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嘘つき四つウサギ  作者: 千羽稲穂
第一章 兄ウサギ
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兄ウサギの秘密

 あの日、兄さんに何でこんなことをしているの、と尋ねたがはぐらかされた。兄さんが私を思って、巻き込みたくなくて、その返答があの沈黙に繋がっていることを知っていた。どれほど兄さんが私達家族のことを思っているかも、実は分かっていた。


 だから、兄さんはどうしようもない人物なのだ。


 兄さんは昔からそうだった。私が高校生だった頃は、家族の誰よりも早く起きて父さんと一緒に朝食と弁当を作った。そして朝が弱い私を父と一緒になって起こして、一緒に登校してくれた。当時兄さんは大学生で、一限目から授業がなくても私に付き合って途中まで一緒の道のりを歩んだ。

 

 冬の日、私の三歩後ろで歩く兄の姿がまだ私の中には残っている。兄はそうやっていつもついてきてくれた。兄と別れる道になると、私は後ろを振り返らずに早歩きで兄の元から去っていった。


 もっとも私は別についてこなくっていいのに、と当時は気恥ずかしくて、誰にも見られないように遅刻ギリギリで登校していたのだけども。


 だから、弟妹が兄さんにとってどれほど大事なのか私は知っているのだ。


 今日の朝食もそういった兄のどうしようもない部分が映し出されていた。兄はどうしようもなく大事にしているから、弟の邉が「手伝うよ」と言い出して、朝食を作るのを止めなかったのだ。兄はそう言った兄妹の主張を遮ることは決してしない。


 誰かの世話をすることが好きで心優しい。だが優し過ぎて、時折過保護。


 それが私達四兄弟姉妹の長男、明日川あすかわ慎助しんすけという人物だった。


 そんな頼られるばかりしていて、世話焼きな兄さんが一度だけ私に頼ってきたことがあった。


 高校に入って、一年ほどした時だ。その頃私はようやく『探偵事務所』と言うバイトに慣れて来た頃合いで、心にも余裕が出来ていた。暫く寝られない夜が続いていたのが、この夜はぐっすりと眠れて、悪夢も見ずにいた。


染香せんか、染香」と私を起こす小さな声が聞こえた。


 うっすらと瞼を開けると、そこにはすっかり髪を染めて薄茶髪になった兄の姿があった。


「どう、したの?」眠すぎて私の声はとぎれとぎれになった。

「染香、頼みがあるんだ」

「頼み?」

「俺に情報を売ってくれ」


 その一言で布団を剥ぎ、私は飛び起きた。


 兄さんの頼みはこれが初めてのことだった。なにより頼りになる兄が、私を頼るなんて珍しいことだったから心底驚いた。


 兄さんは死にゆくウサギのようにか細い声で、

「助けてくれ」

 と言った。


 私は自身の驚愕を悟られると、兄に弱みを握られるかもしれないと思い、なんとかお得意のポーカーフェイスを作った。兄さんはそれを見て、バレていたんだって、苦笑した。


「お前には敵わないなあ」


 兄さんは、私の気なんか知らずに、一人で話を進めていった。


 夜に起こしたのはそれなりに込み入ったことだったからだ。情報を何に使うか、兄さんは覚悟を決めた目で私をじっと見つめた。力強い光が灯る目を見て、社会的にやってはいけないことでも、兄さんのためにはならないことでも、私は協力したくなった。

 だから、何も言わず許し、頷いた。


 この瞬間、私と兄さんは共犯者になった。


 兄さんは心底安心した顔を見せた。そこに間髪入れず、私は一つだけ提案した。兄さんに情報をあげる、その代わりに、

「何に使うか見せてよ」

 交換条件をだした。

 その時ぴんと立った人差し指が、兄さんに銃口を向けるがごとく伸びていたことを今でも覚えている。



 次の日の夜。みんな寝静まった頃合いに、私と兄さんは外に出た。

 寒い季節で、マフラーに顔をうずめて、寒いなあ、なんて当たり前のことを呟いた。時間がないのに、兄さんと二人でしばらく歩いていた。


 朝の登校とは違って、兄さんは私の隣にいる。距離が近くなって恥ずかしくなる。どうにかこの恥ずかしさを抑えようと空を見上げるようにした。兄さんも恥ずかしいのかそっぽを向いて、星が見えない空を見上げた。


 空に星を見たことはなかった。今も、昔も、あるのはぽっかりと空いた黒い穴みたいな空だけだ。昔は見えたはずの星が何故かこの時は恋しくなった。地上と空が逆転し、その空にあいた穴に落ちる私達共犯者が愚かに見えて、悲しくなった。


 暫くして、私は用意していた茶色い封筒を兄さんに渡した。


 手袋をした手で渡したせいか封筒の重さに実感を持てなかった。私の罪の意識が、全くと言っていい程ない。私は自身が兄さんに更なる黒い罪を着せることになんの感情も抱いていない。もう既に罪の意識なんか麻痺していたのかもしれない。


 兄さんの表情は晴れなかった。私は普通の顔をしているのに、兄さんは陰鬱としたもので、今にも泣きだしそうだった。


 ぷはぁと口から白い霧を漏らして、私はふふふと笑った。兄さんのあまりにもおかしな顔に、私は笑ってあげた。肩を震わせて、なんでそんな顔してんだろって、腹を抱えた。


「あー、おっかしぃや」


 兄さんはたじろぎ、同じように噴き出した。

 あはははって私達の声が重なる。

 深夜の街に私達の声が響く。


 こうして、私は兄の秘密を知ったんだ。



「兄さんはさ、なんでこんなことしてんのぉ?」


 私は兄さんに尋ねた。兄さんは黒い皮手袋をし、手際よく人の家の鍵をこじ開けている。その背後に私は控えていた。カギの横にはカードを差し込む平べったい差し込み口がある。見たところ兄さん一人では決して開けられない扉だった。


「泥棒」または、空き巣「なんてさ」


 その人の家には人の気配がない。外出中なんだろう。兄さんはその隙を突いて、この家に目星をつけたのかもしれない。


 鍵を開けると、今度は私が渡した封筒から、カードをとりだして、鍵の横にある平べったい穴に差し込んだ。簡単に解除された音が鳴る。


 家の周りには誰もいない。誰にも目につかない、鮮やかな手口だった。


 慣れた素振りで、兄さんはドアノブに手を伸ばす。


 その時、視界の端にちらちらと白い綿毛のような何かが映る。私は兄さんから、空へと視界を移した。空の大きな穴から白い綿胞子が降ってきていた。ちらちらとそれは落ちていき、私の頬を撫でていく。口からほうっと息を吐き、空気を温め、手袋に白い綿を乗せた。すると白い綿は手袋に吸い込まれ消えていく。


「雪だよ、兄さん」


 ドアノブを回し、扉を開けた。

 そのあと、ずっと兄さんは一度も私に口を聞かず、振り返らなかった。



 それはずっと前の昔話。



 今朝渡した封筒を思い出す。


「はい、頼まれていた人の情報」


 希星が家を飛び出た後、兄さんにあれからずっと続いている共犯者関係のものを渡した。


「凄いね。この人、市議会議員だなんて。目片さんだっけ。裏で女遊びが酷い人。あげく奥さんに逃げられて、愛人の家に入り浸り」


 なんで、こんなことしているの? とあの日私は兄さんに問いかけた。兄さんは明確には答えてくれなかったけれど、ここ数年の傾向で、行動の理由は分かってしまっていた。

 

 あの日、兄さんが欲しがった家主は痴漢の冤罪をふっかける悪い女の家だった。そして、今回欲しがった市議会議員の情報は同じぐらいあくどいやつのものだ。


 これだけでも分かる。その上、長年一つ屋根の下で一緒に住んでいる私には兄さんの思っていることが事細かに言えると断言できるぐらい、兄さんは分かりやすい。


「今日、やるんだね」


 私は朝食の残飯をゴミ箱に入れながら、兄さんの方をちらりと一瞥する。

 空になったコップの中身を、新聞を読みつつ兄さんは口に運ぶ。


 別に兄さんは、それをして生計を立てているわけでもない。きっちりと公務員をしていて、私達、弟や妹を養うだけの費用はたくさんあった。でもそれでもやるのは、きっと……


「お前は来るなよ、染香」


 今でも突き放す兄さんにまた笑ってしまう。

 もう引き返せないのに、兄さんはまだ気を使っていた。




 夜、空はあの日と同じようにやっぱり穴が空いているようにしか見えなかった。星が上がっていても今は光らないでほしい、とあの頃と違ってとても身勝手なことを思ってしまう。


 今はいいんだ。私にはこの覆いつくすような闇が必要だ。血に染まった自身の手を、兄さんの秘密を隠すそんな闇を、私は欲しがっている。家の前で待つ私や、今『泥棒さん』をしている兄さんには闇の方が心地よいに違いない。

 必死に闇に縋りつく私を、きっと神様は無様だと言って見放すだろう。私はとっくの昔にこの空の光を見放した。神を捨てた。私には私を待っていてくれる家族がいてくれるならそれだけでいい。


 ぽつん、と私を叱るがごとく何かが頭に当たった。それは次第に多くなり、手に持っていた傘を開ける。大きな音を立てて開かれた傘に神様のお叱りを払いのけた。


 冷たい雨の音を聞く。


 ぽつん、ぽつん、と傘越しに規則正しく落ちてくるものを自然と耳から遠のかせる。私に降りかからないように、家族に降りかからないように心が逃げていく。


「染香」


 その時静寂を払いのけるように兄さんの声が鼓膜を揺らした。傘を上げると、雨に濡れながら兄さんが立っていた。服が肌に張り付いている。手には黒い手袋をしたままだった。しっかりと札束が入った鞄は握られている。


 その表情が無情にも、ぽっかりと何か見失ったような哀れなウサギのように見えた。兄さんはそこそこイケメンなのに、その表情で台無しだった。水も滴る優男よりも哀れなウサギだ。


「待ってたのか」兄さんの柔らかい声が私に伝わる。

「うん」


 傘を兄さんに差しかけてやる。


「ねぇ、兄さん」


 玄関の灯りが反応して橙に色を灯した。


 兄さんはあの時と同じように、私には振り向かない。兄さんは自分では上手く隠せているように見せているが全くそんなことはない。


「なんで、こんなことしてるの?」


 尋ねれば、玄関の灯りがちかちかとついたり消えたりを繰り返した。

 ふふふと私は笑い。ほら、やっぱりどうしようもないやつなんだよね、と心の中で納得する。


 兄さんがそんなことをするのはきっと……

「悪者退治なんでしょ」


 意地悪にも指摘すると、兄さんは恥ずかしそうに俯き、噴き出した。満面の笑みを見せた。


「お前には敵わないなあ」


 橙の灯りがしっかりと点った。

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