味方さん
少年が救急車に運ばれるところを遠目から確認すると、私はひとまず事務所に向かうことにした。兄の交渉を果たさなければならないからだ。
これで私がすっぽかしてしまったら、それはそれでこれから提供する情報の信用が得られなくなってしまう。信頼を得られなければ、探偵なんて終わりだ。身近であればあるほど、信用は大切だ。
駅近くの汚れた廃ビルの中に探偵事務所はある。
そこに私は行くと、案の定黒木さんが暇そうに資料を読んでいた。
探偵事務所は相も変わらず整理がなっていない。あちらこちらにこれまで集めたものが放置されている。ここに客が来ることが少ないためこの個人情報広げっぱなしでも何も問題が起こっていない。
奇妙にも、泥棒にも、情報を狙う探偵にも、果ては殺し屋なんかも、私がここに来てから訪れたのを見たことがない。ここには裏の情報が隅から隅までそろえてあるというのに、彼ら裏の業者は近寄らない。
何か黒木さんに圧があるのか、みな彼に近づこうとはしない。裏にとっての触れてはならない人なのかもしれない。
黒木さんは資料に埋もれている。周囲にはいくつもの資料のタワーが立っていて崩れるか崩れないかの絶妙なバランス感覚で佇んでいる。机は事務所の中心にあるが資料で埋もれて見えない。私の机だけは綺麗な顔を見せているものの隣の机の資料が押し寄せてきているから、資料の波にのまれるのも時間の問題だ。
一回資料を片付けたことがあったが、ものの数日でこうなるので諦めた。おおよその原因は黒木さんだ。資料を読み漁れば知らず知らずのうちにタワーが積みあがる。天才的なその荒らし様に、もう何をしても無駄なんだと悟ったのだ。
「黒木さん」
呼びかけてみるが、反応がない。紙を読み込んでいる。
手に持っているものを覗き込んでみると、『超能力』の文字がやけに際立っている資料だった。
「何を読んでるんですか?」
もう一度呼びかけるが、全く動かない。瞳も動いていない。ある一点をただ茫然と見ているようだ。
さすがに何も反応がないと私だって苛立つ。それに黒木さんがこうまで固まる理由が思い当たらない。いつもだったら飄々と私に冗談で返してくるはずだ。これも冗談だとすると、更に質が悪い。
魔が差した。
黒木さんの持つ紙を取り上げる。あ、と黒木さんが驚くと、私は紙の中身を見る。
そこにはずらずらと裏関係の人の超能力が書かれていた。名前と超能力と裏稼業の仕事がセットで几帳面に表にまとめられている。見ている方がうっとなるほどの膨大な情報がせめぎあっていた。しかも細かく文字も小さい。
きっとこの中に私の兄弟妹の名前もあるのだろう。
意地でも見つけたくなり、目を凝らして名前をなぞっていく。目についたカ行の段から、順々に頭の中で読み上げる。
神立、木野屋、紀ノ、既払、喜来……
「そんな突然取らないでもらえる?」黒木さんは私の手から紙を取り上げた。
「いいところだったのに」
「これは、個人情報なの。いくら君だからって言ってまず僕に許可を取ってからでなければ見せない」
「許可を取ったらいいんだ?」
「許す!」
「じゃあ、見せてください」手を差し出すと、黒木さんが苦悶の表情を浮かばせた。
いつも飄々としている割に追い込まれると、心底困惑する表情を見せる。それに私が拒否すると悲しそうに瞳を濁らせる。
そんな黒木さんが面白かった。おちょくっているのが一体どちらなのか最近は分からない。最初の頃は、黒木さんのペースに乗せられっぱなしだったけど今はそうではない。
「今は、無理だ」黒木さんが珍しくデスクの引き出しに丁寧に片付けた。
きちんとファイリングされた資料は、デスクの引き出しにある。それに私が手をつけることはない。情報の中身も知らない。黒木さんにとって大事な情報はそうしてしまっている。
「それより、何のようだい?」
「あ、そうだ。黒木さん、ある情報がほしくって」
そこで黒木さんの手が私の前にかざされる。手慣れている動作に、この動作はいつも女性にやる手なのだと悟る。その中の一人が私なのにひっかかる。
黒木さんの手はがさついていて、うっすらとだが傷が見える。切り傷が幾重にも重なり治った跡だ。手の豆がつぶされて残っているように濃い茶色の皮膚が張り付いている。黒木さんも昔、野球男児あたりで努力していた苦労人だったということだろうか。それとも裏でやんちゃしていたのだろうか。後者だろうな。
「当ててあげよう」ふふん、と黒木さんが生意気に鼻をならす。
「その余裕なんですか? 気持ち悪いんですけど」
そこまで言わなくても、としょげる黒木さん。でもすぐに立ち上がる。
「最近活動的なあの掏りグループのことだろ。そろそろ情報を欲しがるんじゃないかなって思ってたんだよ」
「 ……やっぱり気持ち悪いです」
ガツン、と重い言葉が黒木さんにのしかかる。黒木さんは、それでもめげない。重い言葉を抱えてなんとか立ち上げり、私の冷たい視線に耐え忍んだ。挑戦的な目つきに私も射すくめられる。これは膠着状態の幕開けだ。
どうすることもできず黒木さんと私は睨みあう。視線は繋げられないけれど、飛び交う睨みは火花をあげている。
これでは先へ進めないので、しょうがなく私が逸らして、ため息をつく。勝った黒木さんはガッツポーズをとり、そうしてコートのポケットに手を入れるいつものスタイルへと戻った。
「で、黒木さんその情報はどこにあるんですか?」
「もう用意してある」
黒木さんはデスクの上に積んだ資料の山から封筒を抜き出す。A4サイズの封筒だ。いつも通りの薄さだ。ここにあの情報量が秘められていると思えない。だからいつも貰うとすぐにこの中を覗き見てしまう。ずらずらと文字と写真が貼ってある。
掏りのグループのリーダーは少年だった。そこらへんにいる男の子だ。先ほど出会った少年と大差ないあどけなさをまとっている。澄んだ瞳は、掏りのリーダーであるのを悟らせない。
家の情報もある。ご丁寧に家の構造も添えられていた。その情報をまとめて、三枚におさまっている。
三枚におさまるなんて、人というのはなんて情報の薄い生き物だろうか。
しっかり確認すると、「ありがとうございます」とお礼を言った。とりわけ冷たい瞳でポーカーフェイスを決める。そうしなければ、この後のいつものこの人の言葉に耐えられない気がしていた。
今は聞きたくない。
「別にいいよ。あの日、あの時、言ったじゃないか」
赤い地獄から救ってくれた後、黒木さんは探偵事務所に私を連れ込んだ。その時は女好きだとか知らなかったから、この人に言い寄られる耐性もついていなかった。この人の甘い言葉も、男の色っぽいしぐさも、私という立場を崩壊させるには十分な要素をはらんでいた。
替えのコートを着せてもらって、ココアが入ったマグカップを手渡された。足元の床が見えないほどの資料は紙で世界を埋め尽くす勢いがあった。
足を動かすと、紙がまとわりつくようだ。ここから逃げられない、鎖を絡ませているようだった。罪がしがみついてくるようだった。
不思議と悪い気はしない。
殺した人が幻覚となって目の前に現れることがなかった私にはこれぐらいがちょうどよかった。
事務所のソファに座り、黒木さんがあーだこーだと私のためにあくせく働いて、赤い地獄の後始末をする。
その後私の前に来て、膝をついた。その行動は子どもに言い聞かせをするお母さんみたいだった。私と視線を合わせるためにやったのだと知っていたけれど視線が合うと胸が高鳴った。
この人はいわば私の救世主で、罪という鎖をつないでいる要だ。私の命綱を握っている。この人がばらせば、私はすぐさま警察に捕まるだろう。
どうすることもできない。言うことを聞くしかない。どんな要求でも私は飲もうと思っていたやさき黒木さんは、安心させるための笑顔を作った。
「大丈夫」
この後の言葉を黒木さんはずっと言い続けてる。
「僕は君のためなら何でもする」
黒木さんのいつも通りの胡散臭い言葉も、今は感傷に浸らせる要因になる。今までこの人に頼ってばかりだった。
この人は私が傷ついているときは傍にいた。しかし、私に迫ることはなく、ただ飄々といつもの態度をとり隣にいる、そういった存在だった。
まるで……家族のように。
いや、この人は違う。どれだけ私を分かってくれていようと、血のつながりも家族のくくりの中にもいない。私がこの人に見せるのは、ただ傍にいる人という事実だけだ。
「なんでそこまでしてくれるんですか?」
あの時の私は震えていた。
握りしめたマグカップの中のココアは水面を揺らし波紋を広げる。丸い楕円がいくつもできては広がり、ココアの海は津波をつくる。押し寄せる濁流に私は流されてしまわないように気をしっかりと持った。
噛みしめる笑顔がどこか嘘くさくって、でもその笑顔は誰にも私の本心を悟らせなかった。ポーカーフェイスの始まりだ。私の感情を押し込めた。
「こういうのって代償があるんですよね。私は何をすればいいですか?」
ぽかーんと黒木さんの口が開く。目の前の私の言い分が分からなかったようだ。
もう一度言おうとするも、手のひらをかざされた。茶色いやんちゃした跡のある手のひらが私の方へむけられ、自分の発言が止まってしまう。
あまりにも兄さんと同じような手だったから驚いて踏みとどまってしまったのだ。
「僕は君に何も要求しない。これは僕のただの気まぐれだから、代償もいらない」
「なら、私はどうするればいいんですか?」
「何もしなくていいって」
「そんなの、無理です」
自身の命の価値や自身の身の価値なんてとっくにないものと思っていたから、私はどんなことでも耐えられると感じていた。
目の前の男に何をされても何も言えないのだ。なぜならとっくの昔に私の手は汚れてしまった。これからこの罪をどう背負っていけばいいか分からなかった。罪が重かった。重いばかりで何も感じない自身の罪をどこに置くべきか判断しかねていた。
黒木さんは私のポーカーフェイスと発言に困ったように首を傾げた。どうしようか、と何度か逡巡した後、黒木さんはぽん、と手をついた。
「じゃあ、ここに来ればいいよ。探偵事務所のバイトとして雇う。これが君の対価ってことでどう?」
封筒を握りしめ、事務所にいる黒木さんを振り返る。
紙まみれの白い事務所にはあれから誰もやってきていない。探偵としての仕事を請け負う場合は街の喫茶店で大抵打ち合わせをしている。
ここに私が来る意味なんて結局のところなかった。黒木さんが傍にいる、それだけだった。
「いってらっしゃい」
くるくると回転いすに座り黒木さんは回る。目だけはこちらを向いているのを見ると全く目を回していないようだ。
よくやるなあ、なんて今はこの人の奇行にちょっとだけ癒された。そこで一旦止まり、茶色いコートがひらりと舞う。止まった時黒木さんの黒い、底が見えない深淵をこちらへと向ける。
「気をつけてね。きっと今回はこれ以上なく厳しい状況になる」
「それ、どういう意味ですか?」
「ただの予感だよ」
この間と同じことを言う黒木さんに若干の不安を感じつつ、それでも和む存在にほっと一息をつく。
きっとこの人はいたずらに私の不安を掻き立てたいだけだ。いつもそうだ。私に悪戯を持ちかけるのが、この人は好きなんだ。私に迷惑をかけてばかりいる。でも、それはいつも繋がっていることを確かめられて、安心させる。
「行ってきます」
黒木さんから目をそらしつつ、私は事務所を後にした。
家に急ぐ。兄が帰る前に帰らなければならない。兄の仕事は早い。
だが、内容は丁寧だ。いつだって裏から兄の情報は出てこなかった。それがどれだけ兄さんの仕事が丁寧か分かる。
表ではポンコツな兄は、裏の仕事だと最高級のホテルのコンシェルジュのような身のこなしをする。その身の振る舞いは美しく、芸術と同等だ。
黒木さんの情報筋によれば、兄さんの金庫破りや空き巣に感嘆の意を唱えている者も少なくないらしい。昔の荒れ具合といい兄さんは、裏となれば人格が変わる。
早くて丁寧で芸術的。
どこのネズミ泥棒だか。
事務所に来る前の兄の険しい顔つきが鮮明に頭に浮かぶ。浮かんだ途端不安で心が押しつぶされそうだった。
いつもと違う兄、そしてそのまま泥棒をしにいったのなら、何かしらミスを犯す可能性がある。
すぐに兄の顔を見たかった。早く彼を見て安心したい。いつも通り返ってきて、この情報を渡すだけの仕事だ。いつも通りだ。それなのに、ずっと胸騒ぎがしてならない。いつもの倍近くする。
家に早く着かなければ、と思い足を速めるが、家に帰って兄さんを待つよりも、兄さんから携帯がかかってくる方が早かった。私は足を止めて、すぐに出る。着メロが鳴った瞬間にとったことで通話に出た瞬間兄に驚かれたが、気にはしない。
「兄さん? どうしたの?」
いつもなら、電話なんてかけてこないはずだ。
二、三秒無言になり、兄は咳払いをして無言を破る。「あ」とか「その」とかを多用するから私は、言葉尻が気になり仕方なかった。
「だから、どしたの?」
もしかしたら、今いる杜撰な空き巣犯と鉢合わせしたとか。
「染香、ごめん」
「どうしたの?」
「どうすればいいか分かんなかったんだ。こんなの初めてで」
「だから、どうしたのって、ちゃんと言ってよ」
声色が焦っていた。焦りが私にも伝染する。私の携帯を持つ手が汗ばむ。背筋にそっと冷汗が垂れる。
「空き巣をした家に子どもがいたんだ」




