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嘘つき四つウサギ  作者: 千羽稲穂
第一章 兄ウサギ
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にぎやかな毒

 そろそろ梅雨もあけると言う頃、ちゅるちゅると私はうどんを吸っていた。学食のにぎやかさは私のちゅるちゅるを消して、外の雨音も消して、隣にいる亜希ちゃんの声も消していた。


 うどんを吸いながら、つゆに映った自分自身の姿を凝視する。目の下に隈がない、健全な表情をしている。今、にっこりと笑みを作ろうとすれば、すぐにでも作れそうなほどの精巧な人形のような自分の顔を、嫌悪してしまう。それでも兄は私の嫌悪に少なからず好感を抱くだろうが、私にとっては裏に関わる時にする嫌なものとしか思えない。


「兄さん、これからどうするの?」とつゆの中の笑みを含ませた私が口を動かした。


 ちゅるんっと一本のうどんを吸い込むと、つゆは波をたてて違う映像を見せ始める。


 そこは、駅前のベンチだ。

 兄を見つけた後、そのままでは邉が兄さんのことを知ってしまうので、空き室に兄を移動させて起きるまで待った。体をゆすぶっても起きない兄さんを見てあきれ果てた黒木さんは終夜を連れてとっとと探偵事務所に戻ってしまったけれど、私はそれでも待ち続けた。家で兄の帰りを待つより、よっぽど心は晴れていて居心地がよかった。

 それに私を裏の世界に巻き込んだ夜みたいに、今度は兄さんが私を起こすのではなくて、私が起こすとなると、母離れならぬ兄さん離れができたようで自然と心が軽くなった。


 やっと起きだした兄さんは気分が悪いから外に出たいと言って、駅前のベンチにまで歩いてようやく身を落ち着かせた。


 そこで私が言ったのだ。

 これからどうするの。


「どうって……」


 ふと、放り捨てられた黒の皮手袋を忘れてきてしまったことを思い出した。鞄も何も持っていない。ポケットも破れてしまって不格好だ。


 いくら鈍感な兄だからといって、私の姿を見れば何かあったのだと気づかないはずはない。でも兄さんはいろんなことを聞かなかった。聞いても良かったのに兄さんはそういうところはあえて聞かない。


 それは兄さんには聞かれたくない【金髪時代】があるかもしれない。


「俺は、本気だったんだ」


 ぽつり、ぽつりと兄さんは言葉を噛みしめて、記憶をたどっていた。その記憶が、あまりにも悲惨で、悲しく苦いものだったのか顔をしかめる。兄さんは相変わらず分かりやすい。


「その分だと、俺が仕事やめたの知ってるよな」

「もちろん」

「ま、そのくらい本気だったんだ。表の仕事をやめて、裏に浸りたいほどに俺はあいつらを許せなかった。だから、殺す気で探した」兄さんは自身をあざ笑った。「結果、術中にはまってるんだから訳ないよな。染香があの時怒ったの、今ならよくわかるよ」

「それは私も悪かったし、おあいこでいいでしょ」


 本当に悪いのは、黒木さんや久藤君だってことを兄さんは聞かない。だから答えないようにした。これは嘘ではないよね、なんて言い訳をした。


「家のお金はなんとかなるよ。お父さんもまだ働いてるし、邉はもう自分で働いちゃってる。でも、兄さんはそんなんじゃ許さないだろうから、ちょっと悪いこと言っちゃうね」


 私は座りなおして、生暖かい風に浸る兄さんの方へ体を向けた。兄さんの顔を覗き込むように、首をかしげてポーカーフェイスを決める。


 ああ、きっとこの時の私、わるぅい顔をしていたんだろうな、と直に感じられた。


 兄さんは、そんな私を窺っている。


「兄さんが空き巣やって儲けたお金を使っちゃえ」


 兄さんのような努力家は、受け入れられない誘いだろう。ともすれば悪魔の誘いに聞こえるかもしれない。案の定、悪魔にそそのかされた兄さんの顔は曇った。目を細めて、私側に立つことを拒んでいる。


「俺に正真正銘の泥棒になれって言っているのか」

「そうだよ。どうせ使ってないでしょ。どこにも使う当てがないのなら、使おうよ。それが足りなくなったら、また泥棒して、お金を奪って生計をたてればいい」

「あの金は、いくら悪いことをやっていた奴らの金とはいえ、そいつらが努力して手に入れたお金であって、使うなんてことは。それに、こんな不自由な職業に完全になるとなると……」

「こっちも努力して盗んだんだから、これもおあいこでしょ」


 でも、と兄さんはそれでも渋っていた。さっきまで人を殺そうとしていた人が、何を言っているのだろうか、とくすりと笑ってしまう。兄さんが冷たくもなく、兄さんが兄さんらしい。それに安心してしまう。ここに原寸大の兄さんがいる。これなら、きっと大丈夫。兄さんは冷たくあっても、私がそうであってほしくない冷たさがあっても兄さんは兄さんなのだ。

 黒木さんが内側をどうみせようと外側をどう示そうと、ぽろりと自身のことを零してしまうように、兄さんにも兄さんの欠片がどこかある。


 そもそも、私が、血に濡れた日から、邉を好きになってから、変わらず私だと言ってくれた兄さんに許容してください、なんてお願いするのもおかしな話なのだ。お願いしなくてもやってくれる。言ったら、兄さんはそうあってくれる。


 冷たくっても、温かくっても兄さんだ。だから、私は真実を話してしまう。


「もう、どちらにせよ一緒だよ。小さな良いことをしたって、どっちにしろ私達は悪でしょ?」


 昔、兄が言っていた話が好きだった。熱血論だとか、努力論とかウサギに頼らない生き方を模索していくようで、心が躍った。世間がウサギで不自由になりそうになっていたさなか、あの兄さんの言葉で道が開けたような気がした。私の力がちょびっとだけ好きになった。


 悪の定義も、自身が悪だと言うこともしっかりと認識していた芯の強い兄さんを尊敬していた。自身の行いを重い悪だとして、嫌って仕事をしつつ泥棒を繰り返す曖昧な立場の兄さんを、滑稽だと思うかたわら、どこかいいなと羨望の眼差しで見ていた。

 だからひそかに【金髪時代】のお話を私は好んで兄に聞いていた。


 煙草の香り、優しい兄さんの暴力、ほのかなに垣間見せる解錠の優美さ、全てが言っている。兄さんは凄いんだ。自身はそれに気づかずに振舞っている。ただただ鈍感さゆえに見落としている。


 邉が久藤君にいじめられている時、最初に気づいたのは兄さんだった。最初に殴ったのは兄さんだった。きっと今回も、兄さんが最初に狙われたから、久藤君はしっぺ返しをくらった。


 兄さんへの憧れはやまない。


「私達はもう既にどっぷり悪に浸かっているんだから」


 あの時憧れた兄になら、私はどこへだってついていける。私が道を示していける。その覚悟があった。


 兄さんは私の言葉に、それもそうだな、とまた何とも言えない表情で頷き、私のお腹を小突く。そして、言うようになったな、と頭をがしがしと撫でられた。やるせなさがどこかへふっとんでいく撫でられ方だった。兄さんのくせに、こういう時はどうしようもなく優しくなる。


 いつもはどうしようもないのに、私の知っている兄さんはひどくかっこいいのだ。


 もう既にそこには、喧嘩から一夜明けた、何もなかったような空気が漂っていた。


 ちゅるんっと麺を吸うとその空気ごと、過去の記憶は揺れて、中身の細く太い、しっとりした麺が絡み合っているのがつゆの表面からもみえた。最後の一本を箸ですくうと、先ほど映し出された私の記憶は霧散して見る影もなくなっていた。最後の一本も口に運び、ちゅるっとひと吸い。残ったつゆもごくっとひと飲み。そして、手を合わせて、「ごちそうさまでした」と合図をする。


 隣で一緒にご飯を食べていた亜希ちゃんはそれを見ていつも通りにやにやしていた。このきちんと挨拶をするのが珍しいらしい。だけど、もう五月も終わりで見慣れてきたはずなのに亜希ちゃんはぼんやりと私の所作を、わざわざ箸を止めて見惚れている。


「いつもおいしそうやなあ」


 ぼやきともとれる亜希ちゃんの言葉に、私はほっとする。なんだか、ぼけぇっとした空気が流れているようで、緊張がほどける。


「おいしぃよ?」意味も何もない返事に私も自然と笑みを作る。


「こう、ぱっちんして、『ごちそうさま』言うだけで美味しそうだなんて思うんやですごくない? 私がこう……」と亜希ちゃんは箸をおいて手を合わせる。「ごちそうさま……ほら、してもぜんぜん思わへんやん。でも染香ちゃんは、すっごくおいしそうやねん」

「どうしてだろうね。ただ弟とか妹とか、兄さんと一緒にしてて癖でやっちゃうだけなんだけど」

「それや」

「それって?」

「一緒に食べると美味しい。幸せ。満腹満腹って顔してるからやろ」


 幸せ、と言う顔をしている、と頭の中で反芻する。それだけで私はお腹いっぱいだった。邉の前でしている笑顔が、家族としての笑顔なら、とてつもなく悲しいことだけど私にとってはとてつもなく幸せなことだ。それができているのなら、嬉しくないはずがない。


 思えば、家庭でご飯を食べるときは、兄さんと私は必ずできるだけ全員で食べるまで待っていた。食いしん坊の希星は先に食べることがあったが、私は一緒に食べたかった。好きだから、というものじゃない、それが普通だから私達は一緒に食卓に並ぶ。そうしてご飯を食べる。これが幸せだ。


 ふふふっと心の中だけで笑ってしまう。


「そーや、今めっちゃ驚いてんけど、染香ちゃん、もしかして兄貴いるん? 弟も?」

「言ってなかったっけ?」

「初耳やねんけど」

「いるよ。弟と兄。あと一番下に妹」


 亜希ちゃんは少しだけ間を開けた。何か考えている。そして深刻そうな雰囲気を漂わせている。私が立ち入ってはいけないと思って、それを外野から眺めていた。応援する内野手、ピッチャーがボールを投げるのを固唾をのんで見守る。

 そして投げられた。


「気ぃ悪くしたらごめんやけど、私、染香ちゃんって三又、四又ぐらいしてると思っててん」


 私は頭をかしげて、亜希ちゃんが紡ぐ言葉を待つ。


「だって、いつも違う男といるんやもん。朝おくってもらってたりしてるって。噂では高校の頃も年上の彼氏と付き合ってていつも一緒に登校してたって。それに私も、染香ちゃんが、その……男といるところ見ちゃったし」


 あまりの物言いにいつもの亜希ちゃんはどこへ行ってしまったのだと、探しそうになる。瞬きを数回して、もう一回彼女を見ても、やはり彼女本人だ。本来このぐらい近くによる人ではない。


「えっと……もしかしてこの人?」


 私は携帯からてきとうに兄さんの写真を見せた。


「そうそう、この人」

「この人、私の兄さん」


 えええ、と驚愕の表情を見せて、体をのけぞらせている亜希ちゃんにかまわず、今度は貴重な弟の写真を差し出した。写真はバイト終わりの邉が写されている。少しぶれているが、特徴的な邉の整った顔や、柔らかな笑みは分かる。なによりあの邉だ。一度見た人は特定できるはずだ。亜希ちゃんの意識が戻るのを待ってから、


「この人とか見たことある?」

「見た見た、すっごいイケメンやなぁって思ってた。っていうか、やっぱイケメンやわぁ。かっこいいし、付き合いたい」


「私の弟」


 ひぇぇぇ、と目を引ん剝き、今にも飛んでしまいそうなほど体を伸ばす。


 そんな亜希ちゃんを見ると私への変な噂の発生源がほんの少しわかった気がした。

 つまりは、邉と兄さんに外で頻繁に会っていた私がいけなかったのだろう。邉は全くもって私と似ていないから、付き合ってる彼氏と見られやすい。兄さんは似てなくもないが、兄さんは父親似で、私は母親似ということもあって、似てるとは一度も言われたことがない。


 もしかして一緒に登校していたから、高校の時私は男の子に声をかけられなかったのかもしれない。兄さんと私とが付き合っているという変な方向に噂がたっていた、と考えると確かに今の「私がやりまくっている」とか「あの子は男好き」と噂がたつのはうなづける。


「な、なぁ、じゃあ染香ちゃんに近づこうとして、変な男の人に追っ払われたとか……

 その人が染香ちゃんのボディーガードとか変な噂ってどういうことなん?」


「ぼでぃがーど?」でも、思い当たらない人がいないわけではない。


「多分それはストーカーだと思う」


 と、言うか久藤君だ。


「ストーカーって大丈夫なん? 染香ちゃん困ってない?」


 困ってたし、久藤君がつきまとって鬱陶しかったし、その人を彼氏の一人だと勘違いしている亜希ちゃんの眼差しはとても痛かったことはしっかりと刻み込まれている。


 そもそもこの噂自体久藤君が発端なのかもしれない。私に悪い虫がつかないよう、いや逆について困らせようとしていたのだろう。なんとも意地汚い。

 そうして自分がたてた噂で、私が嫌な思いをしているのを見て、あの時助けたのだ。本末転倒ではないのか。


 なんて人だと呆れてしまう。亜希ちゃんは記憶を手繰り寄せつつ、次の質問へ。


「えっと……じゃあ、四月あたまあたりに見た、コートを着た男の人。遠目から見ててんけど愛着ありそうだなって思っててん。あの人は……」

「あの人は、私の彼氏」


 亜希ちゃんは、頭をくらくら回し、机に肘をついた。貧血なのか、と心配して覗き込むと、青い顔をして、ふっと鼻で笑っていた。頬に手を当てて遠くを見つめる。食堂のにぎやかさは己には毒だと言ったように、痛そうに顔をしかめた。しばらくして虚無感を全身に滲ませる。


「私には彼氏いーひんのに、染香ちゃんはいんねんなあ」


 中学からの付き合いだということは言えなかった。代わりに、ぽんっと亜希ちゃんの肩に手を置き、今度合コンか何かパーティーでも行こうかと言うしかない。私はセッティングも参加もしたことがないので望み薄なことは、亜希ちゃんも知っての通りだった。

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