女運
でろでろに崩れている兄さんがいた。まさにでろでろぉっと。
電話で対応した時も支離滅裂とした受け答えをしていたけれど、実際に見てもこんなに酔っているのなんて久々に見たのではないだろうか。
落ちこんで酒を浴びるように飲むのも大概にしてほしい。
相手をするのは私達なのだから。
今日応対しているのは邉だ。迷惑そうに酒の席を共にしている。
邉の傍らに置かれているジョッキは一つしか見当たらないのに対して兄さんの方は何本もの空っぽになったジョッキが置かれていた。店の人もジョッキを片付けるのが追いついていない。店の方が忙しすぎて、ジョッキ回収は諦めているようだ。
泡がどろりとジョッキの中を伝い、底に薄くたまった琥珀色の液体と交る。
私は自分のバックを席に置き、邉の隣に座った。この店特有のアンティーク染みた木の椅子が軋む。足元がおぼつかない。
邉が、ようやく来た私に安心した表情で出迎える。
「よかった姉さん。俺これから仕事が入ってて」
邉はマスクをして、パーカーのフードを被って席をたった。その様子を見るに、裏に関わっているものだろう。
「はいはい。あとのことはお姉ちゃんに任せていってらっしゃい」
「ありがとう、姉さん。埋め合わせはまた……じゃっ」
足早に席を離れていく弟の後姿を見送る。その後ろ姿さえも、やはり他の人の雰囲気とは異なっている。手足が細いが、肉付きはしっかりしている。ただ、少しだけ背が低いところが難点で、雑誌に載っているモデルにはなれそうにもない。そうじゃなければ今頃どこかにスカウトされていてもいいぐらいなのに。
私は、弟がああいった裏稼業に従事するようになって、表の華やかなものを勧めるのは早々とやめてしまっている。
「せんかぁ」
アルコール臭い息をどっと吐き、兄さんが起き上がる。
電話越しに聞こえてきた兄さんの酔いつぶれ声と寸分たがわない原寸大の酔っている兄は、ちらりと見るだけでも惨めだ。
「はいはい。なあに、お兄さん」
「昔は、兄ちゃんって呼んでただろお前もぉ、邉もぉ、そう呼んでくれよぉ。お兄ちゃん寂しいじゃないか」
そんな涙声で言われると、なんだか気恥ずかしい。
「だいぶ酔ってるねぇ」
さらりと私は受け流して、店の人にチューハイを頼んだ。私も酔いつぶれない程度に、酔いたい気分だった。
久藤君や弟の動向、それに黒木さんの予感、全てが合わさって頭の中でもみくちゃに混ざって、私のおもちゃ箱が整理整頓できない状態だった。いつもよりも脳はパンク状態で、こんな時は一気に噴き出そうになる。衝動的に血に魅入られてしまうほど、危険な状態だった。
「聞いてくれよぉ」
底に薄くしか張っていない最後の一滴を兄は豪快に飲み干した。
「聞く聞く。聞くからそんな情けない声出さないで。我らがお兄ちゃん」
「俺さ、俺ね、好きな人ができたんだ」
その時点で、またかと心の中で悪態をついた。
「で、一緒に食事行ったり、連絡先交換したりさ、何度か二人して遊びに行ったりしてさ……」
結果だけ言うと、この酔いつぶれ方を見るにまたふられたのだろう。毎度のことながら、兄さんは一途すぎて重いのだ。
せっかく兄さんはそこそこ凛々しい顔つきをしていて、女性を惹きつけるのだから、それを応用してさらりと女性を焦らすような高等テクニックが身につけばいいのに、全くもってそんなことはしない。
ここ数年こればっかりだ。
いつもひどい振られ方をしている。いいところまで行って邉を見て鞍替えされたことも何度となくある。いや、最終的にそれが一番の鬼門だった。だが今回のように、邉も見ずにこっぴどく振られることも多々ある。そのたびに邉と私は付き合わされる。
チューハイが来たのでそれを受け取り、ちびちび口に含ませた。口の中で梅のすっぱさとアルコール特有のくらりとくる脳を揺らす感覚が同時に襲いかかる。
これで少しだけストレスが和らいだ。
兄さんの説明は続くけど、ほぼほぼ予想通り。さて今回はどんな振られ方したのやら。
「前回は『花を毎回プレゼントするなんて気持ちわるっ!』って言われたから、今回はもっと重くないようメールを送ったんだ。でも、重いって……」
「兄さんのことだから、長文メールをいちいち送ってたんじゃない」
「なんでわかんだよ」
「ああ、ありがち、しがち、やっぱり重い」
とほほぉと、気持ち悪い効果音を発しながら兄さんがまた頭を机にぶつける。そのせいで兄さんの額はアルコールで赤くなった頬よりも赤黒い色が広がっている。そうして持っていた空っぽのジョッキの底を何度も机で叩く。周囲の居酒屋のざわめきがなければどう見ても変人奇人の類に見える。
こうしてみれば、私の周囲の男はどうしようもない男で並べ立てられている。重い男だと言われ続け女運がない兄さん、女たらしの黒木さん、ミステリアスな黒木さん、脅された相手に好きだと言い募る久藤君どうしてこういう男ばかりなのだろうか。唯一邉だけがまともに思える。
私も相当だけど、なんでこうも寄せ付けるのだろうか。もしかしたら、希星の好きな人もこの中に並べられるほどの変人奇人の類の人なんじゃないか。
ほんのりと不安を浮かばせると、チューハイを飲むペースが上がっていく。
「せんかぁ」
最初呼ばれた通りに兄さんの愚痴が続く。かわいい子だったとか、いい子だったとか、でもちょっと悪口が過ぎる子だったとかいつもの元カノをべた褒めした言葉を付け足して「俺って重いのかな」と締めくくられる。
なんだかかわいそうになってくる。
「重くない重くない」
だから、いつもその言葉で兄さんを元気づける。励ましたって女運がないこととかはどうしようもないのだけれど、兄さんには頑張ってほしいと思ってしまうのだ。
「重くない?」
兄さんがまた涙声に聞いてくる。もう空になったジョッキを何度も口に運んでいる。泡もすっかり姿がなくなってつるっつるになったジョッキは、正真正銘の空で、それを口に運び飲んでいるんだから、空気を飲んでいるようにしか見えなかった。
虚空を掴んだって、飲み込んだって、全ての感情を押し込めたって私の中の何かはいつもうごめいている。どろどろと闇をはらませて、血の鮮明な色を放ち告げる。
『必ず奪うから』
耳に残った言葉を払うため、耳を手で薙ぎ払った。
そんなことできるはずがない。
目の前には、私のことなんかお構いなしに酒を飲み、飲んだくれる兄がいる。彼だって家族のくくりに入っている。
おいおいやめてくれよ、面倒くさいよ。相手すんのも疲れるんだよ、なんて心の闇の声がアルコールに紛れて流れ出してくる。
目の前にテロップが過る。
此処にいる兄は本当に必要なのか、と。
たまに思う、兄がいない世の中を。私はもっと自由に生きれたのではないか。私が私である理由はむしろ、生きる意味の理由の枷にしかならないのではないか。
確かに、兄や弟、妹がいて、いつもの日常を送るのは楽しかった。このためなら、何を犠牲にしてもいいとその瞬間だけは思うのだ。
しかし、そうでない時の方も多かった。こうしてお酒の相手をしているとき、喧嘩をしているとき、何より、家族のためと裏から根回しをするとき、いつだって何かがつきまとう。
自身のウサギが心の中を巣くい、心の中で毒を生成する。そうして体中に巡り、自身を殺す。そんな妄想をしてしまうほどのしつこい自己嫌悪と気持ち悪さ。気恥ずかしさ。どこにもいけない焦燥感。
今もそうだ。
いろいろなことを抱えて、ため息をつく。このため息ははたして私が抱えるものなのだろうか。いつまでこの悲しみやどこからかくる不安を押しとどめられたら良いのだろうか。一体いつまで、秘密を守らなければならないのだろうか。
迫りくるのは恐怖と家族というくくりの疑問だ。
兄は何も言わない。もしかしたら私のやってることや昔やってしまった罪を打ち明ければすんなり受け入れてくれるかもしれない。弟も妹は本当は気づいていて、私を気遣っているのかもしれない。もしくは話したら受け入れてくれるかもしれない。
夢見事だとは理解している。でも早く楽になりたい。
家族というくくりがつらく苦しいときがある。理由としたものに、大きさに押しつぶされそうになる。不安も恐怖もひっくるめたこの家族が憎くなる。
兄の頭上に掲げられたテロップを読み上げたくなる。
『そんなことどうだっていいだろ。なんでお前なんかのお酒の相手をしなきゃならないのだ』
どんどんテロップは続く。まだまだ長文になる。兄の心配して送られてきたメールのように、どんどん長くなる。
『私はお前らのためにいくら苦労をしょい込んでいると思う』
それこそエゴまみれの文章を並べる。
どこをどうみてもエゴだ。私のやっていることも、自身が手を汚した理由も全てエゴだ。それなのに、どうして兄に対して憎い思いがとめどなく流れてしまうのだろうか。この関係がどうしても息苦しく感じてしまうのだろうか。
怖い、苦しい、言い出せない。でも気づいてほしい。一緒にいてほしくない。全て取っ払ってしまえば、それはそれで気が晴れるのではないだろうか……なんて出来もしないことを思い浮かべる。
私の口からは零れ落ちる。
「兄さん、お願い」
それでも、兄さんや弟や妹に願ってしまう。
「無事でいてね」
襲い来る火の粉は全て払い落としたい。だが、私だってできない時がある。緊張の糸がぷっつりと切れてしまう時があるのだ。そんな時に何かあれば、何も対処ができない。
ぷっつりと切れてしまうのは、きっといつもこんな家族なんてという気持ちからくる不安だろう。理由がぐらついてしまうのだ。それも恐怖なんて些細なことで、だ。
まるで一瞬にしてなくなって小さな命の灯が点ったあの日を思い出すみたいに、不安になる。次にあの日が来るのはいつなんだろうか、と疑ってしまう。
「染香?」
私の様子が変になったのを悟った兄さんはとろりとした目を向けつつ、頬を引き締め背筋を伸ばした。仕事帰りの着崩れたスーツはくたびれたままだ。
そんなことにも、ため息をついてしまい、目になぜか涙が浮かぶ。熱いものが落ちそうになり、お得意のポーカーフェイスで笑みを浮かばせうつむいた。顔を手で隠す。
どうやら私も珍しく酔っているらしい。
机にころりと小さな種が転がっていた。
私のウサギだった。
「兄さん。多分、兄さんの他にこの街を荒らしてるやつがいる」
いじけた種をちょいちょいとついてやりいじめた。本当はこのこと、兄さんに教えないつもりだった。少しだけいじめたかった。でも、やめた。不安を抑えきれないのだ。もうすぐそこに来る何かに、黒木さんの予感に、久藤君の恐怖に耐えきれない。
「だから気をつけてね」
無事でいてほしい。でも、本当は無事でいなくってもいいのかもしれない。家族なんてくくりを本当は壊したいのかもしれない。
でもね、そう考えると嬉しさからか恐怖からか涙が堪えきれなくなる。せき止めていた感情が一気にあふれ出して、熱い何かをぼとぼととウサギに降り注がれる。
種は芽をだす。でもそこまで。私は手で種を摘み取り成長を止めた。
『これをばらされたくなければ……』
久藤君、そんな交換条件ってない。ずるいよ。あそこで、キスぐらいしてしまえばよかった。それなら忘れられたかもしれないのに。
ウサギが発症してから、どんどんこの力は大きくなっていく。今なら、他人の体に毒を発生させることだってできるかもしれない。この力は成長している。私の罪やストレスや、感情とともに。切迫したことから、感情から生まれるのかもしれない。だとしたら、私のウサギは、なんて正直なんだろうか。
私の感情もあの時以上に大きくなっている。それが怖い。罪が怖い。私が怖い。自己嫌悪が怖い。家族が怖い。久藤君が怖い。なんだかんだ付き合ってしまうこの緩い関係が怖い。
全部壊してしまいたい。
衝動が抑えきれない。
「ああ、分かってるさ」
兄さんの一言でまた一本、首にかける縄が増えた。
二人ともふらふらしていた。あっちへいったりこっちへいったりして、もう歩けないぐらい酔っていて、でもどっちも意識だけは鮮明だった。はっきりと「そういえばあそこの家はこういうとこで、ちょっと難しかったな」と裏のお話を冗談交じりにした。
「義賊というらしい」
私達のことを黒木さんが笑いながら言ったことを私は話した。
黒いアスファルトを蹴飛ばして彼の話をする。苛立たしい彼の顔は、今はどうだっていい。
「悪い奴を倒す賊のことを義賊っていうらしいね」
兄は私の言葉に「そんなことないさ」ときっぱり言い張った。
「現代はどこにでも悪さをするやつがいる。その程度が違うだけだ。
嘘をついて自殺に追い込むやつもいる、ネットで誹謗中傷をぶつけるやつも、人を唐突に殴るやつも、理由をもって殴るやつも、市役所でどうでもいい苦情を言い張るやつやストレスを晴らすためにコールセンターにいちゃもんを付けるやつだっている。嘘をついていびって他人に暴力をふるうやつ、ふるっているのを見て見ぬふりをするやつ、傍観して何もしないやつ。何かをすることを諦めたやつ。
誰でも悪いのさ。悪いのが蔓延している。悪くないと生きられないから。生き残れないから。悪はこの世界においても常識になっている。
それを俺たちは勝手に自分たちの良い悪いを判断して裁いてる。俺たちの方がよっぽどの悪さ。エゴの塊さ。俺たちは義も何もなっちゃいないただの悪党さ」
歌うように兄はお土産のお菓子を大量に抱えて、ふらふらと語った。そんな兄の語りを私は何気なく聞き、きっと何年後かにまた思い出して嫌いじゃないなと頷くのかもしれない。
なあ、と今度は兄が話す。
「まだ好きか」
久藤君の交渉と重なる。
好きなものが何が、なんて私は答えない。答えてはいけない気がした。誰が、とも答えてしまえば私は死んでしまいたくなるぐらいの痛みを抱えてしまうから想像しないようにした。
でも酔った勢いで話してしまうのもいいんじゃないかなとふと思った。
こくんと首をゆっくりと動かす。
「そっか……」
ふぅともらすアルコールの匂い。雨が降りそうなきまぐれな空。私は雲で覆われたそんな夜空に願った。でもどこにも雲がなくって今日は快晴。星が燦燦と輝き月がその残酷な灯りをともしていて、もやもやとした気持ちを照らし続けた。




