ウサギ
この国では、数年前にある事故があったらしい。
『らしい』と言っているのは、私達にはその実感がないからだ。
事故。これが電波などによる、つまりは目には見えない物による副作用によって人々の中に起こった『らしい』のだ。目に見えないもの、つまりは原因は不明といいたいのだろう。ただ電波が最有力候補に出ていることに間違いない。電波の副作用は未だに解明されていないことから言われているのだろう。もっとも私はもっと別に原因があるように思える。例えば政府の陰謀だとか、細菌だとか、新人類だとかそのようなもののほうがロマンがあるからだ。これは私の趣味であるのは否定しない。
この事故が知れ渡る始まりはある人の違和感からだった。その人は意識したら、右手だけ発光するようになったと証言している。その『意識したら』が実はいろんな人にもあって、そこからチカラの気づきが広がった。
そして最終的にはテレビで放送されるまでになった。特集が組まれ、各々のチカラに関してテレビ局が面白おかしくふれまわった。そうした出来事は実は政府はとっくの昔に認知していたらしく、報道がお祭りのようにチカラをアピールした後で、後付けのように記者会見がなされた。どの省だったか、もう忘れた。しかし、その政府の役人がはっきりと告げたのだ。
「『事故』により、国民一人一人に不思議な力が備わりましたこと誠に遺憾であります。つきましてはその力を『ウサギ』と称し、事故の原因を探っていく所存でございます」
何が『遺憾』なのか、何が『ウサギ』なのか、当時の私には分からない。それなのに、この言葉を覚えているのは、当時の記者会見を見て、私は弟の邉と遊んだからだ。
事故により、と私が声真似をして、邉が遺憾で、と続ける。そうして、一緒にあります、と続けてよく笑ったものだ。だからこの言葉に確実性はない。
子供の記憶で、成り立っているこの言葉には今にして思えば確かにおかしな言い回しが存在しているが、私が認知しているものを否定するなんてことはしない。邉と共有しているこの言葉を嘘だと言えば、この記憶自体が否定されてしまう。私の中で輝き続けるこの記憶を消し去るなんて私はしない。だから今でもあの記者会見の言葉は検索せずに、この言葉はこの言葉として覚えている。
そうして幾年が経っていた。
普通は『ウサギ』の弊害が出て来るはずだ。『ウサギ』の大小でいじめられた、『ウサギ』がなくていじめられた、『ウサギ』を誇示するガキ大将にいじめられた。そんな邉が実際に体験した、小規模でどこにでもあるデメリットではなくもっと大きな社会的なデメリットが出てくるはずだ。
このチカラを使って悪さをする輩がでたとか、その悪さをするやつらを撃退するための組織が出来上がったとか、『ウサギ』のせいでスポーツの祭典が衰退したとか。そんな出来事が控えているかと思いきやそうはならなかった。
この『ウサギ』で変わったとすればちょっと変な個性がついたぐらいだろう。勉強ができます。絵が得意です。花を咲かせられます。と、並べることができるぐらいなものだ。
その理由は簡単で、単にこのチカラとってもしょぼかったのだ。
長兄、明日川慎助は一秒だけ電灯などの光源を消すことが出来る。
私、明日川家の長女、染香は花を咲かせることができる。
末っ子の、明日川希星は念写と言ういかにも凄そうな能力があるが、三か月もの間思い続けた物や風景、人でなければ念写できず、能力があると知ったのも最近だったりする。
私達三人だけでも分かるが、即日的な能力ならとてもしょっぱく、少し大きな能力でも負荷がでかく、気づくか気づかないかのレベルの能力が大半なのだ。だから、一生を能力なしで過ごす者もいるし、それを気に負うものも少ない。なければないで、絵の才能がなかったんだと思い悩むようにちくりと気を病む程度だ。
もちろん、人間だからチカラを理由に差別する者もいるだろう。
ただそれは私たち兄妹にはさして気にする内容でもなかった。そう言った団体が時折玄関の戸を叩き、勧誘をしてくるがいつも断っていたし、嫌悪もしていた。全く別世界の住人として扱ったし、なにやらおかしなカルトが始まったな、ぐらいにしか感じなかった。兄弟姉妹はいつもと変わらず、知らんぷりを決め込む一般市民に成りを潜めて暮らしていた。
変化する社会、変わった事実、そんなものありはしない。
確かな事実と、この四人で住んでいる現実さえあればいい。
「要はこんなチカラがあったって、努力には敵わないってことだよ」
兄さんが分かりきったような事を言っていた。その手にある札束を見ると、そんなこと言えた義理じゃないない、と感じていたが内緒にしておいた。
「勉強は努力だ」
そうだろうか。勉強だって立派な努力と言う才能だ、と反論しないで飲み込んだ。
「それと同じだ。筋肉だって運動しなければつかないし、仕事だって真面目じゃなければできやしない。ただ個々人にあるこのチカラはただの個性であって、誇示すべきものではないんだ。ほら、邉は絵が描けるじゃないか。でも俺は全く絵心がなくて、描けない」
「要は努力第一だね」と私は兄さんの言いたいことを代弁した。
兄さんが好きなのはそんな熱血論だった。私は嫌になるぐらい聞いた。兄さんはなんでもいろんなことを器用にこなせたから、努力しても芽がでない気持ちは分からないに違いない。絵だって本当の所、一般人よりは描ける。少なくとも私よりは綺麗な線を描いていたのを知っている。
「そういうこと。このチカラは」
兄さんはその後決まってこう言う。
「ただの個性だ」
ただの、熱血論かもしれない。兄さんなりにこのチカラと、兄さんの秘密との付き合い方なのかもしれない。
嫌になるほど聞いたこの兄さんの言葉は、それでも私は嫌いじゃなかった。それなりに付き合って、それなりに歴史に関与する私達裏に努める一般人は、それでいいと思っている。
変えようと思って私達は秘密を行使しているわけではない。こうして進んで泥沼にはまっているのは『それなり』に理由があるからだ。ただの日常に、一滴の非日常という意味を見出し、泥をかぶりながら、生きていたいからだ。感情に納得を求めるために私達一般人には一般人なりに生きているわけだ。
ふと思うが、宗教や、このチカラやらに頼っている彼らと私達とでは守るものや信じる者が違うだけで、根本的には同じなのかもしれない。それを邉や兄さんに言えば怒られるかもしれないが、私にはそう思えてならない。外に害をなさないだけで、そんなに違わない。
「僕は守る者のために頑張るんだ。強くなりたいんだ」
それでも、何か違うものがあるとしたら、私はこのチカラを誇示しない弟の邉が言った、この言葉に乗っかりたい。
私達は力などいらない場所を守るためにチカラを持ち、生きているのだ、と。
つくづく甘い考えであるだろうが。