ラーメン
閑話回
「きちんとお財布持った?」
希星が確認してくる。そんな希星は、もう既に準備も整っていて、玄関で靴を履いて待っていた。
私は、と言えばゆっくり動いて、鏡を見て化粧が崩れてないか確認している。
希星の相手をしているのは兄さんだ。
兄さんは手ぶらで、お財布だけ後ろのポケットに突っ込んでいた。希星からすれば、掏摸をしてくださいと言わんばかりに露骨な入れ方だろう。
兄さんはそのポケットを二、三度ぽんぽんと叩き、確認する。
「持った持った」
希星がちらちらと私に視線を向けてくる。早く行きたいらしい。強情とか、頑固とか、希星の性格はそこには出ていない。ただ腹の虫を抑えたがっているのだ。さっきから確認の言葉を言って、腹の虫の音を隠しているのがその証拠だ。
「姉さん、希星が待ってるよ」
邉がマスクをして、パーカーのフードを深くかぶる。玄関に行く途中で私を見かけて呼んだ。邉のいつものパーカー姿に安心感を持つ。
「はいはい」
小さな斜め掛け鞄にきちんとティッシュとハンカチ、それに鍵が入っているかを見て、邉の後ろに続く。
案の定希星は頬を膨らませて待っていた。
玄関からのぞかせる外の藍色の闇に寒さを覚えて身震いする。雨が降るこの季節にはあまり見かけない寒さで、邉のようにパーカを着てくればよかったと思うほどだった。だが、希星の待ちぼうけを延長させるのが面倒になりそのまま靴を履く。
「待ちわびたよ、お姉ちゃん」と希星がまたぶーたれる。
「ごめんごめん」
一応謝るが、やはり希星は機嫌を取り戻すことは難しそうだった。
その時希星の腹から、虫がいびきをするような音が鳴り響いた。邉も兄さんも固まり、希星は瞬時に顔を真っ赤にさせる。沸騰したやかんのようにふしゅーっと蒸気が湧き出る。
「お腹の虫さんもお腹すいたって?」
私は自身の耳に手を当て、希星に意地悪に尋ねる。希星は唾をのみ、うつむいた。
ちょっといじめすぎたようだ。
「もおおおぉぉおぉぉ」希星は苦しく歯をかみしめた。「お姉ちゃんのせいだかんね」
「だからごめんって言ったじゃん」
希星は私に近づき、優しく叩く。地団太の代わりにこのぽかぽか殴るから厄介だ。
朝は揺さぶるし、夜は夜で叩くから、兄さんと似てきたんじゃないかとふと感じるときがある。きっと兄さんオーラが移ったのだ。兄さんの暴力的なオーラが。
兄さんを睨むと、そっけなく視線を逸らした。何も気づいてなさそうだ。ちゃっかり扉を閉めている。
「玄関狭いから喧嘩するなー。もう行くぞ二人とも」
「ほら、お姉ちゃんも」
希星のせいで叱られたというのに、希星は自分のせいではないという風に装い私の手を引く。私は背後の邉の腕を引く。
「邉も」
微笑みかけると邉は照れたのか、うつむいた。小さく「いってきます」と呟いたのが聞こえた。
今日は、希星の希望でラーメン店で夜ご飯だ。
夜の晩飯については希星に選択権が強く、誰も逆らえない。私は兄さんの料理が好きだが、他の二人は意思が小さくいつも希星の選択に任されてしまう。
兄さんなんて、末っ子を一番かわいがっており、希星が希望したものならどんなものでも買ってくる始末だ。
お祭りの日に希星に連れられて行ったと思えば、お財布代わりにされていろんなものを買っていた。希星が小学生の頃だ。兄さんは希星の望みを聞くために初任給を放り出していた。はたから見ていて、かなり引くほど溺愛している。
私の邉に対する態度を思えば兄さんの溺愛っぷりもあながち非難できない。
ラーメン屋に着く。そこでカウンターとお座敷があって、私達は少しだけ迷ったがお座敷にすることにした。
カウンター席は青色。隣にあるお座敷は簡素な畳。
座敷にある座布団に座ると、すぐに居心地がよくなり、簡素であろうが気にならなくなった。
ラーメン店には香ばしいにおいが漂っていた。それがまた食欲をそそり希星の腹の音を大きくさせた。隣に運ばれてくる餃子やチャーハンが目に入り、私の食欲も倍増させる。安心したのか私の腹の音が誰にも気づかれない程度に鳴る。希星のことを全く笑えない。
「希星は何にする?」
メニューとにらめっこする邉の横で兄さんは希星に聞いた。
「ラーメンこってり背油少なめネギ多めがいい」
「「ラーメンコッテリセアブラスクナメネギオオメ」」
私と兄さんは同時にその念仏を唱えた。
「そうそう」
嬉しそうに希星がもう一度言おうとするが私と兄さんは何かの魔法を唱えているようにしか聞こえなかった。苦笑をお互いに浮かばせ、最近の注文方法は凄いなあ、なんて月並みなコメントをお互い残した。
邉は私達を見てほのかに笑っていた。
「今日は兄さんの驕りだから、何でも頼んでいいよ」
会話に入ってこない邉を心配してこっそり私は耳打ちした。邉はこくりとして、フードをとる。頑としてマスクはとらない。美男とは難儀だとつくづく思う。
「なあ、何か変なこと吹き込んでないだろうな」と、兄さん。
「えっ、今日って兄さんの驕りじゃなかったの?」
私はけなげにポーカーフェイスを続け、わざとらしく投げかけた。兄さんは私に対しては、厳しいのか冷ややかな視線を送る。
「染香も払うんだ、ろ……」
「えっ、兄さんが払うんでしょ。違うの?」
今度は希星が驚いた風に会話に入ってきた。途端に兄さんの表情がコロッと変わる。険しいものから優しいものへ。仮面を付け替えるのが早いが、悪く言えば表情に出やすい。
「俺が全額払うわ」
こんなんでよく泥棒してるな、と内心突っ込んだが反応がない。にぶちんめ。
しばらくして、いつ注文したのかわからないビールが来た。一番初めに来たものだから私は自身の腹のすかし加減で鋭い目つきで兄さんを見る。いたたまれなくなったのか兄さんはジョッキを差し出してきた。
きめ細かいベールのような泡の下、薄すめたキャラメル色の液体が層をなす。向こう側が見えるほど透き通った液体に一粒二粒としゅわっとした泡が上る。
「私、ビール苦手」
私は突き返した。
「なんだまだおこちゃまだな。大学生のくせに」
「それとこれとでは、別問題」
現在、すでに二十歳を越した私は事実ビール以外の飲み物を飲むことはできた。乗り気なら飲んだが、この場で変なことを口漏らすともしれない。もしかしたら兄妹の秘密を口走り、家族に亀裂を入れるなんてこともありうるわけだ。
お酒でそこまで口を滑らせたことなんて決してないが、念には念を入れるのが私の秘密と、仕事の体だ。一応プロなんで、とか胸張っては言えないが、一応端くれなんで、とは言える。
「邉はいるか?」
いじけた兄さんは今年二十歳の邉に勧める。
「じゃ、一口」
ついばみ、邉はふん、こんなものかと強気な顔をした。全くと言って酔った様子もない。
つまらないな、と私と兄さんはまた目を合わせる。その光景を私の隣に座る希星がけらけらと笑い、途端じーっと見つめてきた。物欲しそうにビールが入ったジョッキを眺める。
「ほしいの?」
肩をたたき、希星を促すが「べ、別に」とツンデレみたいなことを言い放った。
しばらくしてラーメンが運ばれてくる。私と邉と希星はラーメンで、兄さんはチャーハン。まとめて来たので、されるがままにそのラーメンを見つめて、その場の雰囲気のままラーメンをすすった。
金色のスープに浸された麺はスープに適度に絡まり、うまみを引き立たせる。ずずっと音をたてて吸うと濃厚な麺とその麺を惹きつけるスープの味をうまく混ぜ合わせられていた。
久しぶりな脂っぽさにうなりをあげて、希星とおいしいね、と言い合っていると、やはり気になってくる。希星の視線が常にビールのほうにあった。ジョッキの底にあるかないかぐらいしかないビールにまだ思いをはせているようだ。
兄さんの断りを入れず、すぐにジョッキを希星のもとに引き付けた。
「はい」渡すと、希星がぴくりと動く。
「お、お姉ちゃんこれ、なに?」
「何って、ビール」
「私、未成年だし……」
「何事も経験っていうじゃない? それにこんな一杯や二杯じゃあ、酔わないって」
「別に」
「飲みたいんでしょ?」
念を押すと、希星はごくりとのどを鳴らした。目の前にある未開拓な味覚に興味を示している。
いつもこういうことに口うるさい兄さんは、傍らでチャーハンを食べていて気付いていない。一生懸命口にかきこんでいるところを見るに、相当おいしいようだ。
希星に運ばれたラーメンは、見ると既にスープ一滴残っていない。あの大量に盛られたネギは希星の胃の中に吸い込まれていた。
邉が隣で頬杖をついて眺めていた。何も止めない。
「じゃ、じゃあ一杯だけ」
希星がジョッキに手を伸ばし掲げる。そして口を付けた。ごくごく、と勢いよくジョッキの中につがれたビールがなくなっていく。それは当初想定していないぐらい減っていった。その飲みっぷりのせいで私は止める間もなかった。
希星が口を離した時、チャーハンを食べていた兄さんはようやく気付く。おいおい、と焦った表情を見せて、希星を心配した。一方で希星は、気持ちよさそうにぷはあああ、とアルコール交じりの息を吐いた。
「たまんないわぁ」
方言交じりに希星ははっきりと告げた。
これは、いけないかもしれない。
ジョッキが大きな音をたてて、机に置かれる。邉の頬杖がはじかれた。
「おいしいんやけどぉ。これいいわぁ」
ふらふらと希星が頭を右往左往に振る。顔がほんのり赤く、目がとろんと緩んでいた。頬が緩み、今まさに飲んだものの幸福感をため息で表す。明らかにこの一杯で酔ってしまっていた。
「ちょっと、希星?」
私が心配するそばで、兄さんが何してんだと、怒り口調で叱る。
「お姉ちゃん、もう一杯無理?」
「それは無理だって」私はすぐに返した。
兄さんの視線が痛い。それに邉がさらに無口になって、希星のことを観察する体制に入っている。これで希星が自分は掏摸をやっていることを漏らすとかしたら……
「なんでやねん。こないだ希星頑張ったやん。てか、見せてあげたやん」
「見せてあげたって……?」
嫌な予感しかしない。
「そーや、あの報酬もらってないわ。ほら、す」
す? と、邉が反応する。
「す」りじゃなくって、「スープをおごってくれたって話だよねー。あの時おごってくれてありがとう希星」
なんとか回避。今度は兄さんが不審そうな目つきをしてくる。
「す」とは「スープ」で兄さんは収まっていると思うけど、この酔ってる状態の希星を見離せないようだ。
「すーぷ? なんなん? そんな……」
「してたよねぇ。ねぇ、希星」
だからなんでその話をぶり返すんだ。お願いだから、兄さんはいいとして勘が鋭い邉のそばでその話はしないでほしい。
お願い。
「そんなことあったの?」邉が案の定割入ってきた。
「あったの! ご飯屋さん行ったんだけど、私金欠でスープだけおごれなくって、希星にお金出してもらったんだよ」
ちょっと強引すぎたかな?
兄さんの視線がやっぱり怖い。ずっと私のことを見てて、説明を求めてくる。でも今の邉の説明で分かったのか、ほっと目をやわらかく垂らした。
「そんなことあったんだったら、俺も混ぜてくれよ」
兄さんの鈍さに乾杯だ。
そんなことをいうのは兄さんだけだ。
私もお得意のポーカーフェイスでカバーする。これで自然な会話になっていると信じたい。こんなしょうもないことで気づかれるなんて思いたくない。これまで苦労していたことが全てなくなってしまうなんて。苦労を水の泡にするなら、最後まで粘る。
「私は、この間の電車のす……」
「スケジュール! スケジュール確認してたんだよね。今度いつ遊べるかなあって」
「お姉ちゃん変だよぉ?」
「変じゃないから、むしろ希星のほうが変だから」
「そう?」
へろへろになりながら、希星は手をぐーぱーと運動させた。でもその腕をふるう場所はここにはない。あるのはテーブルに、空っぽになった器三つと皿一つ。兄さんの席は希星の前で手は届かない。邉は財布を持ってきていないだろうし。
なんにせよこの状況下で技術はふるわせない。
くしゃっと希星は笑った。
誰にも気づかれないように、私は身構える。
ごちんっ。
身構えたのもつかの間、次の瞬間希星は額を机に打ち付けた。
むにゃむにゃと何事かわからない言葉を連ねる。大丈夫か?と起き上がらせると、目を固くつむっていて、寝てしまったのだとわかった。
仕方がなく兄さんを見て、苦笑した。兄さんも苦々しい表情を返した。
帰り道は、私が希星をおぶった。大きな妹をおぶるのは骨が折れたが、これ以上希星の口から情報が漏れるのは抑えなければならない。寝言からばれるのは避けたい。被害は最小限に、とくに自分の筋肉痛だけで事がおさまるなら万々歳だ。
兄さんは私が飲ませたことに責任を感じたと思って、おぶるのは譲ってくれた。
帰り道は私の足取りに合わせて遅く。邉はたびたび私を気遣い、変わろうかと声をかけてくれた。だが、邉が一番危険なのでさらりと口で遠ざけた。
月が真ん丸な夜だった。深い海の底にでも入ったかのような暗さが私たちを取り巻く。海にでも沈んでいるように足取りは重く、口は軽く。積もる話もあった。
三人で並んで歩き、帰途に着く。
「お姉ちゃん、きちんとお財布持った?」
寝言か知らないが、笑いながら希星が耳元でつぶやくのが聞こえた。ラーメンとアルコール交じりの寝息に頬を当てる。ぎゅっと希星の体を抱き、その時ふと私の懐が軽くなったのを感じた。
あることを確信した。
おそらく帰って、希星の部屋に希星を入れたら尋問しなければならない。
「希星、私の財布から掏ったお金返して」
アルコールが入っていた時に起きたその事件はきっと希星の頭には残っていないだろう。
「あれ?なんで私のポケットなんかに小銭が入ってるの?」と、何も知らない顔で額をさするだろう。
希星が酔った時自分が変じゃないことを証明しようとして無意識に掏ったのだ、なんて言えない。
「今度から、希星にはお酒を飲ませるのはやめよう」
お月さまのもと、私は兄弟達に提案した。




