嘘つき少女
開け放たれた先には、狼のような目をした男が立っていた。その後ろには終夜の姿が見える。彼らの姿は背後から降り注ぐ光でくっきりと影になっていた。燦燦と注ぐ光の中、彼らの影が部屋の中へ伸びていく。その影は室内の暗闇と重なり、溶け合う。
久藤君の手の平が首にあてられている。力はかけられていないし、ただひんやりと気持ちいい体温だけが感じ取れる。彼は背後の突如として現れた彼らに気を取られていた。私から視線を外し、背後を振り返っている。
私の指が彼の腕に食い込む。でも彼の表情は一点も曇りを見せない。痛みよりもむしろ背後の影に怯えて表情をこわばらせている。
その隙を逃さない。久藤君の腹を押し上げる。大きな体躯だ。私の力はそんな大きな男性の体に対しては非力で動かない。でも右ポケットの中の種を計算に入れたら、押し返せない体でもないはずだ。右手でポケットに触れ、意識をすると、すぐに発芽して、するどい木の枝を作る。ポケットの布は裂けた。
途端、ナイフと同じ形状の刃物を作り出す。今は上に押し上げるだけだから先端は丸めておいてある。久藤君の体が浮いたときに、体を右に回転させる。
それでも久藤君は私の首から手を離さない。逆に力を強めていく。その瞳に獲物を狩るような光が鈍く輝く。ぎりぎりと首が絞められる。空気がのどからを通らない。吸えない。吐けない。体は動かない。私のウサギと自分の力でも、久藤君の力を超えられない。
奥の影が揺らぎ、室内に移る。その光景は闇に潜む美しい狼のよう。息もつかせず、空気は張り詰め、ぴんっとなわばりの糸を張る。
そして、久藤君の体が左にふっとんだ。
瞳に残ったのは、しめられた気持ちの悪い首の感触とふっとぶ時に見た、久藤君を蹴った足の残像。乱暴におろされた足をアパートの床に着ける。久藤君が転がりみしっと軋む床と、狼の足が地についたような軽い音。
その人は、狼のような目をした男性で、黒木さんよりも少し大きめだった。だからか、床につけた軽い足音が不相応に思えた。
久藤君は、私の作った丸いナイフと共に床に転がる。傍に転がったナイフは黒ずんでいき、腐り落ちていった。久藤君は蹴られた腹を抑えて数度せき込んだ。しかし、常人よりも鍛えているからなのか、それほど痛そうにもしなければ、咳込みも少ない。息を吐き、態勢を整えて、こちらを見据える。
久藤君と男、狼のようなぎらぎらとした目が二匹。
にらみ合う。
と、そこで、男が私に手を差し出してきた。
「大丈夫か」
こちらの男性は久藤君よりも優しげだ。漂うほっとする雰囲気に私はついほだされて、男の手をとった。大きな手だ。太く熱い。血管がうきでている。腕から男の顔を見上げると、勇ましい容姿が見て取れた。
可もなく不可もなく。中年あたりだろうか。どことなく、父の年齢に近く見えた。目じりに皺を寄せて、笑うが、全く似合ってない。ぎこちない。頬を緩ませられないのだろうか、頬はそのまま凍りついている。笑顔が似合いそうなのにもったいない。
「ありが」ごほっと一回たまらず咳をついてしまった。「ありがとうございます」
立ち上がり、久藤君を見下げた。態勢を低く、身構えて私ではなく男性を見ている。この男を知っているのだろうか。
何者かを聞く前に終夜が駆け寄ってきて、私に引っついた。心配そうな顔でこちらを覗く。約束を破ってしまって、何かに恐れている。そうしていつも過ごしていたのが分かる。きっと終夜が狼の目をした男を連れてきたのはそういった感情的な理由だ。それが少し悲しかった。
手を終夜の頭にやると、体がびくっと震えた。さらっと髪を撫でて、終夜に敵意がないことを教える。
「その子がここまで連れてきたんだ」
男性が重々しく口を開けた。喋りたくなさそうだ。
「たまたま事務所によるとその子がいて、君が危険だと言ってきたんだ。助けて、とすがりつかれてな。黒木には既に電話をした。もうすぐ着く。君のことは前々からあいつに聞いてたよ。あいつは、君のことを大切な人だと言っていた」
私の中にできあがった記憶の部屋でちっちゃい私がこっちだよと伝えてくる。その子が誘った方に目を向けると、くるくると映写機が回るように、黒木さんと会話をしていた時の映像が脳内に映し出される。
黒木さんはだらしない恰好で言っていた。
ーー良い殺し屋を紹介するよ。
ーーあっちが僕にたまーに絡んでくるんだ。事務所のほうはどうかって。
ーーこの事務所、その殺し屋から譲ってもらったんだよ。好きに使っていいよって。
私の脳内の少女が「もう分ったでしょう?」とにやりとほほ笑む。その笑みに、してやられたと頭を抱えてしまう。もう結論はでていた。
この人は、その殺し屋だ。
男が左手を背後にやる。ズボンのポケットから何かを抜き取る。久藤に向かって差し向けられたのは、サバイバルナイフだ。脂ぎった輝きがまとわりついている。
それを見るとおぞましくなった。かなりの年季で使われているそれは、他と違う異様な様相をしているように見えてならない。暗闇にも関わらず刃が冴えわたり、白く光っている。つるりとした刀身を向けられたら、私ならひるんで動けない。それほど、隙がない美しさだった。
久藤君の怯えもわかる。
「お前の依頼主は?」
冷淡とした声音にある根底の温もりを感じて、私の心の奥が震えた。
黒木さんが「僕達みたいなやつらはさ、あーいう人に吸い寄せられるんだよなあ」と言った意味が十分に理解できた。この人に思わず頼りたくなるほどに、男性には優しさをにじませ、温かみがある。一方で表は冷たい。私には、この男が悪いようには思えない。信頼できる。
「言えない」久藤君の声が震える。
「『黒木』か?」
と、言った途端、久藤君の何かが変わった。今まで見せなかった、香りがする。煙草でも無臭でもない。真新しいプラスティックのような、つるっとした香りがする。雨に当たり際立つその人工の香りが漂う。
いや、それよりも……『黒木』?
「黒木さんのこと?」
狼の目をした男性はふるふると頭をふる。だがしっかりと久藤からは視線を外さない。
「黙っているってことは、そうか。どうせお前は依頼から逸脱した行為をしたんだろう? あいつらは、もっと巧妙に仕込むからな。所詮お前も組織の末端だろう。だから全て言った方がいい。俺が殺す前に、この子に。
どうせ組織に殺されるか、俺に殺されるかしかない。ここで全て吐いて死ぬか、組織に人知れず殺されるか選べ」
「死ぬさ。その人と一緒に」
殺したい、殺したい、と強く伝わってくる。でも、そんな発言をしている久藤君を理解してしまう。私もそんな瞳を持っている。
久藤君は好きな人を殺したら、その後で自分も死ぬ人だ。本気の愛は心中にある、と思っている。だから、私の痛みも受けてくれる。全て受け入れて、私を痛みつけて、一緒に死のうとする。
もし久藤君の交渉に応えたとしても、この人の依頼者は許さない。
結局、久藤君は自分が思った時に思ったように死にたかっただけなのかもしれない。
久藤君は私のことをちらりと見て、目を伏せた。その表情に一点の死相が見えた。そこで、ふと自分が決着をつけるべきだと思った。
「待って」
そうすれば、兄さんの居場所も聞けるはずだ。
「まだ殺さないで」
男性の前に立ちはだかる。腕にはりついている終夜も一緒だ。すると、久藤君は立ち上がった。終夜のびくっとした振動が体全体に行き渡った。大きな大人を見るのは恐ろしい。それは私も同じだ。大きなものを目の前にしたら、耳を閉じてしまう。電車も、トラックも、車も、全て、あの事故につながる。
命は大切と言った口で、私自身の手は汚れているなんてとんだ詐欺師だ。
「お姉さん?」久藤君の笑みは見飽きた。
「吐き気がする」私は吐き捨てた。
「ひどい言い草だ」背後で狼目の男性が苦々しく呟く。
足元に放り投げられた、ナイフを見つけるが、もう既に黒く腐り落ちて、炭のようになっていた。ぼろぼろと崩れる姿は、もう使えないと告げている。
床に足を滑らせて、木の床の感触を確かめる。私の友達になってくれそうな相方を足踏みして見つける。その中でも答えてくれたモノが一気に熱をおびる。私のウサギが呼応する。
「兄さんの居場所を教えてくれる?」
「俺が言うと思ってるんですか?」
「じゃあ、何をすればいいの?」
久藤君は、諦念を含ませ笑い、
「キスしてくださいよ」
私は久藤君の体に密着させた。終夜から片手を抜き取り、その手を熱い胸板に当てた。彼の背と私の背はかなりの差があるから、私は自身の口を添えようとすれば背伸びをしなければならない。すくっとつま先立ちになり、近づく。
久藤君のぽっかりと空いた口。私の吐息。
瞬時に顔を離して、掴んだ種子を久藤君の口に突っ込んだ。
「ごめん。邉の代わりはもう決めてるから」
私のウサギが、床の木に種子を作らせ私のぶら下げた手まで運んでくれた。その種子をつまみ上げて、久藤君の口に突っ込む。
指に久藤君の構内のよだれが垂れてくる。その指をおもむろに抜き出して、ひとさし指を唇の上に置く。飲んで、と囁いてみると、久藤君は言うとおりにごくん、とのどを動かした。
そうして手を離し、思い出す。ずいぶんと大きくなった彼の体を、見上げて、台風の日に言った言葉を、一語一語かみしめる。あの時と同じようにしようにも、私の周辺は変わってしまった。気持ちも、覚悟も、全て。
「覚えてる? 最初に久藤君に言った言葉」
私はふぅと一息ついて、種子の中身が体全体に行き渡るのを待った。
「私は、あなたに毒を仕込んだって、多分そんなこといったよね。でもね、あの時はまったくそんな力なかった。ただのはったり。
……今は、違う」
次第に久藤君は視界を閉じていく。足をふらつかせて、こちらへ寄りかかろうとするのを押して、背後の壁に久藤君の背があたる。するすると尻を床につけていった。がっくりと頭をもたげて、大粒の汗を額に浮かび上がらせる。息も激しくなる。毒に抗っているのか、私を見上げて、それでも幸せそうな表情をする彼にほんの少しだけ、幼い時の彼と重なる。演技をしていても、見せる端々は本物なのかもしれない。
「私の力は、頭に浮かべるだけでいい。こんなものが欲しい、あんなものがいいな、それだけ。それだけに、なっちゃったんだ。
久藤君に食べさせたのはね、重い毒。私の質問に答えさせる自白剤。私だけが作れる種子。大丈夫。答えた後は死ぬから、安心して意識をなくして」
額の汗が床に落ちた。透明な水滴が円形状に薄く広がっていく。頭をもたげて、人形のように手足を放りだした。瞼はあけているのか、あけていないのか分からないぐらいに薄く開いている。
その彼の耳元へ口元を近づけて「兄さんはどこ?」と言うと、とぎれとぎれに久藤君は言葉を紡ぐ。壊れたお人形だ。
ナリカワリが、感情を持ってしまった。そして私に近づいた。まるで人形に命が宿ったみたいだ。本当はこの自白剤が効いている状態が本当の『ナリカワリ』なのではないだろうか。これが、依頼人の求めた人材なのではないか。
だったら、この人形は『ナリカワリ』ではなく『ナリソコナイ』だ。
ふっと息を吹きかけると久藤君の前髪が揺れた。何一つ彼は反応を示さない。『ナリソコナイ』の自分は去る方がいいと、私を助けた時、絶望してしまったのかもしれない。あれからの彼はひどく自虐的だったのはそのせいかもしれない。
私は立ち上がった。そして狼の目をした男と向き合った。やはり威圧感はあるが、嫌いにはなれない。むしろ柔らかい雰囲気を感じた。
「この人を殺してください」
私は意を決して言った。
「いいのか。そいつは毒で死ぬだろう?」
「嘘を、ついたんです。私は、種子に致死性の毒はいれてません。同情してしまったんです」
終夜が私の服の裾を引っ張った。
「それに、もうこれ以上私は人を殺したくはないんです」
終夜の手を引いて、その部屋を後にした。
兄さんの隠し場所は隣の部屋だ。そこは邉の秘密基地の108号室だ。中に入るために周囲に花を咲かせてから、その花を引き抜き鍵穴に向けた。すると花は鍵穴に入り込み、金属のように固くなる。あとはドアノブをくるっとまわせば、中へ簡単に侵入できた。
部屋一面の地図の上に足を滑らせる。押入れがあるだろう場所にあたりをつけ地図を一枚一枚はがしていく。紙をびりびりと破って捨てて、線がみえなくなるぐらいになってきたころに、押し入れの取っ手が見えた。最後の大きな貼られた紙を力一杯に引っ張る。そうすると押し入れの全体像が現れた。取っ手に手を掛けて、横に引く。
まずは投げ出された足が見えた。兄の足だ。収束バンドで丁寧に足首どうしを縛られている。徐々に引いていくと、今度は腹。背後には腕をこれまた足同様に縛られていた。すぐに頭が現れる。すーすーと寝息をたてて、瞼を閉じている。狭い場所に丁寧に入れられているのに、当の本人は全く意に介せず眠っているのだ。
当事者なのに、と内心馬鹿にしていると、なぜか体の力が抜けた。その場にへたりこんでしまう。
「センカァ?」と終夜が覗きこんでくるが、彼にかまえない。
ただ、そこにいる兄さんに、笑みをこぼさずにはいれなかった。
「染香っ!」
中へ息を切らしながら、あの人の声が舞い込んでくる。非日常を切り開き、私に淡く鈍い光を当てる。コートを翻し、颯爽と風を巻き起こす。
あの日のティーカップが私の足元に落ちている。黒くにじむ染みに、紙は黒く汚されていく。どんどん滲み渡り、それはまるで感染症で、私の周囲は病気を広がらせる。
私は、いてはいけないんだと嫌でも思う。これが、人を殺してはいけない、ということだ。私はもう赤ん坊の希星をこの手に抱けないし、そんな妄想をしてはいけない。全て、いけないことなのだ。
殺人を犯した私には権利なんてない。剥奪され、貶められる。あの子の一生を私がとってしまったことが、重い。ずっと幻影になって、あの子の影が私の周囲をふらつき、足元は赤で染まり、視界は死を示す。どうしたって、生きるか死ぬかの選択になる。もう元の選択には戻れない。
でも、彼は味方だと言ってくれた。
手が震えてカップを持てなかった。私の抱えた想いは彼の前で全て零れ落ちた。
邉が好きで、でも逃げられなくって、逃げようとしたら今度は自分の口から出たのが邉は家族だという事実で、私の想いは迷子になった。
最後に残ったのは満たされない想いだけだ。
邉は弟だ、そして好きな人だ。でも、好きになっちゃいけないんだ。私にとって邉は、家族だから。
兄さんが目の前にいる。安心してしまう。邉が、家族で安心してしまう。希星が生きていて、安心してしまった。
ああ、あの日、あの子を殺して私が笑っていたのは家族を感じて安心したからだ。
一方で、好きを傷つけていたのに、私は安心を求めてしまったんだ。
駆け寄ってきた煙草の匂いをぷんぷんさせた黒木さん、黒木和樹さんを見た途端抱きしめたくなった。だから邉ではないのに、邉の代わりとしてぎゅっと隣にいた終夜と一緒に力強く、どこにも行かせないつもりで抱きしめた。
するとなぜかこの場に着地点を見つけて足を着けた。そこがどうにも居心地がよくって、自然と大粒の涙を頬に伝わせていた。
ああ、よかった。よかった。
口をついて出てきた嘘が、また私の心を削いでいく。傍らにいるのが、なぜこの人なのだろうか、なんて訳の分からない気持ちがこの場の着地に疑問を呈する。
私は嘘まみれだ。
黒木さんは何も言わずにいてくれた。あの日、助けてくれた日、ぎゅっと抱きしめた時のように、表情の一片もくもらせずそこにいてくれている。私のわがままに付き合ってくれていることを心底感謝しつつ、口では「よかった」と連呼する。
終夜はふるふると頭を振って、こっくんと頷き「うん」と言い私の頭をがしがしと撫でてくれた。
終夜は私の嘘なんてわかりはしない。




