雨の日の台風ごっこ
ポストを見ると、一通のハガキが入っていた。私はそれを取り出す。
『こっちは元気でやってるぞ 明日川順一』
裏面には山の写真と素っ気ないコメントが添えてあった。
こんなことしなくても、携帯でいつでも連絡を取りあうことができる。父さんはこの山に観光したのが余程気に入ったのかもしれない。
父さんはお茶目な一面があった。昔は女遊びをしていたことも、母さんが怒ったことも、しばしば見受けられた。酷いときはご飯全てに隠し味と称され、いろんなものを入れられた。歯ブラシ味の味噌汁に、お砂糖多めの鯖、しょっぱい卵焼き、そんな具材でお弁当を彩りもたせ、持って行かせた。
時がたって、邉に料理をさせてみたら、そうした母さんのレシピを頭がスキャンされていて、悲惨なものしか作り出せなくなっていた。だから、邉のご飯はいつも不味い。本人には言わないが、笑顔でゴミ箱に捨てるほどだ。
しかし、そんな料理であっても父さんは残さず食べていた。塩コショウが大量に振られたご飯を口にし、表情を一ミリたりとも動かさず頬張っていた。
父さんが単身赴任して数年経つ。こうして時々ハガキを出して、私達を楽しませようとするが、機械に慣れた私達は夜にするRINEの家族チャットの方が楽しかったりする。だから、このハガキは有難迷惑だ……なんてこと、言えるわけがない。
私達兄妹は嘘つきで何かと隠したがる。
私もそこにもちろん含まれる。
ハガキを曇った空に翳す。何か見えてこないか、と思ったが太陽も出てない今では、翳したってなにも出てこないに決まっている。
と、その直後雨がぽつりとハガキに当たった。ハガキに水滴の重みが圧し掛かり、思わず私はハガキを引っ込め、濡れた箇所を指先で拭った。まだ小さな雨粒だったらしく、そんなに気にならない。
ぼとり、と次に私の脳天に雨粒が当たる。昨日で降り終わったはずの雨が勢いを殺さず降ってきたのが分かった。
いけない、と思いすぐに家に入る。
家には帰って来たらしい妹の希星が居間にいた。帰りに買ったらしいアイスをスプーンにすくい、目を細め口に運ぶ。白い滑らかなバニラがとろけて、垂れそうなところをぱくんと口で塞ぎ、希星はごくりと飲んだ。
「おいしぃ」呟きからも、彼女の嬉しさが漏れ出ている。
私は自身の体に降って来た水滴を払いのけ、私の姿に気づいてないらしい妹の前に座る。机の上にハガキを投げ捨てた。
「まるでとれたての牛乳から搾り取ったような濃厚さ。これを口に入れると極楽浄土に行けるような幸せさ。うううん、さいこうっしょや」
「そーか、そーか」にやにやと妹の幸せそうな顔を見る。
やはり妹は可愛いものである。例えるなら愛玩具と言ったところだ。
「その天国に行けるバニラアイスを姉さんにも分けてくれない? 買い食いしてるの兄さんに言わないからさ」
「あーげないっ! 天国じゃなくて極楽浄土ね」
そこで、ぴたりと、希星は動きを止めた。
「……って、お姉ちゃんなんで此処にいんの!? 外に散歩しに行ったんじゃなかったの」
「雨が降って来てねー」
一軒家に雨の重低音が降りそそぐ。
雨漏りはしないはずだ。母さんがいた頃にあったあの雨漏り戦争は、ずっと前に父さんが修繕してくれた。
「とりあえず、兄ちゃんには言わないで」
「こんなことで慎助兄さんが希星が怒られているところ見たことないけどね」
「慎助兄さんじゃなくて、邉兄ちゃんの方」
邉が? と訝しむ。
私にとって弟の邉は叱ることもしなければ、人当たりもいい、弟だった。人『あたり』だけに、だ。むしろ、優し過ぎて顔が整っている弟を何度紹介してくださいとせがまれたか分からない。
「お姉ちゃんは知らないけどね、兄ちゃんは結構怖いよ。目で威嚇してくんだ、こんな風に」
希星が両手の人差し指で、目の端を吊り上げる。おまけに唇を突き出した。その顔は変顔としか捉えられなくて、堪えきれず、鼻から笑いを吐いてしまう。
「お姉ちゃん? 笑うなんてひどくない」と、希星が目を剝いたので、もう一度笑わないためにも、そっぽを向く。
雨やまないかなあ、と雨音に耳を澄ませる。
今日、本当は散歩と称して邉のバイトを覗き見る予定だった。探偵のバイトもかねて邉を見るため、目立つ傘ではいきたくない。濡れていくのは嫌だ。今日は家で過ごすしかない。
ぴちゃん、と音が鳴り響いて、かつて此処で起こった雨漏り戦争のことを思い出す。大粒の雨が家にまで降ってきていた。この家も古いからね、と母さんは笑っていたけれど、そこまで古くはない、と父さんは不満をたれていた。
「お父さん、またハガキ送ってきたんだね」
雨粒に希星の声が混じる。
希星を見ると、知らないうちにハガキを手に持っていた。気配も感じず、自然と希望の手におさまっている。前より一層手癖が悪くなっていた。
「ね、ハガキ送らないでいいのにね」と私は投げかけた。
「そうだねー。ていうか、RINEで、どこ行ったか知れるしね」
「何で送ってくんだろう」
希星が机に体を放り出し、だらけだす。ハガキを見つめる。ハガキは旧時代的で、今は廃れた文化のはずだ。そんな文化を続ける父さんも父さんだ。
「何言ってんの?」ふてくされた希星の声が雨粒を超えて響く。「お姉ちゃんがハガキの原因じゃん」
「そうだっけ?」
「そうだよ。ほら、あの台風の日にさ、言ってたじゃん」
台風と言われたら思い出すのは、あのひどい台風の時のことしか思い出せなかった。
情勢があーだこーだとわめき散らすそんなありきたりな日だった。テレビでは連日不思議な力『ウサギ』の特集が組まれ、これが隣の国の横暴な政治の牽制になっていると得意げに専門家が喚き散らしている。
そのテレビをぼんやりと見て、頬杖をつく。そろそろ学校行かないと、とぬらりくらりと動き出して、電源を切り、高校指定のブルーの鞄を持つ。
「お姉ちゃんおっさきー」と希星が珍しい赤色のランドセルを背負って私の横を走り抜ける。
「いってきます」と邉が小さく告げ、ドアを開ける。
「染香先行ってるから、ちゃんと行けよ」と兄がいかした茶髪を揺らし、ドアを閉める。
雨足が激しい。ドアを開けたら暴風にまぎれて雨が玄関に流れ込んできていた。それなのに、外に出るのは億劫で、ついには動けなくなった。面倒で堪らない。
台風が来ていると言うのに、街には避難勧告も暴風警報も来ていない。全く何を考えて勧告をだしているのだろうか。これでは学校へ行ってしまうではないか。あの面倒な学校に行かせるのか。
「やっぱ、やーめたっ!」
誰も居なくなった家を見渡し、もう行く気力がなくなった。
バイトから持ちだした仕事もあるし、そっちに専念しよう。どうせ、こんな日に学校へ行く奴なんかいないに決まっている。と、考えた結果、鞄を放り投げ、片足だけはいていたローファーを脱ぎ捨てた。
さて、何しようかなと玄関へ足を着いた時、がちゃっとドアが開いた。
私がサボろうとしたことが、ばれた……?
恐る恐る振り向くと、希星が目から大量の雨を流していた。腕には骨が折れた傘が抱かれている。
「お姉ちゃん、折れたぁ折れたぁ」
言うたびに、泣き出す希星に、私は駆け寄り、よしよしと撫でた。ほんのり茶色が入ったずぶ濡れの髪はここまで雨を受けながら帰って来たのだと分かる。
「待ってて、今タオル持ってくるから。ほら泣かない」
ポケットにしまっていたハンカチを取り出して、希星の涙を拭ってやり、すぐにタオルを取りに行く。
「お姉ちゃん、兄ちゃん帰って来たよー」
タオルを取りに行って玄関に帰って来た時、ドアが再び開けられる。そっと静かに入ってきた姿に胸が小さな脈をうった。
薄茶髪に鼻筋の整った、目鼻立ちがくっきりした顔に、雨が染み込んだ服を着こんだ邉がそこに佇んでいて、捨てられた子犬のような純粋な目をして見つめてくる。
その姿に思わず取って来た一枚だけのタオルを邉に投げた。
「希星のタオルゥゥゥゥ」
「わああああ、ごめん希星」
のっそりとタオルの隙間から邉の双眼が覗く。
「姉さん?」
希星と私はタオルを被った邉の姿に言葉を失った。水も滴る何とやらは、タオルで顔が隠れていて、見えない。タオルで隠れた顔は黒く、しかし暗闇からは二つのまなざしが鈍く光って見えて、恐怖をひきたてた。
希星と二人で悲鳴に似た叫び声を上げる。
「二人とも、何で、そんなに……」
にゅっと、手が伸びる。そのあと邉の背後から家に近づく大きな足音が聞こえた。その音は柳の木の傍で出る白衣の女の幽霊のようで、背筋を凍り付かせる。ちかちかと玄関の灯りが、不安定については消えを繰り返す。
希星は、泣くのを通り越して、固まってしまった。
刹那、
「やっべーー」
兄さんがドアを大きな音をたてて、開いた。
私はくるりとその場で一回転して、勢いをつけ、
「台風……」
兄さんの方へ飛び蹴りし、
「あたーっく」
クリーンヒットして、兄さんは蹲まった。
「なん、で……」
「おかえり兄さん」と傍らで邉がタオルで髪を拭きつつ、ほがらかに言った。
先ほどの恐怖が嘘のように希星がからからと笑う。泣いていたのがころっと変わり、「台風、台風」と言いながら、くるくるその場で回る。
その時、都合よく父さんが帰ってきて、楽しそうだなと何があったのかしきりに聞きたがっていた。
台風があったある日の朝のことだった。台風といわれると今でも思い出す。あの時の希星の泣き声や、笑い声、邉の水の滴る何とやらで眼福を得て、兄さんで記憶が消去された後、父さんが電車が動いてなくて仕事に行けず有給をとったのだ。
あの日は騒々しかった。
「あの時、お姉ちゃん父さんに言ったんだよ。『こんな暴風とか災害で死んだら嫌だから、家族が離れ離れになっても、伝え合うものがあったらいいな』って。それ聞いた父さんが、遠くに行ったらハガキだすよって、言ったんだよ」
希星がハガキでぺらぺらと仰ぎながら言った。
「そんなくさいこと言った覚えないんだけど」
「言ったよ。私、覚えてんもん」
早く話題がそれてほしかった。正直私が言った覚えのないことを話されるのは恥ずかしかった。それに、私が分かった風にくさい台詞を吐くなんて、思いたくもない。
「ただいま」
と、兄さんの声が玄関から聞こえた。
「あっ、帰って来た。じゃあ、お姉ちゃんアイスのこと黙っててね」
いつのまにかアイスのカップはゴミ箱にしまわれていた。ハガキは元の位置に戻されて、希星が玄関に走り出す。肩までの小さなおさげがふわっと揺れた。
ほんの少し思い出す。
あの雨の日、タオルで髪を拭き終わった後、希星の髪先が跳ねてしまったので、私がおさげを編み込んであげたのだ。今はあの頃より短い髪の毛だけど、希望はあの時と変わらず、髪を二つにして下に垂らしている。
ハガキを折り曲げる。
もう伝わらなくていい。いつだって、繋がっている。
「私達には必要ないよ」
誰にともなしに教えてあげた。