金髪の女性
濁り光る拳に付着した血液を払う。拳は痛み出し、腕の皮膚はひきつる。次第に体の中のほてりが覚めていく。先ほどまで研ぎ澄まされた痛みや暴力を押しのけて、俺の脳内は昇華していった。上へ上へと、視点は移り、握ったままであったクズを手放す。
体の硬直が解けていく。俺の許せない想いもほどけつつある。周囲のうめき声すらも心地よくなってくる。ちかちかと工場内の電灯が一瞬消え、一瞬で点く。不安定ながらも灯りは点こうとする。俺の中の痛みもそれに伴って、不安定な波形を続ける。
「許してくれ」
その言葉に、落ち着きつつあった煮えたぎる怒りがぶり返す。勢いをそのままに、俺の足元に転がったクズをみぞおちめがけて蹴る。すると、またクズの口が開かれる。赤い舌が垣間見え、背筋が冷える。体に空気を入れようとしているのか。だが、俺はそれすら許せず、クズの顔を踏みつける。クズは俺の足を掴み弱弱しく掻きむしっていた。
地面へ体重を足に預ける。骨が砕けるような音ばかりが鳴り響く。クズの血だらけの顔は工場の床と一体と化していた。何の感慨も抱かない。憤りだけが、残り続けている。
すると、糸が切れたように、クズから力が抜けた。俺は足をのけると、クズは小さく呼吸をしつつ、動かなくなっていた。意識が飛んだのだろう。
膨らんだトマトのように腫れた顔へ向けて唾を吐きかけた。足元にはクズばかりだった。のびているか、うめいているかのどちらかで立ち上がりさえしない。静かな呼吸をひとつついて、工場内の惨状を鑑みる。
誰も俺の前にはいない。
ギャングだと自称していた集団の拠点は壊滅状態だ。釘の刺さった旧時代石器みたいな武器を振りかざしていたやつも、俺の体の自由を奪い、集団で殴りかかろうとしていたやつらも、俺の暴力でとっくの昔に夢の国へ旅立った。その間も、ずっと照明は消えて、点いてと、不安定に世界を映し出す。
俺はこういった不安定な世界は慣れていたが、こいつらにとっては、苦手な状態だっただろう。そう思えば自然と口の端から笑みがこぼれ落ちてしまう。ざまぁみろ、とけったくそ悪い吐き台詞をおみまいしてやる。
「少年、そんなことをして寂しくないか」
電気がはっきりと灯った。俺はうつむきがちにしていた顔を瞬時にあげる。
「君はなぜ暴力をふるうんだ」
その人は工場の暗闇からやってきて、クズと血にまみれる地面を臆面もなく踏み歩く。さらりとした金色の長髪が靡く。金色の糸が暗がりの中際立つ。
俺は一歩、背後に引いた。途端に血で濡れた地面に滑ってしまう。目の端で輝く、その言葉と、不測の事態に心臓が縮みこむ。
俺の手首が握られる。
「やめな」
体を引き上げられ、俺はその人を真正面から見てしまう。薄茶色のくるくるっとした丸い瞳。軽くウェーブした髪は金色の輝いていて、髪の毛一本一本が幻想的にカーブを描く。俺よりも一回り小さい背丈に一番目の妹を彷彿とさせる。
工場内のほの暗さに後押され、視線は金色へ一点集中する。見つめても見つめても飽き足らない、彼女の容姿に胸の鼓動ばかりが早くなり、何も言えなかった。
「……そう」
彼女の双眸に影が差す。沈んだ顔に胸に刃を突き立てられたように感じてしまった。その時点で自分は負けたんだと、心の奥の方で悟ってしまった。
きらりと金色の糸が目の前を舞う。一本一本の糸を辿ると、瞳の奥がこそばゆくなった。
彼女は俺から体をそむけた。工場から去ろうとしていた。俺は彼女の行動を辿ってしまい、手を伸ばす。しかし、その端さえつかめない。彼女は俺の視線も手も逃れて、俺の前から消えてしまいそうだ。死屍累々を飛び越えて、彼女の後を追った。見落とさないように金色の破片を拾い集める。視界に金色を収めて、追いかけた。
「待ってくれ」
工場の外。もうすっかり辺りも寝静まった夜の暗闇。その荒れ地の中で、彼女を振り向かせる。ようやく届いた、彼女の手は、金の鉱物を触れていることを彷彿とさせるほどに冷たかった。
「あんたは、なんなんだ」
ゆらりと彼女の姿が揺れる。
「何者でもないよ」
「そうじゃない。そうだけど、そうじゃないんだ」
言葉に詰まってしまう。近くで流れている川のせせらぎや草が風で踊らされている音がする。鼓動がその中を大きく突き抜けていく。
「あんた、なんでさっきあんなことを言ったんだ」
そして、なんで俺はなんであの言葉でこんなに胸が騒がしくなっているのだ。血みどろの中で何も聞こえず感覚を失っていた、あの心地よい気持ちを打ち破ってしまうほどの威力を彼女は秘めている。
すると、ふんわり彼女は笑った。澄み切った瞳が俺の姿を反射している。瞳の鏡越しに見える俺はひどくたじろいでいた。焦げ茶色のもともとの地毛が逆立ち、表情が苦しそうに歪む。
彼女の金髪の色合いを見るほどに、現実感を見失う。もともと日常を拒む場所にいたのに、今では彼女に暴力を見られていたことが情けなくなる。彼女から手を放して、拳を握りしめる。眼光をまっすぐに彼女へ差し込む。
彼女は言った。
「別に昔君みたいなことをしていた人のことを思い出しただけ」
でも、そうね、と彼女は何かを納得したように頷くと、手をちょいちょいと振った。こっちへおいでとその手は告げていた。小さな子どもをたしなめているかのようで、眉間にしわがよってしまう。
知らず知らずのうちに彼女のペースに乗せられている。それでも、そういう風にペースに乗せられるのは、慣れていたし、彼女ならそれでいいかとも思ってしまった。
彼女が歩き出すその歩幅に合わせて、一歩後ろから彼女についていった。夜の街の匂いと彼女の匂いを一身に受ける。夜の中で燦燦と輝く、黄金色の髪と、ちらちらと見える銀色のピアスが視界に映り気にかかる。その中で彼女は陰りのある表情を崩さない。
俺には二人の妹がいる。一人はまだ小学生にもなっていない目に入れても痛くない妹と、もう一人は今年中学生となった大人びた妹だ。
金髪の女性は少しだけ二人目の妹に似ている気がした。俺のことを分かったような態度だとか、俺の頬をはたくような発言だとか。と、言うのも彼女のように、妹に言われたことがあるからだ。
あれは俺が高校生だった頃。
「兄さんは、許せないことが多いんだ」
ほんのちょっとした諍いで、学校の窓やドアを破壊するような殴り合いの喧嘩をした帰り、妹が俺の傷だらけの体を見て、呆れたように言葉を吐いた。
「兄さんはさ、家族に対しては寛容な部分も多いけど、許せないものに対しては容赦がないよね。そこには、多分優しさもあるけれど、残酷なほど厳格なところもあるんじゃないかな」
あるいは、それを潔癖というのではないか、と俺は自身の中で解釈をした。
その妹の発言がいたく俺に刺さった。まだ幼いのに妙に大人ぶった発言をし、俺の本質を言い当てる。その様に憤りを隠せなかった。
俺は頬が引きつらせながら、そんなことはないよ染香、とその時ははぐらかした。
まだまだ子どもだ。一番下の妹だって、言葉を覚えたばかりだったし、家族のことで手間取っていた。その最中に図星を言い当ててくる。これはなかなかに厳しいものがあった。
こういうことが彼女がもっと幼い時から頻繁にあったものだから、実はこの妹が俺は苦手だった。どう接したらよいか決めかね、いつも苦々しく応対していた。
今目の前にいる女性は、俺よりもずっと年上で、妹みたく幼くはないが、図星をつくところが、妹に似ていた。胸の内がそわそわと居心地悪く波立つ。それなのに、妹のように接することはおろか、逆にもっと彼女を見ていたい想いが強くなってくる。
金髪の女性が暗闇の中を闊歩していく。俺は金色の尻尾を掴みながら、一定の距離を離しながらついていく。決して彼女のもとから大きく離れない。
そうして行きついた先には、夜の中に一点だけ青空を押し込めたような、ブルーシートに覆われた小屋があった。橋のたもとにいくつかの小屋が立ち並んでいる。どれもダンボール製の手作り感が満載だった。人間の寝息が耳を傾けると聞こえてくる。
前を歩いていた女性は、そこで立ち止まり、俺にここで待つように言って小屋に入っていった。
待っている時間は苦ではなかった。季節に目をやれたからだ。体が熱気を帯びてはいたが、白々しい冷たい空気が世界を覆っていた。足元には枯葉がところどころに落ちていて、秋の兆しを見て取れた。冷たくも生暖かいこの季節が俺は好きだった。
秋の色は赤や茶や、そして目の前に現れた女性の金色だったりした。
「お待たせ。手を出して」
印象的に瞳に残痕する。きらきらと目の中に金色の星が散らばっている。
「殴って手を汚してるでしょ」
「こんなの、消毒せずとも治るって」
彼女は小屋から出してきた、消毒液のボトルと布を両手に持っていた。その両方に既視感がある。何度となく俺はそれで傷を洗ってきた。結果として、傷が癒えてきた上に再び傷ができるから意味がなかった。口の中は、消毒の意味もないし、打撲も気づけば治っているものだ。
「えいっ」
その時彼女が消毒液を俺にぶっかけた。液体がスローモーションになって俺に近づいてくる。驚いて瞼が大きく見開く。よけようがなかった。
途端に、傷がまだ浅い拳や顔の腫れに染み渡っていく。まるで猛毒をあびたように全身に痛みが駆け巡り、体が飛び上がる。足がもつれ、着地に失敗。その場に転がる。河原の生え放題の草がちくちくとあたり、余計にも草の先端が傷をつついてくる。
「どう?」
うめく俺は、彼女を憎々しげに見上げた。
「あたしも、別にこんなことしなくっていいと思ってるよ。傷なんて癒えるわけないから」
なんでか分からないけれど彼女は妹みたいに影のある表情をさせる。こういうところがとてつもなく心に残り、心配になる。不安定な気分に自身を保てなくなる。どうにかしなくてはいけない、と自分を奮起させる。
「あんたは?」
「あたしは」
女性は間を置いて作り出した。
「くぬぎ」
くぬぎと反芻する。
「あたしは、君のことが気になっただけ。巷を賑わせている不良少年がどんなやつか見に行ったんだ。偶然、君を見た時思ったよ。あいつとそっくりだって」
彼女は傍により、俺の顔を覗き込んだ。金色の髪が俺の顔に、体に降り注ぐ。俺の体に絡まる。彼女はとっくの昔に巣を張っていたのかもしれない。離さないよう、離れないよう、冷たい手のひらが腫れた頬にあてられる。うっとりするほど快適な体温にとろけてしまいそうだった。透き通る薄茶色の瞳に吸い込まれる。
「感情のままに暴力をふるうのは不毛だと、あいつも言っていたよ。君もそうでしょう」
「シンスケ、俺はシンスケだ」
くぬぎは、手をのけて俺に背を向ける。その背後には先ほどまでなかった黒く光った何かがあった。
「そっか」と彼女はどうでもいいように振り払った。「君はもうあんなことをやめた方がいい。あたしみたいな悪い人に目を付けられるから」
よく見ると、黒い何かは拳銃の形をしていた。リアルな凶器を見たのは初めてだった。思ったより動揺していない自分。それよりも彼女の色の方が魅惑的だった。
「あたしのことも忘れて。暴力のない普通に戻って」
寂しくなった頬に意識がいく。その寂しさに愛おしさを感じてしまう。「嫌だ」とかすれる声をふり絞り、体を起こす。金の鱗粉の香りが忘れられなかった。そこにある輝きを俺はもう忘れることはできない。
「暴力をふるわない。あんたのことも他の人に絶対口外しない。その代わり、また会いに来ていい?」
彼女の口が開いた。
「あたしの言葉聞いてる」
「あんたにまた会いたいんだ」
彼女の手が拳銃に行きつく。抜き出し、銃口を俺の額に向ける。冷酷な眼光が俺を射る。
俺はひるまない。撃たれるんならそれまでだ。ここで終わってもいい。
秋の風の香りが瞬いた。
「あたしは、そこまでお人よしじゃない」
それはくぬぎが自身に言い聞かせているようだった。ぽつりと落ちた言葉に痛々しい心情がまざりあって、俺はそれに寄り添いたくなる。表情を崩さず向きうこと数分。くぬぎはため息をついた。
「勝手にして」
くぬぎが、銃口をおろし、ブルーシートに覆われた小屋に戻っていく。残された俺はその光景をただ見つめていていた。後姿のくぬぎを、いつまでもいつまでも瞳に宿す。幻想的な景色だった。銃口を向けられていようと、彼女の姿は俺にとってパンチが強く、心に強く住み着く。
瞬く間に、俺は笑顔を弾けさせて、足早に家に帰っていった。これまでは暴力の後は、とぼとぼとやるせなを抱えたまま帰っていたが、今回は今までとは違う。
綺麗な人に出会った。まるで運命的な出会いだった。暴力をふるい、クズとゴミの血が溢れる中、人工的な金色という色合いを俺は大事に頭の中で出し入れしながら、飛んだり跳ねたりして走った。
翌日、俺は大学の講義をサボり、美容室に行った。妹や弟には、白い目をされたが、きっと大丈夫。俺が鼻歌を歌おうが、くぬぎの姿を思い出そうが金髪に染めようが何も言わない、はずだ。
「兄さん、その髪どうしたの?」
妹の染香が、俺の自信をすぐさま打ち破ってきた。その背後には弟の邉が隠れていた。染香を盾にして、顔を出している。ちらっと見えるその容姿は、目を惹きつける。
弟の邉は零れ落ちそうな大きな目に、整った顔をしていた。しかし、その綺麗な目は、突然色合いが代わった俺の髪に向けられている。黄金色のピカピカした髪が、邉の上目遣いをしたら視界に入り込む。
「いいだろう、この色」と俺は視界に入り込んだ前髪をいじる。
「いや、似合ってないって」
妹の染香は手厳しい。
「その前に、また喧嘩したでしょ?」
「してない」
「せめて、その手や腕や、頬を隠してから言ってよ」
俺の頬は、昨晩の腫れが引かず一段と腫れている。その頬をガーゼで覆っていたり、小さな傷は絆創膏で隠したり、腕にシップを貼り応急処置をしていた。その上金髪となれば、正真正銘の不良だ。
邉もそれに怯えてか知らないが、「どんどん不良になってる」と俺にも聞こえる声で染香に耳打ちしていた。心なしか視線が痛い上に、俺を見て肉食動物を前にした草食動物のように震えている気もする。が、その容姿は男から見た俺でも、美しくもかっこよく、様になっている。
「大丈夫だ。もう喧嘩しない。やめたんだ」
家は静かだった。末っ子の希星は、父さんが朝早くに保育園に預けたし、いるのは中学から帰った妹の染香と小学校から帰った弟の邉だけだ。この後、俺は鼻歌交じりにくぬぎに会いに行くのだが、染香も邉も白い眼を向けている。
「彼女?」と邉が小さな声でぼそぼそと尋ねてきた。
「彼女でしょ」と染香が付け足した。
「そうかもしれない」
俺の頭の中はくぬぎのことでいっぱいだった。ここまで思ってしまうのも珍しい。暴力をふるうこと、家族のこと、それ以外でこんな清清しく言葉を告げられる。人に惹きつけられるのは、とても良いことだ。
意気揚々と俺は彼らの冷たい目を向けられながら、くぬぎに会いに行った。金色の髪をいじり、髪をきめ、彼女の家がある街はずれの橋の袂まで行きつく。
夜の風景とは代わり、立ち並んだ小屋から汚れた服を着た男達が、忙しなく何かをしていた。その中で、一際青々としたブルーが目立つ新しめの小屋の前に来る。相変わらずのブルーシートの小屋。傍らには彼岸花が咲き誇っている。不吉だったので手折り、川に放り投げ、小屋の中を覗く。
「こんにちは」
中は思ったよりも物が多く、炬燵や、冷蔵庫といった必要なものが揃えられていた。炬燵の中で温まっていた、くぬぎの頭が目に飛び込んできた。
俺は昨晩のあの金色を思い出していた。夜の中で際立ったそれを、俺は何度も何度も描きながら、自身の髪色を近しい金色に染め上げた。
忘れられるはずがなかった。その金色が、目の前にある。つむじがくっきりと渦を巻き、そこからするりと金色の糸が紡がれ、流れている。黄金色の粒が弾けている。
くぬぎは、俺の声に気づくと、体をひねる。
「まさか本当に来るとは思わなかった」
こちらを見上げた。次第に瞼が開き、薄茶の瞳がよく見えるようになる。
「その髪は?」
若干彼女の顔が曇った気がしたが、気のせいだ。
「同じ色にしてみたんだ」
「いや、その」とくぬぎはたじろぎ、手を炬燵の向こうへ向けた。「来たんだったら仕方ない。そこにいても寒いだろうし、そこに入って」
俺はくぬぎの指示通り、色があせた毛布がかぶせられた炬燵に潜り込む。中は掘りごたつになっていた。靴はくぬぎも履いたままだった。俺はそこに足を置き、くぬぎの方を見る。と、彼女の顔がずいっと近づけられた。俺は心臓が一回大きく心音を刻む。
「これは言おうか迷ったんだけれど」
そこから彼女の手が頭に添えられる。彼女がそっと耳打ちする。
「その髪、死ぬほど似合ってない」
そして俺の髪をぐしゃぐしゃにかき回した。まるで小さな子どもを手名付けるようで、意地汚くも俺は対等になりたいと、思ってしまった。




