第五章 撹拌02
派手な音が部屋に響き渡る。
咄嗟の判断で、優奈がドアから飛び出して行くのを、僕は目の端に留めていた。
「こんなことをしても無駄だ」
自らの手で割ったグラスで傷つけた腕から、血を流した苗代が僕に掴みかかって来る。
不謹慎だが、この時は妙にその姿が、傑作に思えて仕方がなかった。
「どうして?」
半笑いで聞く僕に、苗代は本気で怒っている様子だった。
「これ以上、俺を詮索するな。お前は、俺の言うことだけを聞いていれば良い。さぁ邪魔者は消えたぜ。話してもらおうか」
観念すべきなんだろう。
そう思いつつ、僕はもっと苗代を試したくなっていた。
これはきっと僕と苗代のゲーム。
お互い腹の探り合い、手の内の読みっこ。
僕には負けない自信があった。
神妙な顔を作り、僕は苗代の目をまっすぐに見る。
思考なんてものは、そう容易く隠せるものではない。
僕の目に、鈍い光が灯る。
しばしの沈黙が続き、苗代の右頬がわずかに緩む。
僕の負けだった。
苗代の防御は固く、僕の付け入る隙はどこにもなかった。
見えてくるのは、苗代が描く幻想の世界。
不意に闇が訪れ、僕の思考が遮断される。
甘い香りが鼻を突き、僕は母に抱かれている気持になっていた。
頭を撫でられ、優しく諭され、僕はだったこのようにしゃくりあげ、そして許しを請う。
そう、この絶対服従の関係はずっと昔から決められていたこと。変わることはない。永遠のもの。
僕が話すこともない。苗代はすべてお見通しなのも、心のどこかで分かっているような気がしていた。
この数日間、経験してきた一部始終をうわの空で話し終えた僕に、苗代が吐き出すように尋ねる。
「それで全部か」
僕は黙ったまま頷く。
苗代は煙草をくわえたものの、ぼんやりと宙を見つめていた。
「もし、その話が本当なら、目的は何だ」
「分かりません」
そう答える僕の目を探るように、苗代が睨む。
「まぁいいや。コーヒー淹れてくれ」
「コーヒーの前に、その手の手当の方が先でしょ」
「ああ、これなら大丈夫だ。心配はない」
血だらけになった手を流しで洗った苗代は、煙草を咥えながら掃除を始める。
「呑気なものですね」
「僕ちゃんこう見えても綺麗好きだから」
「だったら、割らなければいいでしょ。そのタンブラー、結構高かったんですからね」
「高いって言っても、億単位じゃないだろ? 僕ちゃんの場合、宇宙規模で言って貰わないと高く感じないんだな」
「もう結構です。出血大量で、いっぺん死んじゃってください」
「命は一つ、いっぺん死んだらアウトでしょ」
憎々しげに笑う苗代を、僕は本気で殺してみたくなった。
一瞬、そう一瞬だけだったが、油断する苗代の思考を、僕は読み取ることが出来ていた。
掃除に没頭する苗代を僕は盗み見る。
軽く目を閉じ、視野を深めていく。
靄が開け、ぼんやりと人影が浮かび上がって来ていた。
僕は眉を顰める。
看護師が赤ん坊を連れ去った後、別の女性がその子を受け取り、看護師と目配せを交わす。
その女性が乗って来た車から別の子が抱き上げられ、そのまま看護師の車は走り去って行った。
そして、視界が真っ赤に染められ、僕は目を開ける。
あいつの目的は何だ。見えそうになったのに、自分の手を痛めて解除するなんて……。
急に眩暈を感じた、僕は頭を軽く振る。
「大丈夫か」
いつの間にか後ろに立つ苗代を見た途端、僕は気を失ってしまう。
いつだってこうなんだ。大事な場面になると僕の視界は、闇に覆われてしまう。孤独の世界が一面に広がり、僕はその縁を危なっかしい足取りで歩く。光りが差す方向を探し、それが無意味だということを知っていながら。
微かに浮かび上がる白い影。
「……きみは誰?」
ふっと視界から消え、その代わりに無精ひげを生やした苗代と目が合う。




