男運
うんざりする。
朝起きて、一限目の授業を出席するために家を出るとそこには久藤君がいた。久藤君は待ってましたとばかりに笑顔で出迎えてくるのだ。
先日あれほど拒絶しても彼には分からなかったらしい。案の定というか、なんというか……朝のバイトで早くに家に出る弟、高校へ行くための電車の時刻に間に合うよう家を出た妹、最後に市役所に向かうために出勤する兄に久藤君は目撃された。そして、彼らはみな一様に温かく私に向かっていうのだ。
「姉さん、久藤が待ち構えてる」
と、朝に会えた友達に素っ気なく挨拶して立ち去る邉。
「お姉ちゃん、彼氏って言い張ってる人が待ってるよ」
と、言葉を残してにやにやと走っていく希星。
「彼氏がいるぞー」
と、最後に兄さんが口に笑みを含ませて出発した。
どういうわけかそこまでして私と久藤君との関係の認知を曲げたいらしい。途中から面倒くさくなって、否定することもしなくなった。
久藤君の外堀を埋める用意周到さはここで終わらない。
それから終始私につきまとい、授業も同じ、移動も同じ、昼食も亜希ちゃんが気軽に彼を受け入れてしまい、三人でご飯を食べるはめになった。
私はその隙のない二段構えに若干の冷汗を感じつつ、うっとうしさに心を濁した。
全く久藤君を見るたびにうんざりする。
さすがにここまでくると周囲の目以上に私の気持ちも騒がしくなる。とりあえず彼の心情を察するのが恐ろしい。
そもそも彼と出会ったのは、小学校のあのグラウンド以来ないはずだった。しかもあの時やったことと言えば、私が彼を脅したことぐらい。脅し文句と言えば、「あなたの中に毒の種をまいた」みたいなことだった。それから時を経て弟と友達になり、私を噂から庇い、「好きだ」と言い寄る。この心情の動きが分からない。
そしてなんだかんだ知らないうちに外堀を埋めて、亜希ちゃんでさえ、
「で、染香ちゃんはいつ久藤君くんと付き合うん?」
なんて私に話しかける始末。
「あいつの、素を知らない亜希ちゃんは気軽だなあ」
亜希ちゃんにはぼかしたが、この態度はさすがにきつい。久藤君にも発破をかけるが、こいつは分かってくれそうにもない。そもそも私の意思なんか聞くつもりはなさそうだ。
一日私の隣にいて、私に話しかけてきてストレスもかかる。ここ最近邉の兄さんの秘密への気づきと黒木さんの忠告であまりにも消耗した私の精神は限界だった。
亜希ちゃんと別れた後、ついつい久藤君を私は睨みつけてしまった。いつもはそんなことはせずポーカーフェイスを返すのだが、もうたまったもんじゃなかった。
好きだとか、愛だとかそういったものは黒木さんで十分だ。それを他の人から見せつけられるだけで吐き気がする。
「そんな目で見ないでくださいよ」
それなのに、久藤君の反応は軽いものだった。
大学内の陰になっている場所。外の喫煙所の傍で私たちは向き合う。
漂うのは今では珍しい煙草の匂いだ。何年も前に取り壊しが決まっている喫煙所には黄色いテープや薄赤くなったカラーコーンが敷かれていた。黄色いテープはただれたように垂れている。ほんのり香るやにくささは未だに喫煙する人が内緒でこの場所に訪れることを伝えている。
そんなこと今はどうでもいい。
亜希ちゃんを送った後、久藤君を巻こうにしても普通の方法だと簡単に久藤君はついてくる。鬱陶しいし、やる気もなくなる。久藤君を巻くには確かに黒木さんに教わった方法をしてやればいいが、こいつは一般人だ。私が裏の手合いにいることを悟らせるのもどうかと思う。
仕方がなくこうして二人っきりで話せる場所まで私が足を運び久藤君を誘導させた。
「ここ二人っきりになるにはいいところっすよね」
久藤君のその言葉にぞっとした。背筋が凍り、体が固まる。そうなると一体どちらがどちらを誘導させたのか分からなくなってしまった。
誘導させられたのかもしれない。
その心の中の一言で混乱してしまう。
「もしかしてお姉さん、俺と話したかったとか?」
「それはない」
でも、これだけははっきりしている。私はこいつのこと心底嫌悪している。友達になろうがなんだろうが、邉をいじめていたことは変わらない。邉に『久藤君を嫌う理由』を置くのは間違っているだろうが、それでも譲れないものがあるのだ。
私はこいつが苦手だ。
「とりあえず……」いろいろ頭の中を整理して、私から離れてくれそうな言葉を探す。
すると、「とりあえず?」と久藤君も頭をひねっていた。どことなく笑みを含ませているあたり何かまた考えていそうだった。
「デートする?」
久藤君が次の言葉をひねり出した瞬間何もかも弾け飛んだ。
デート。
そんな単語どこから拾ってきたのだろうか。私がしたかったことの反対を行かれ、さらには私の反応お構いなしに私の手を取ってきた。
瞬間、血で濡れた私の手を思い出した。
この手は誰かを手にかけるなんて容易なんだ。この手で誰かと繋がれるのならば、その誰かと血と鎖の印を持っていなければならない。罪の印がこの手には宿っているのだから、それ相応の覚悟がいるはずだ。
だからこの手が取られるということは、罰を相手に与えなければならない。
「久藤君」
恐ろしく冷たい声音が私ののど元から零れた。
雨足が聞こえてきそうな昼下がり。
雨が降ってきて私の手をぬぐおうとも、私の手は雨では落とせない汚れがあった。
自分でも驚くぐらい冷たい思考が瞬時に蜘蛛の巣のように張り巡らされてる。目の前の男を排除しようと記憶の欠片達は訴え続ける。私はその欠片を手に取り、掴まれた手を強く握る。
途端、久藤君から「いたたたた」と悲鳴が湧き出てきて、思考が滞る。
「痛い痛い。痛いって、お姉さん」
どういったわけか、彼は口ほどに痛がってもおらず、どちらかと言えば嬉しそうな悲鳴に聞こえた。
彼の薄っぺらい体躯に、平らな手のひら。ぱさぱさと乾いた手は、やはりあの水たまりでバンドエイドを渡した手のひらと酷似していた。
見上げて、唇をかむ。なんだか悔しくなって、より一層鼻先に血の香りがまとわりつく。
今はしない。あれからしないと決めていた。あれっきりだ。私が血で自らを洗ったのは、あれで最後にすると強くあの時決めたのだ。
「デートしません?」
「しない」
ぱっと、彼は手を離した。と思えば、体を屈めて私の髪に手をやる。さらりと彼の手から私の髪が零れ落ちる。濃い茶色の細い髪。染めていないから、どこも痛んでいない純真無垢の証を触れられる。
黒木さんと手つきが同じだ。女慣れしている。
「触れないでくれる」意地悪く声が濁る。
「怒ってるのはわかるんですよね」
「なら……」
「でも、怒らせたいというかなんというか」
物好きだし、より気色悪い。一体久藤君はどこへ向かおうとしているのかはっきりもしない。この手合いが怖い。交渉もできないし、心の在り処も分からない。脅しの材料を見せてもすぐに材料を無碍にしてしまう。
どっとのど元に何かが這いずってくるのを感じた。重い鉛の痛みだ。ストレスの圧力がむせ返り、口から、はあと、吐き出される。
「その、ため息もいいなあって」
セリフ全て甘々の直球だが、私にとっては苦い汁にしかならない。全て吐いてしまうぐらい苦いものだ。
「ねぇ、お姉さん。交渉しましょう」
「交渉?」
「俺、知ってるんだ」
明らかに違う声色にドキリと胸が跳ねる。そして彼は私の耳元で囁く。
「あんたが……」
私にとってはいらない事実だった。
その悲しい事実を、ひた隠していた気持ちを、脳に染み渡らせるまでに時間をかけた。それほどまでに認めたくないもので、私の抱えている痛みの原因を思いがけず知らしめられる。
忘れようとしているのに、今さら掘り返されるなんて思っても見なかった。最近は、隠せていると思っていたのにいつから気づいていたのだろうか。
「や、めて」
苦し気に言葉を紡ぐのが精いっぱいだった。息を吐くのが苦しくなる。
「このことをばらされたくなければ、今からデートしましょ」
私の反応なんかほっぽって、すぐさま手を引く。平べったい久藤君の手のひらが冷たい。熱い感情をすぐに隠そうにもぜんぜん体温は言うことを聞いてくれない。私の体には幾重にも鎖が巻き付いていてじゃらじゃらと重くのしかかっている。早くも揺るがされた覚悟に動くこともかなわない。
「どこ行こっかな」
なんて、彼は楽し気に言っているけど、一体どこへ行くのだろうか。少しだけ不安をにじませて、いつものポーカーフェイスを忘れ、唇を噛んだ。
騒がしい喧噪を抜けた先はより一層騒がしい空間だった。目の前には大量の液晶モニターがチカチカと写っては消えて、次の映像を流している。鼓膜を揺らすのはスロットの音だ。それもいろんな音が混じっていてどれがどれだか分からなくなる。
目の前にあるのは、箱型機械で中にはぬいぐるみが積まれていた。早くここから出してくれと訴えている無垢な瞳に私は軽蔑の眼差しで拒否をする。
そこに一本の蜘蛛の糸が現れる。UFOの形をした救世主はぬいぐるみめがけて落ちていく。無事墜落。目標の者をとらえて上ろうとするも、握力がないのかぬいぐるみはUFOに捕まらずすたこらさっさと退散していく。UFOの手は何もなくただ空気を落としていった。
得られるものは希望に満ちた絶望と虚無感のみ、か。
「ちょっと、久藤君」
がちゃがちゃと操作している必死の様相の大男は苦悶の表情を浮かべていた。
そんな顔して取らなくっても大丈夫。私は全くほしくない。
「あー、惜しかった」
彼は頭を抱えて再び財布を取り出した。
「ちょっと、久藤君。何してるの?」
「何って、UFOキャッチャー」
「見りゃ、分かる」
平たい背中を兄さんにいつもするように叩いてしまった。けなされて少しだけ嬉しそうに苦笑いする久藤君に、ああやってしまったと悟る。
凄く距離が近くなっている。
冗談じゃない。嫌々付き合っているのに、楽しそうに冗談言い合っているなんて虫唾が走る。
此処から抜け出せる方法を思いつく限り並べるけれど、久藤君の口から出てきた言葉に怯えて何もできない。うまく乗せられているような気がして、腹立たしさが募るばかりだ。
「ほら、これ好きでしょ」
UFOキャッチャーの向こう側を久藤君が指さし、可愛らしいぬいぐるみを示す。確かにそれは私の好きな系統のキャラクターで、また一層腹立たしさと恐怖とが積み重なる。
「なんで」
「あ、つまんない? じゃあ、次行こう。次」
私の言葉も聞かず、また手を引き連れていく。
なんだかずっと振り回されている。
カフェテリアに座らされて、運び込まれたものに目を奪われた。
宝石のように輝くシロップに滑らかな白いホイップ。飾り付けてある大きな苺はメインを張り、しかし全体的の調律が狂っているわけではなく美しく整っている。
上に乗っけられた苺やホイップを受け止めているホットケーキの台座は、俺を食べろと言わんばかりにふんわりと全て受け止めて、居座っている。
傍に置かれた銀色のフォークとナイフにはホットケーキのおいしさに見惚れてしまっている私が写りこんでいた。
周囲にまき散らされる甘い香りに、目の前の全て台無しにする久藤君という存在だけ、カフェテリアの中でアンバランスで存在していた。
でもここで食べなければもったいないよね、なんて自分を甘やかす思考が働く。
「ほら、お姉さんあんまり好きなものを言わないけど甘いスイーツと苺が大好物だったでしょ」
「いや、久藤君……」
なんで……
「心配しなくても俺がおごるから」
私に何も言わせたくないらしく、久藤君の言葉で遮られる。
その笑みに何気なく含まれる好意が恐ろしい。
黒木さんにこれをやられるのはまだ分かるのだが、年月の差だろうか、全く彼に親近感がわかない。全く傍にいたくないし、全く好意という甘いものが浮かばない。さらりとした乾いた地が広がり続けるこの距離をどうにかしてほしい。
座っている隣も、その隣のカップルらしい男女も楽しそうに歓談しているが私は楽しくないし、むしろさっきから背筋がピンと伸びていて、緊張し続けている。
「久藤君って、よくわからない」
ごくりと唾をのみ、震える手でフォークを握った。
「そう?」
「そう」
強く誇張気味に言うと、久藤君がからからに乾いた笑いを店内に響かせた。
「食べたら最後に連れていきたいところがあるんだ」
私のことを愛でるように見ながら、久藤君はコーヒーカップを手に取り、ちょびちょびと飲み始めた。
吹きすさぶ風に、髪が流れるのを抑える。
微妙に長いセミロングの髪が靡く。久藤君がなぜか嬉しそうに笑みをにじませる。その笑みを見たくなくって空を見上げれば、ぽつぽつと光が夜空に浮かんでいた。手に取れそうなほど近くにある星を掴もうと手を上げるが、届きそうにない。
次第に流れてくる雲に闇の垂れ幕がかかってしまって光が隠れてしまう。一番頂上にいるせいか、風が私の背中を押してくる。びゅうびゅう、と叩きつける音が聞こえてくる。
背中を押されたってここからは落ちやしない。
端にある手すりにつかまり、ビルの屋上から市街地を見下ろす。目に映る全てが、私に訴えてくる。此処にあることを、そこにいる私はどれほどまでにちっぽけな存在であるかを痛みを伴って。
私は居てはならないならないぐらい矮小な存在であると深くうなづくと、市街地の光に飲み込まれるそうになる。だが、自然と手に目が行き血を思い出して直前になって吐き出される。
見下げる。
あそこはいつも通る寂れた鉄橋だ。近くには駅がある。続くは商店街だ。商店街には活気づく人々の姿がある。そこにうごめく闇の存在は光の中では見えずらい。
星空の代わりに現世に星を敷いた市街地は、まるで子どもがありったけの宝物を放り込んだおもちゃ箱に見える。ぐちゃぐちゃに混雑する者たちは一定のルールをもとに動く。形、人、思想、全て一律になって動いている。
その間を器用にぬう彼らを、私は知っている。私もその一員だということも、十分に理解していた。
私は隣を振り向く。久藤君が満足そうに笑っていた。
此処は廃ビルだ。もうすぐ取り壊されると噂されて何十年も経ったものの、どういうわけか一向に取り壊しされない、そんな場所だった。取り残され、誰にも相手されず、荒れ果てるばかりのここに、私はよく訪れていた。
手すりに手を置き、頬杖をつく。うっとりと、何かしらを思い市街地を見る。
此処だけが安心できた。どれだけ血に濡れようとこの風景を見ていると、自分の罪なんて全くの無価値で、本当は何もなくって、あの日だって嘘なんじゃないかって記憶をこの玩具箱にに放り投げられる。
私の秘密基地を奪われたことを知るにはそう時間をかからなかった。
「いい場所でしょ」
自慢げに久藤君は告げた。
「ねぇ」もはや分かり切った疑問を告げるには遅すぎたかもしれない。
「なんで、久藤君はいろいろ知ってるの?」
久藤君がUFOキャッチャーで捕まえたキャラクターも、苺も、この場所も、全て私の好きな物だった。しかも、再会してまだ数日しか経っていないのに、知りすぎている。どれだけ情報通でも数日でここまで知ることは出来ないはずだ。
久藤君はその重苦しい疑問に、間を置かない。
「常識っすよ」
「その常識おかしいって」
つい、いつもの手前で突っ込みを入れてしまう。
ぎしぎしと寂れた手すりに体を預けて、横に立つ電柱のように細い久藤君を見つめ続けた。背中と腹の間が平べったい。背中とお腹がくっついているようだ。しかも夜の暗闇の中のせいか黒いコートを纏っているように見えて、一層平べったく見える。
「おかしい、か」
久藤君が私の言葉を反芻する。
「これでも俺、自覚してるんすよね。自分がおかしいこと。でも、抑えられないし、それを止める理由もない」
「理由がなければいいんだ」
私の理由は至極単純だって、ずっと前に誰かに言ったことがある。夢の中か、それとも黒木さんか、自分にか。全てはーー
「家族のため?」
隣の久藤君があざ笑いつつ私に問いかけた。どうみても、私の心の中を探っての言葉で、心が揺さぶられた。今日一日のことを想うと、もしかして久藤君は全てを見透かしているのではないかと疑いが生じ、不安で心がじんわり滲み始める。
「理由があるとか、そんなことで縛られるなんて、冗談じゃない」
久藤君の怒りを込めた言葉に、私の不安ははちきれんばかりに大きくなった。目頭が熱くなった。久藤君が怒っていることに痛いほど目を刺激する。その上、胸のあたりがぎゅーっと締め付ける。
なんで、こんな感情になるのか分からない。
「明日川染香が家族のために身を犠牲にするなんて冗談じゃない」
暗闇の中、久藤君の顔が苦悶に歪む。私を想ってかは分からない。何に対して怒っているのかも分からない。
私には彼を理解する手立てがない。
じっと向き合っていたら、久藤君は顔を近づけ始めた。
私は、こういった空気は流されるようにして生きてきた。自分の感情は別に置いてしまう。
いや、もしかしたら自分の感情があるから流されようと決めていたのかもしれない。だから、今も顔も感情も背けずただ彼に向き合ているのだろう。
しかし、唇に来ると思っていた久藤君の口は私の耳元に寄せた。そして告げた。
「必ず奪うから」
何から? なんて問いただすなんて無粋だろう。家族から、私の何からなにまで、きっと全てを久藤君は欲しているんだ。
ピリリリ……と終わりを告げるチャイムが鳴る。私のポケットに入った携帯から着信音だ。幼気な邪魔者は久藤君を離して、世界の端へと追いやった。
「多分、お兄さんからっすね」
久藤君はやっぱり私のことなら何から何まで知っているようで、恐ろしい。
久藤君から顔を逸らして、私は屋上の闇を後にした。全て置いていく。此処にあるのは私のおもちゃ箱と、邪魔者と、どうでもいい感情だけ。全て夜の闇から見下ろすものに落として、私は明日へと向かう。
家族といつもの日常がある現実へと。




