ウサギがいない、そんな一日
校庭には大きな水たまりができていた。私は小学校の屋上から水たまりを見下げている。
金網で遮られていて、遊んでる一人一人はよく見えなかったが、快晴を写す水鏡は白い画用紙に塗られた青い空のようにはっきりと見えていた。
金網をしっかりつかむ。
寒い空。
私の頬に当たるマフラーを取った。すると、風が吹きすさんだ。肌に冷たい風が突き刺さる。一層、痛みと悲しみが目に焼き付き心を濁した。
私はこの世界にいてはいけないんだ。
どこかからか罪の意識がでて、視界を狭くした。足がガタガタと震えているのに、しっかりと足は前へ踏み出す。意識がはっきりしている。
校庭の子どもの声が聞こえている。昔ながらのドッチボールをして、ボールを水鏡の上を転がしている。ころころと転がり、水鏡に波紋を広げる。そこから鏡に割れていく。
「ごめん。母さん、父さん」
次の年には、中学校に上がりブレザーを着込む予定だった。でも、私は待てなかった。成熟しきった心が、体が、この汚れた気持ちをいさめた。
こんな汚い意識を持っている。秘密を抱えてしまっていて、その上私は全てを無下にしてしまうほどの愛情を持ってしまっている。それならいっそ全てないものにした方がいい。私はこの身をないものにして、全部守りたい。
男子より少し高くなった背。
焦げ茶色の髪。
お気に入りのスカート。
大好きなピンク色のマフラー。
手にしたマフラーを離した。マフラーは風に乗って校庭に飛ぶ。
分厚いブーツは金網を登るのに邪魔だったから、足から引っこ抜いた。かかとをそろえて、ブーツは金網の傍に置く。靴下だけになった足に、風は容赦なく吹いてくる。まるでこれからすることを反対しているかのように、必死になって風は押しよせる。気にせず金網に手を掛けて、木登りをするがごとく登る。
靴下の上から伝うひんやりとした金網の感触はひとつひとつ覚えている。天国へ登るみたいに私は足を金網に足をかけたのだ。
上に辿り着くと、太陽が頭上だけにあるように思えて少しだけ体を温められた。すっかり晴れた太陽の匂いと冬終わりの寂しい香りが鼻をつく。息を吸う音、吐く音が耳元で鳴り響いていた。
細部にわたるまで伝わる脱力感に苛まれ、私はもうこの先、生きることがないことを思い知らされる。体も心も疲れ果てていた。
金網から、最後の場所となる崖に足を下ろす。背後には先ほど上った金網しかない。吸い付くように足が狭い足場にくっつく。これまで居た場所以上にしっかりとした足場に、では今までの居場所はなんだったのだと怒ってしまいたくなる。
大きな水鏡が目の前にある。
そこに一人、鏡を割った人物がいた。
服を泥まみれにして、水の中に沈む。起き上がって、沈めた相手に向けて、水をかける。抵抗しているがまるで歯が立たない。沈めた相手は、嘲る。その様は、明らかにこれは普通の喧嘩ではないのが分かった。これは立派ないじめだった。
「来るな」
劈く悲鳴染みた叫びは、聞きなれた声だった。
「邉」
私は呟いていた。
息を飲んだ。空っぽの体の中に水が含まれていて、喉を潤す。脱力感が嘘のように吹き飛ぶ。目の前の景色に意識を集中していく。金網がなく視野があけたここは誰が何をしているかはっきり分かった。
邉に群がるのは三人の男の子だった。この三人は私と同学年で、その中の一人は、大きな体をしていて、クラスの中でもガキ大将とされて教師も手を付けられない暴力男児だった。ガキ大将は、邉に向けて胸倉をつかみ、片方の手で殴る。
そこへ水たまりに沈んだ邉に、先ほど私が手を離したマフラーがひらりと枯葉が舞うがごとく降り落ちた。私はとっさに、邉の隣ににょきっと花を咲かせた。小さな青色の花弁は邉に寄り添うように咲き誇り、ガキ大将の目を花に逸らす。
でも、邉はガキ大将でも、マフラーでも、傍らの花でもなく私をじっと見つめていた。その表情には出さないが、見られたことへの羞恥だったり、助けられた屈辱だったり……悲哀だったりが感じられた。
私を見て、暴力のさなかにおかれた邉は私を見て、目を潤ませた。
「お姉ちゃん、なんでそんなところに」
邉の口から漏れ出る言葉が目に映る。
その前に、
「邉、今行くから」
大声で叫んだ。
校庭をぶった切る声。
瞬時に咲かせた大量の花。
さざめく水たまり。
私は金網を必死に上り、ブーツを急いで履いて、校庭まで駆けた。
水を吸った土を蹴り出し、ブーツに染みつく。服に土が飛ぶ。
あちらは男子三人、こちらは私と邉で二人。どうしても女子一人と低学年一人では相手にならないが、それでもよかった。私は邉の元へ、負けるのが確定した試合を申し込みに行こうとした。
ただ、試合を申し込んだのは私ではなくて、兄さんだった。
私が駆けつけた時には兄さんがもうそこに居て、ガキ大将に殴りかかっていた。他の群れていた奴らは既にそこには居なかった。兄さんは二度、三度ガキ大将の顔を殴ると、これまで見たことがないような怖い顔をして、ガキ大将を怒鳴りつける。
「弟に次何かしようとしたら俺が殺してやる」
そんな怖い経験をしておきながら、ガキ大将はまだ笑っていた。そんなことできるはずないだろ、とでも言いたげに、にやにやといやらしい。
兄さんはもう一度殴り、水たまりにガキ大将を投げ捨てた。
私は甘いなあ、と思いながらも、水たまりに私は足を浸し、ガキ大将に近づいた。手持ちのバンドエイドを渡す。ガキ大将はまだ余裕そうな顔で私を見上げている。
「なんなんだよ、明日川」
ガキ大将が嬉しそうに、だが少し気味悪そうに私のバンドエイドを荒々しく受け取る。敵に塩を送られているのに、何も気づいていない。
「これは前払いだよ」
「だから、なんなんだ」
「さっきの私の力見た? 実はあれだけじゃないんだ。毒を作ることができる。あなたの体内にだって生成して、入れることだって出来る。簡単に、ね。だから前払い」
まだ何言っているのか分からない表情をしていた。
「しょうがないなあ。説明して上げる。こう言ってるんだよ。あなたのお腹の中に毒を潜ませたから、今度私の弟をいじめたらその毒がお腹の中を循環するスイッチを押すから、その時の前払いとして、このバンドエイド」
にっこりと私は微笑んだ。私の笑顔を三秒見て、ようやくガキ大将は理解したのか顔面を蒼白にさせて立ち上がった。すぐさま私の前からすたこらさっさと逃げていく。
当然嘘だ。
私の『ウサギ』はそんなに強くない。せいぜいが、花を咲かせる程度だ。毒なんて生成できない。そもそもウサギはそんなに強い力はない。
一息つき、私は邉の方へ振り返った。そして、たまらなくなって、抱き着いた。
邉はウサギがなかった。力がなく、その上、見た目が眉目秀麗で周囲の嫉妬も重なる。知らず知らずのうちに敵を作り、知らないところでいじめられることも多々あった。私達兄妹はこの時まで、邉がいじめられているとは知らなかった。
「ごめんね、邉。気づいてあげられなくって」
花の香りがする、と邉の声が聞こえた気がした。
しかし、気にならなかった。その時は邉が無事でよかった、とだけ心底思っていた。
「「ごめん」」と、今度は私と邉の声が重なる。
邉は謝らなくてもいいのに、それでも邉の声が耳元でこだまする。
「違うんだ」と何度となく言って、「違うんだよ、お兄ちゃん、お姉ちゃん」と言葉が響く。
「知らなかったのは僕だったんだ」
邉が私の体に抱き着く。ぎゅっと手を離さないように、しっかりと掴んだ。
「僕の方が知らなかったんだ。僕が弱かったから、弱いから」
邉の声が弱弱しくなる。
「ごめん、ごめん。姉ちゃん」
弱弱しく宣言する。
「俺、強くなるから」
「いろいろあったね」
なんて、夜の食卓で邉が帰るのを待ちながら私と兄さんは話していた。
私が小学生のあの頃、兄さんは大学入りたての頃について話が盛り上がっていた。あの頃は兄さんぐれてたね、兄さんの髪色は金髪だったね、と散々兄さんをいじくりまわして邉の話になった。もちろん、私があの時屋上に何しに行ったかは内緒にしている。
今日の夜ご飯は無難にカレーだ。
希星が思い出話に飽き飽きしているのか、カレーを集中している。私達二人は邉が帰るまで待つつもりだ。別に今食べてもいいのだけど、それでは邉が一人で食べることになる。誰かが後で一人で食べるのが私は嫌いだ。特に邉となれば、私はしつこく一人で食べさせないようにしていた。その行為に兄さんは乗っかっている状態だ。
「覚えてるか? 染香が『ウサギ』を使ったこと。あの時はさあ、ひどかったよ。お前の力節操ないから、校庭中が青い花で埋め尽くされちゃって」
「覚えてないよ、そんな細かい事」
実は覚えている。
「その後、俺が謝りまくったこととか」
「兄さんが暴力振るうからでしょ。私みたいに脅しに留まっていれば、あっちの親に謝らずにすんだんだから」
希星のカレーを食べていた口が止まり、口を挟んだ。
「兄さんが暴力ふるうの、珍しいね」
私は散々見ているけど、なんて言えない。そこまで兄さんは聖人ではない。希星の中の兄さんのヒーロー像を崩すことはしない。それはあまりにも可哀そうだ。
「ま、まあ人にはそれぞれ理由があるんだよ。あ、あの時は通り掛けに邉がいじめられたところをたまたま見て、ついかっとなって殴っちゃったんだよ。もちろん、暴力はいけない行為だからな、希星」
「そう言えば邉兄ちゃんの暴力も見たことないなあ」焦った兄さんなど露知らず希星がカレーをまた口に含む。
「邉が暴力?」私は少しだけ驚いて聞き返した。
そう言えば私も邉が自身の拳で誰かを傷つけるところを見たことがなかった。男子たるもの、そういうものが一つあってもいいものだが、邉の場合、女性の方の人間関係が濃い気がするからないのか、全く聞かない。あったとしても、あの優男の体形からだと…
「あの細い腕で喧嘩勝てるとは思えないけどね」
希星がカレーを口に運びつつ、私が思っていたことを付け足す。
「邉は俺なんかより何千倍も優しいんだよ」兄さんが私と同様に邉のことを思い出しているようだった。「車に轢かれた猫を何度となく埋めているのを見たことあるし、それに一回ウサギを拾ってきたことがあっただろう」
「あっ、あったね、そんなこと」
思い出して感動したのか、兄さんに私の声が少しだけ重なっていた。
私は頭の片隅にあった思い出を開く。
邉は能力の方のウサギではなく、動物の方のウサギを拾ってきたことがあった。
どこから拾って来たか知らないが、ひどく傷ついていて、既に虫の息のウサギだった。飼う以前にもう助からないと分かっていたが邉は諦めなかった。家に持ってきて看病をして、折れた足や抉れた腹を病院にいきなんとか必死に生きながらえるようにしてやった。それから邉は学校も行かず毎日家でウサギを看てやった。惜しくも数日後にはウサギは息を引き取ったが、ウサギは気持ちよさそうに目を閉じていた。
「なんかずっと後悔してるみたいでさ。もしあの時生きながらえさせなかったら最初の時点で死んで楽だっただろうにって。看ないほうが良かったのかもしれないって。真面目で優し過ぎて、笑えるだろう」兄さんが苦笑する。
「邉らしいね」と私は微笑んだ。
ドアが開く音が背後からした。邉が帰って来たらしい。不機嫌そうな声で「ただいま」と声がする。
「兄さん、姉さん、何の話をしてたんだ? 外まで笑い声が聞こえてたよ」
玄関から邉の声が響く。
これはしっけい、と兄さんは悪びれる様子もなく謝った。
「おかわりっ!」
希星がカレーの器を上げる。