消えた煙草の煙
煙草は害でしかない。体にまとわりつく煙草の香りで、その人が特定できるからだ。だから、兄さんも黒木さんも煙草はあまり吸わなかった。
ここで注意してほしいのは『あまり』という点だろう。
私達のような悪党は、やっぱりそれなりに依存する対象があれば、それにすがりつきたくなる性分を持ち合わせている。私や兄さんのような根本は罪を感じてしまう性格な者達ならなおさらだ。
私はそれでも煙草にすがりつきはしなかったが、兄さんはすがりついた。
最近は、五月の雨に紛れて匂わなくなったのか、それとも生活に安心してか、煙草を吸っていない。
たまに吸っていることは匂いで分かっていた。兄には内緒だが、兄の禁煙していた期間や、どういったときに吸っているのか探らせてもらったことがある。それによると、兄が吸うのは決まって、近くの公園や橋の下、それにどこか遠くに行った時だった。
そこで誰と何を話しているかまでは知らないが、いつも上機嫌で帰ってくる。そういうところ見れば、兄さんにとって煙草は嗜好品であり、上機嫌な時に吸えるものだったのだろう。
しかし、黒木さんは違う。黒木さんの煙草は、まるで自分を痛めつけているかのようなものだった。黒木さんが吸う時は、ひどく落ち込んだ時だ。
例えば、最初に私を拾った時などそうだろう。あの時の黒木さんは、『気分がいい』なんて言っておいて、本当のところ煙草の匂いをぷんぷんと香らせていた。今にして思えば、黒木さんの『気分がいい』はよっぽど自身の身が危険な時にしか言わない台詞だった。あの時から今の今まで黒木さんの『気分がいい』なんて状態を見たことがない。
ずぶずぶに濡れたまま、ぼろ雑巾みたいな服を着た終夜を連れ探偵事務所に再び帰ってくると、先ほどまで香っていなかった、煙草のすすけた匂いが部屋中に充満していた。紙や資料で汚いうえに、換気もしていないせいで部屋は白いレースの薄い幕が下りているようだ。
灰皿にとん、と黒木さんは煙草の灰を落とした。
「おかえり」
こちらに気づいて、疲れた声を投げた。
当然と言えば当然だけど、黒木さんは終夜のことも知っているらしい。もしかして、とほんの少しの疑念を感じるが、すぐにそちらの方向に考えるのをやめた。
「子供の売り買いはしていないんだ。早く返してきた方がいいよ。親御さんも心配しているしね」
「私がこの子を預かります」
煙草が指の間で折られるのが見えた。その反応に少なくとも私は心の中で笑ってしまった。今まで動揺したところを見せなかった彼が揺れた。大収穫だ。
「とりあえず、お風呂貸してください」
黒木さんが何か言っていたが、私は聞き入れずすぐに備え付けのバスルームにむかった。この事務所は狭いが、一通り住むには不自由ない設備が整っている。この子を一晩と言わず、何日か預かるぐらいなら訳ない。
私は終夜の手をひいて脱衣室まで連れてくる。タオルの場所や、大人用のTシャツを今は置いてある場所を伝えて、脱衣室から出る。私があれこれしなくてもしっかりしている子で、すんなり聞き入れてくれた。
「染香、どういうことだ」
黒木さんが、煙草をくわえながら私に問い詰めた。いつもの彼の異様な香水の香りと、年季が入った埃の香り、それに加えて煙草の香りを一緒くたに纏わせている。甘くて苦い、食べきれなくなり何日も放棄した綿菓子を彷彿とさせる。
「どうしたんです? いつもなら、分かってたって顔するのに」
私はその様子がおかしくってたまらなかった。
「どうするも何も。分かってるのか。お前や僕は、裏に関わりすぎてるし、いやそれ以前に預かるって言ったって、お金はあるけど、子供一人育てるなんて僕達二人でできないに決まってる」
「どうにかなりますよ。あの子の両親にしたって、きっといなくなって清々するでしょうし」
「連れ去ったってことは、身代金目的の誘拐と勘違いさせてしまうかもしれない。もしかしたら、君の兄がその犯人の容疑者になってしまうかもしれないんだ。空き巣だけならまだしも、誘拐はまずい」
「跡形もなくいなくなれば、行方不明と勘違いすることもある。それに、兄さんが入った時、あの子がいたんです。仕方ないでしょ」
「空き巣を見られたのか」
兄に怒ったはいいが、結局私は兄の秘密を庇ってしまう。これが私のすがりつくものだからかもしれない。手を切った、喧嘩をした。それなのに、未だにまっすぐ兄さんを守るため子供を隠匿する方向に向いている。
ただただ終夜だけが私の中の歪だった。黒木さんに情報の処理を任せておけば、全ては丸く収まったのかもしれない。でも、私は異例の処置として此処に連れてきた。
兄とは私の、ルールのない関係だったからか。
それとも、私のエゴから。
最終的に終夜との約束にたどり着く。
「それでも、僕たちがあの子供をかくまう必要はない。此処じゃない場所をあの子に提供することだってできる」
「どっちにしろ、同じ」
私は歪んだ笑顔を作った。
苦々しい決断だった。『提供』なんて、売るということと同じだ。裏に売られるなんて、掏りをやっていたあの少年と処遇は変わらない。大きな組織の手足として使われるだけだ。私は裏と表を行き来する曖昧な境界を行き来する住人だから、まだ私の元にいた方がいい。それが裏に通じていたとしても、終夜の最善の選択はこれしか残されていない。
それから、黒木さんは私の決断に何も言わなかった。煙草の火を消し、面白くなさそうに背を向けて携帯電話を取り出した。やることと言ったら一つだ。私の味方である、黒木さんはこのことの後処理を行う。誘拐事件にも空き巣にもさせない。失踪事件にする。
そっぽを向いて、口をとがらせている姿が可愛らしい。そっと後ろから黒木さんの裾を引っ張る。ちらりと、黒木さんが嬉しそうな眼差しでこちらをふりむく、その瞬間を狙って後ろから抱き着いた。
胸いっぱいの煙草の香りを堪能する。兄さんのとは違う罪の香りだった。中肉中背で、薄い手のひらには消えない傷がびっしりと刻まれている。熟練した血の香りが下地にあるような気がした。
「もしかしてあの子に嫉妬した?」
と、一語一語噛みしめながら黒木さんに言った。
手から携帯が滑り落ちた。紙の資料がクッションとなって受け止める。
いつもは黒木さんがしつこく私にアタックするのに、私からいけばいつも驚いてしまう。どうしようもない、やれやれ、と手を振り、悲し気な瞳を私に向けるのだ。私の隠した涙を拭きとれないことは分かっていながら、黒木さんはこの関係を続けたがる。
「そんなんじゃないから安心して」いつもの笑顔をふりまく。
あの日と同じ匂いがする。血まみれの匂いだ。私と同人種だと、抱きしめて分かる。近づいて悟る。仕方ない、ですまない。
この人は、きっと私とは違ってすがるものがなくって困っていた。煙草にもすがれない、女には飽きてしまう、あの時いたのは私しかいなかった。私もこの関係にすがるしかなかった。だからこの人はあの時から、私の味方だ。
「私が好きなのはたった一人。それだけは変わらないから」
一瞬、冷たい目線が私に突き刺さった。横目で見てくる黒木さんの瞳に映っている私は今の今までで一番私らしい。久々の私の変な顔を見た気がする。
「濡れてる」黒木さんの小さな呟き。
私の雨で濡れた体が黒木さんのコートににじでいるのに気づいた。茶色いコートがじわじわと私が触れた部分から侵略していく。煙草の匂いを吸い込んで、かさぶたのように覆いかぶさる。
「センカ、君も風呂に入ってきたらどうだい? 今のままじゃ風邪をひくだろ」
「馬鹿だからひいたことないですよぉ」
「そういうことじゃないって」
「なら、どうだっていうんですか?」
「それは、今の君は水も滴るなんとやらで……」ごにょごにょと、黒木さんは言い淀んだ。
と、思えば、ふっと握っていた黒木さんの体がすり抜ける。透明人間を掴んでいたかのよう。気づけば私の腕の中は濡れたコートだけになっていた。前を見ると、黒木さんが屈んで、するっと手から落ちた携帯を拾っているところだった。
一つ一つの所作が裏をかぐわせる。
黒木さんはきっと私よりも罪を被ることが多かったのだろう。だから、その罪の贖罪をするみたいに、私のことを残しておいてる。私の終夜も、黒木さんと同じことをしているだけだ。
「君が想っているように僕はひどく嫉妬深いから、いろんなことを心配してるんだよ」
そうして黒木さんは新たな煙草を箱から引き出し、咥えた。ライターで小さな火を起こして、煙草につけた。灯をくゆらせて、口から煙草を離して、私に向けていたずらにふぅと煙を吐き出す。やにくさい匂いと黒木さんの香りとを私は堪能して、灰色に曇る黒木さんを眺めた。
とっても悪い顔をしていた。
「煙いんですが」と言いつつも、黒木さんの正直な言葉を聞き、これで女をたらしこんでいるのだと冷静に分析していた。
「センカ」と今度は横から幼い声が聞こえた。
横に顔を向けると、まるまるっとした白い犬のようなタオルを持った終夜がいた。私は彼をよく見ようと屈むと、終夜の腕が伸びてきて、私の頭をタオルでわしわしと撫でた。
「ぼくが守るって約束したから」
シャンプーの甘い香りと子供特有の温かさがあった。
ふと、幼いころの希星を思い出してしまう。雨でぬれたあの時のことだ。台風だった。風が吹いて、家が軋んで、それでも私達は笑っていた。楽し気に、笑みを見せて、なんだか恥ずかしげに、私はいろんな心を隠してしまった。
その頃の私の心には荒くなく、そよ風程度のものが吹いていた。今は、どうだろうか。いつしか、大きな歪が出来て、風になって洗濯機に入った洗濯物のように私の心はもみくちゃにされている。
兄にあんな言葉をかけるべきではなかった。兄と別れるべきでなかった。ついかっとなって感情を表に出してしまった。私の緊張の糸はどこにも見つけられなかった。それまで完璧に過ごしていたはずなのに、息苦しいほどに、何もほころびを感じていなかった。
此処は大丈夫だ。何一つ私は欠けるものがない。
「あ、わらってる」終夜が手を止めて私の顔を覗き込む。
終夜は生意気な顔を見せていた。してやったり、とにんまりと笑みを含ませている。少しだけ長い髪は濡れたままでぺっとりと頬に張り付いていた。艶のある雫が頬に伝って、葉末に落ちるように床の資料に落ちた時、すかさずお返しだとばかりに終夜が持っていたタオルを奪い、終夜にかぶせた。がしがしと髪を拭いていく。痛いよ、の楽し気な声も私は聞いてないふりをして、がしがしと拭き続けた。
それから、事務所にある予備の服に着替えて、終夜に冷蔵庫にある適当なものを食べさせた。それすらも終夜はごちそうのように嬉しそうに食べていた。
察するによっぽどきちんと食べさせてもらってなかったのだろう。食べるとお腹がいっぱいになったのか眠たそうにしていたので、ソファに寝かしつけた。薄いタオルケット一枚を終夜にかけて重い瞼が閉じていくのを見守った。
そこでいろんなことの根回しを終わらせた黒木さんが近づき、終夜に唇を尖らせた。
「やっぱり妬いてるでしょ?」
私の一言についに、怒りのメーターが振り切れてしまったのか、黒木さんはそれっきり煙草しか吸わなくなった。
「あなたのヤキモチぐらい背負えないわけないじゃない」
なぜか終夜の前でなら嘘をついても、素直に笑えていた。それが嬉しかった。ここ数年、私は本当に笑ったことなんて一度もない。泣いたことも、ない。あの時怒れていたのは、終夜のおかげだったのかもしれない。
焦げ茶色の髪を優しくなでると、終夜のそれまで押し殺していた「ごめんなさい」という小さな声が漏れる。目は開けていない。多分寝言だ。言いなれた口が勝手に言ってしまうこともある。嫌な口だ。つんつん、と頬を指さすと柔らかい頬は小さく笑った。赤子みたいだ。希星も昔はこんな感じだった。
「少しだけ、そいつと僕と境遇が似てるんだよ」
珍しく黒木さんは自身のことを零し、私は内心驚きつつ、気分が高揚してしまった。
するとすぐに心に何者かが邪魔をしてきた。その正体は知っていた。すぐに行かなければならない。今の私のままでいかなければ、また私は私じゃない私になってしまう。
「黒木さん、この子を少しの間よろしくお願いします」
立ち上がり、事務所を出た。
午前十二時をとっくに回っていた。
雲の上にあるだろう空に浮かぶ小さな点を結んで、家に急いだ。すっかり乾いた髪に再び雨粒を染み込ませて、さらりと滑らせた頬にぺっとりと髪を張り付けさせた。しかし、嫌な気は全くしなかった。むしろ心地よく、体にへばりついた血を洗い流しているようだった。地面を蹴り上げるたびに弾ける水しぶきを全身に受けて、覚悟を決めた。
兄さんと向き合おう。
家に帰り、玄関をそっと開けた。が、そこには兄さんの靴は見られなかった。仕方なく、いつものように庭のベンチに座り、兄さんを待つことにした。雨粒を一滴一滴落ちてくるのを眺めながら、兄さんに何を言って謝ろうかと悩んだ。
これまで喧嘩をしたことはあったが次の日には、自然と治っていた。知らず知らずのうちに喧嘩があったことが消えて、二人の間で終わったこととして記憶の中に流しこまれてしまっていた。ところどころ記憶を覗いたが、どれもこれも関係のルールのへったくれもない、謝罪なんてお互い突っぱねて終わりであった。しかも、最後に喧嘩をしたのは小学校、中学校あたりで、参考にならなかった。
これが終夜の言う、いわゆるルールのない関係なのだろう。
思い出してくすりと笑って、近くにあった雑草でウサギを使い遊んだ。しゅるしゅると蔦を伸ばさせて、枯れさせて、そうしているうちに私の周囲は花だらけになった。もう癖になっているらしい。
兄さんになんと言おうか、そうこう考えているうちに雨粒はひっこみ、雲は流れて、黒は白に明けてきた。まだか、まだか、と朝のすっきりした空気を吸い込み、白けた空のグラデーションを帯び始めた。
結局、その日兄さんは帰ってこなかった。




