朝は忙しない
ちゅんちゅんと鳥のさえずりが聞こえる。
食卓には冷めたご飯と、長時間置いてしまって味噌が沈殿している汁。それに、鮭。メインディッシュの鮭はご飯や味噌汁と違って私を待っていてくれたようで、しっかりと身がひきしまっていて、口に入れると味が滲み出る。
そんな、のほほんとした朝を迎える中、食卓に飾られていたバラの花はぽっと花弁を開かせた。
あっ、やってしまった。
私は瞬間思った。
しかし、今はそんなことどうでもいい。今は、この兄さんが作ってくれた贅沢な食事を堪能しよう。
そうしてまた一口ぱくりと鮭を口に運んだ。
温かい食事に、穏やかな朝の光。この生活はとてもいいものだ。兄さんに食事を作らせて、私は何もせずにいられる。この味わい深い鮭はともすれば母さんの味を思い出す。あの味は忘れられない。
母さんは隠し味にと言っていつも父さんの味噌汁に、歯ブラシを私達の目の前でつけていた。それをそのまま父さんに出していた。あの時の味噌汁には母さんのどす黒い勘繰りがあった。そんな味がこの味噌汁からしなくもない。
「お姉ちゃん、こんな時間に起きて……もう……」
妹がどたばたと後ろを駆けながら、私を見て嘆息した。
そんな妹の発言は無視をして、ご飯に意識を集中する。
ご飯は冷めきっていて、良い具合に私の目を覚ましてくれた。
これも母さんの手料理と似ている。母さんは料理の時、よくあまぁい砂糖は隠し味だからねぇ、と言って父さんのそうめんのおつゆにどばどばと砂糖を流し込んでいたのを思い出す。そのおつゆは必ず父さんにしか出さなかった。その時の父さんは何も言わずに苦い顔をして全て食べていた。
このご飯はそんな苦い味だ。
「ねえ、お姉ちゃん私の靴下知らなーい?」
またまた妹が話しかけてくる。
が、私はめんどうだったので、知らんぷりをする。
目の前のお碗に手を掛ける。持ち上げて、喉になんとか味噌汁を一気に流し込む。
次はご飯だ。こっちはゴムのような噛みごたえで、弾力がある。噛むほど個性的な味わいが口に広がり、頭の機能を停止しようと迫りくる。飲み込むと、胃が受け付けなくて喉元に一秒ほど留まる。ご丁寧に傍らに用意された水で流し込む。なんとも言い難い余韻が舌に残る。
「ねえ、お姉ちゃんってばー」
妹が活動を一時停止した私の体を揺さぶる。無視していたのに、これ以上は妹の揺さぶりで気分が悪くなって吐きそうだ。
「知らないって」頭をぐらぐらさせて私はいやいや答えた。
この朝ごはんのせいで気持ち悪いのに、揺らされて、気分が一層悪くなる。
「そんなはずないって。いつもお姉ちゃん、希星のもの勝手に使ってるじゃない。教えてよ」
またぐらぐらさせてくる。だからそれをやめてほしい。希星はやめてくれない。
いつも使っているったって、それはお互いさまで希星も私の口紅を裏で勝手に使っていたりしているのを知っている。私は優しいからそんなこといちいち言わないし、言及しないけど、知っている。知っている、と言えたらいいけれど、私はしない。妹は一度言うと、分かるまでとことん言及してくる。それならば黙って嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
ただただ「はいはい」と繰り返し、このぐらぐらが過ぎ去るのを待った。
因みに今回の靴下は完璧に知らない。
「希星、洗濯物を干してるとこにあったぞ」
ぺらっと私の目の前で新聞を捲っている兄さんが、希星に告げ口する。
兄さんは私の目の前でコーヒーを飲んで悠々自適に出勤までの時間を過ごしているけど、希星の朝の慌ただしさに動揺してか、さっきから食卓の電灯をチカチカと消したり、つけたりを繰り返している。
兄さんは動揺するとすぐに能力に出て来る。いつもそうでもないような顔をしているけど、そんな時こそ、電灯がチカチカと独りでに動く。兄さんの能力は可愛いものだ。私のと違って。
「慎助兄さん、それを早く言ってよ」
どたどたと二回の洗濯物の場所へ希星は駆けて行った。
それを見送った後、私は自身の口に手をやり、吐き出されそうになるものを押し込んだ。嵐が去った後に来る嘔吐を止めるには、無理やりに飲み込むしかない。無理やりにでも食べなければならないのだ。静まった後で、この原因を尋ねるとする。
「兄さん、今日のご飯は私への嫌味?」
「今日のご飯は邉が作ったんだ」
そんなこと初めて聞いた。弟の邉が作ったのなら今日の料理を食べる必要はなかった。もとい、全て捨てても良かった。兄さんのあてつけなら、と考えて食べたのになんだこの体たらくは。頑張って食べたのに、意味がない。
「その邉は?」
「その邉さんなら、どこかの遅起きで怠慢な大学生ライフをこれでもかと送っている染香さんと違って朝からバイトに行きましたよ」
「やっぱり当てつけでしょ、この朝食」
「どうだろうね」
電灯のチカチカが止まった。これを見るに、やっぱり邉が作ったって教えてないのは、私の当てつけに違いない。確信犯だ! と投げつけてやりたいけど、それも朝だとやけにやる気がでないのでやめておいた。
「兄さん、あった。あったよー」
遅刻ギリギリの頑固な末っ子が戻って来る。裸足姿だった先ほどの希星の姿はなく、きちんと靴下をはいていた。髪は下に二つくくりで結われ、いかにも女子高生ライフを堪能してますと言うようにちゃっかり口紅をしてめかしこんでいる。笑顔が似合う女の子が出来上がっていた。私の高校の時は格好はもっと質素だった。彼女は違うらしい。
そう言えばもう五月だというのに、雨の気配がない。
彼女のませた口紅が雨で拭われたら、そう思うと梅雨も楽しめそうだったのに、そう言う時こそ来ないのだから五月なんて大嫌いだ。
食卓の上には妹が焦って置いた鞄と、細長い白い花瓶、それに私の分の食器、兄さんのコーヒーカップがある。もくもくとコーヒーから湯気が立ち上る。その前に私の空の透明なコップがぽつりと佇む。
花瓶に挿されている花は赤いバラと黄色いバラと青いバラと白いバラだ。しかしさっき私が開かせてしまい黄色いバラは花弁を開いていた。他の二つは蕾のままで黄色のバラの色彩を添えている。妖艶に黄色いバラは咲き、他のバラを出し抜いているように見える。
蕾のまま、何かを隠したまま、それを抱えて生きていくのは確かに辛い事だ。人に例えるとそれは『秘密』と呼ばれるものだろう。
――私たち四人兄弟には、それがある。
ふと血まみれで佇む私の姿が頭に過った。
ほら、『秘密』なんて持たない方がいいに決まっている。
でもその『秘密』が、誰かのためなら?
兄さんが新聞を畳み、戻って来た希星を見やる。
「忘れ物ないか」
兄さんは末っ子には甘い。こういうところとか、先ほどの場所を伝えるなど、きっと邉や私にはしなかったはずだ。自立しろ、と一括して厳しく当たったはずだ。それが兄さんらしいけど、末っ子と私とでは印象が違うと不満が募る。私の姉としての、兄さんの妹としての品格が損なわれたように感じる。
「ないっ!」
妹が最後にそう言うと、食卓に置いてあった鞄を肩に掛けた。さっきまであっちこっちと駆けていたのに、汗一つかいていない。恐るべし現役高校生だ。
「いってきます」と妹が元気よく挨拶をした。
「いってらっしゃい」と兄さんが微笑む。
「はい。いってらっしゃーい」
私も続けて声をかけると、花瓶に挿していたバラの花を一気に咲かせてしまった。
あ、やってしまった。
そう再び思った。