分に返ってきたのだと、思ってほしいんだ」
「邉が正しいと、言うために?」
ああ、と兄さんは苦笑した。深く恐ろしい暗闇をまとっている兄さんの手が、兄さんの瞳に映っていた。
「それが、俺が法に罰すること、悪になることを選んだ理由」
姉さんは、と背後から声がする。
振り向くと、路地裏に立っていた。暗がりに月明かりがこぼれている。その明かりが照らすのは私の手の赤だった。
足元にはごろんと誰かが転がっている。しんしんと染み渡る温かい血の感触が思い出されるが、邉の手前、苦々しい笑みを浮かべてしまう。
弟には見せたくない光景だった。私の惨めさも見せたくなかった。ぐるんぐるんといろんなものが過った。
「姉さんは、こんなことをしてまで何で俺達をかばうの?」
冷たい声だった。邉の鋭い言葉が心臓に刺さる。刺さった言葉の刃は心臓の血を漏れさせ、鼓動を早くさせる。
「知ってるわけでしょ?
希星や兄さんや、俺の秘密を」
こんなこと実際の邉は言わない。こんな光景、邉には似合わない。血に濡れた日、そこに邉はいなかった。
そもそも邉は他の兄妹が裏で何をやっているか知らないのだ。私が、情報を遮断しているから、決して知りえないはずなのだ。
だから、この邉は幻だ。
端正な邉の顔が苦々しくゆがむ。
「俺にも理由がある」
ぬるぬるした手を強く握る。するとそこに見知った痛みが走った。見えたのは鋭く光った刃先だった。手に傷が作られる。目の前がどんどん真っ赤に染め上げられる。
「俺はさ、あの時いろんな人に殺しをさせたんだ。猫も、あの運転手も、母さんも。俺は間違ってた」
「そんなことない」
そんなはずない。私がそれを否定する。しなくてはいけない。それが私の感情だから、したいのだ。
「違うんだよ。俺のせいなんだ。俺が間違ってたんだよ。この世に生まれた時から、間違ってたんだ。だからみんなに迷惑をかけるんだ。みんな俺が殺しちゃうんだ。そのために強くなろうって決めたんだ」
「邉は十分強いよ」
「強くないよ。きっとまだまだなんだ。まだまだだから俺なんて間違った存在がい続けている」
「間違ってないよ」
邉は返答せずしばらく黙りこみ、そこから語りだした。
「姉さん、俺はさ、自分の汚れたこの身で強くなるにはどうすればいいか考えたんだ。正しくあるには、どうするか。
そうするとさ、まだまだこの世には俺みたいな悪いやつがいるって気づいたんだ。悪に対するには悪を。法に反している俺は、対決することができる。そうすることで俺が誰かの正しさでいられる」
そんなことしなくてもいい。
私は知っている。邉はいつでも正しかった。行動が当たっていたんだ。間違いなど一つとしてない。
私はそれを証明しなければならない。今の邉の行動も、彼の存在全てを示さなければならない。
にかっと白い歯をみせ邉は笑った。私はそれに狼狽えた。でもすぐに邉らしいと思って、笑みを返した。
私の手に飛び散った血はそれでもぬぐえず、乾かずあり続ける。右の手のひらと左の手のひらを重ねてみて、月と明かりと邉に向かい祈った。
どうか彼にこの身の不幸が届きませんように、と。
その場に座り込んでしまった。
座り込むと、目の前に人が通った。次第に辺りが騒がしくなる。そこに放送が鳴り響く。いつもの放送だ。
次の番線がくるだの、電車が遅れているだの、と低い男性の声と、高くなだらかな女性の声が交互に鳴り響く。もうじきこの場所に、電車がくると放送していた。
私は人の群れに圧倒され、勢いよく立ち上がった。
様々な年代の匂いがする。姿形がまるで違っているのに、奇跡的にそこで一緒になった群れの一部として私は立っている。普段こういう場所での私の存在は煙のごとく薄いが、今の私は輪郭がはっきりしていた。
「お姉ちゃん」
妹の声がした。
瞬きをすると、雑踏の中に一人、私と同じく輪郭がはっきりしている存在を見つけた。色が彼女だけ鮮やかで、周囲に花が舞っているようだった。
いろんな人が私の前を通り、視界を遮るのに、彼女の存在を見失うことはないと、不思議と確信していた。
「希星は覚悟してるよ。私が悪者を罰しているんだ。その罰が返ってくることなんて百も承知でやってるんだ」
彼女の口からはっきりした言葉が紡がれる。
そうそう、そういえばこの間こんなことがあったんだ、と突然切り出される。
「このあいだ、駅構内で痴漢の冤罪があったんだ。その冤罪は男の人の人生を狂わせた。痴漢を訴えたのは私と同じくらいの女子高生。その子、にやにや笑ってた。
でも、これまた違う日に、違う男の人がその女子高生を本当に痴漢した」
「どっちもひどい」
「そうかな……女子高生は因果応報だと思わない?
だけど得をするのは、いつだってその女の子なんだ。結果的に女の子が訴訟で勝つし、前半の冤罪を私が証言したってね、警察が事実を捻じ曲げちゃって、そんな証言なんてなくなると思うんだ。
私はどっちのパターンも見てて、男の人も女の子もどっちだって悪く見えて、どっちが正しいかわかるけど法廷で裁判されるときは女の子の細部まで扱わない。裁判での勝ちと私の正解は違ってる」
「警察は思ったより有能だよ? 証言すればよかったのに」
「証言してもそれ相応の罰は与えられないよ。私は私の正しさで動きたいの。私が悪だとした人にすぐに罰を下したいの。虐げられた弱い人のためにね」
ひどく傲慢で、ひどく主観的で、ひどく曲がった理論だった。だが希星はやってのけた。言うより、行動するのほうが早い。そうして彼女自身の正解に純粋に向かっていっただけなのだろう。
その純粋さは間違っていると言えるだろうか。私は、この歪んだ正しさを、間違っていると言って私達と違う基準で判定されることを望むだろうか。
例えば私は希星を許さず邉を罰せられるだろうか。兄さんに間違っていると言えるだろうか。その上で希星に、やめろと言って止められるだろうか。果たして、それが正しいのだろうか。
違う、と考えた。
「お姉ちゃんは?」
希星の目がまっすぐに見つめてきた。
「お姉ちゃんは、どうして悪いことだと知りつつ隠しているの?」
純粋で、物事を曲げられず、そのため本も読まない頑固者が尋ねてきた。
私は彼らを止めなかった。それ以前に、彼らの社会的間違いを曲げなかった。肯定して隠した。
だからこそ兄妹は、お互いがお互いしていることを知らないままだ。知っているのは、私だけ。
そうすることで私は正しくあれた。私達は本当の兄妹でいられたように感じた。
多分根本的に私はこの家族というつながりに甘いのだろう。
いつものどうでもいい日常に過去の暗い景色をひた隠し、明るく振舞うのが好きだったのだ。みんなが好きだった。一緒にいたいと思った。家族でありたいと思った。
正しい、正しくない以前にきっとそういう感情が動いているのだ。
あやふやで奇跡的にかみ合った今だからこそできる、このなんだか分からないつながりに感動し、酔い、毎日を過ごす。そんな日々が愛おしかった。
そのためには、自分の感情すら投げ出したっていい。どう思われたっていい。たとえどれだけ敵を作ろうと、守ろうと決めた。
悪とは社会では法に反すること。正しさとは人に損害をあたえないこと。
でも、私にとっては全ては家族のためにあった。悪とは家族にあだなすことで、正しさとはこの日常だった。
だから、どれだけのことがこの日常の中で起きようと、私はどうでもいい。無関心を決めこみ、人だって殺せる。そのためなら……
瞼を開け、窓から差し込む日差しを浴びる。
――家族のためなら、どんな秘密だって隠してみせる。
隣にある携帯を開けると、目を疑った。
「今日の授業全部終わってる」
仕方ないから、あとで希星とアイスでも買いに行こうかな、とすぐに切り替えて、今日の授業をすっぽかした罪悪感を消し去った。




