第四章 記憶07
ずぶ濡れになった僕に、その人は傘をさしかけていた。
無言で交わす会話。小さく頷く僕を見て、その人は確かに泣いていた。それからどうやってあの古ぼけた家に、辿り着いたのか分からなかった。
目を覚ました僕に、おばあさんは何も聞かず温かな料理を食べさせてくれた。そして、僕を柊歌と呼んだ。
その日から、僕は采沢柊歌になった。
のどかな風景が気に入った僕は、今までの自分を消去し、おばあさんが話し語る孫の柊歌へと上書きされ、老い朽ちるその日をしっかり見届け、東京へ舞い戻った。
僕は携帯からSDカードを取りだし、眺める。
「これはあなたが生きるための物」
そう言って、おばあさんは衰弱した手で渡した。
「これは片時も離すんじゃないよ」
僕は腕時計に目を落とす。
あの家に、確かにもう一人いた。だけどその顔がどうしても思い出せなかった。
マンションには僕がずっとそこにいたように、全ての物が整っていた。
おばあさんに言われたとおり、僕は目を閉じ数時間、携帯画面眺め、耳に時計を押し当てる。すぐに睡魔に襲われ、懇々と僕は眠り続けた。
新しい自分は心地が良く、人と触れることもさほど怖くなくなっていた。
見るものがすべて、輝いて見えた。聞く音楽も軽快で、足取りも軽くなり、僕は何にでもなれるような気がして、アルバイトの面接に向かった。駅に降り、前を歩いている老婆が、死んだはずのおばあさんとダブり、僕は思わず目でその老婆を目で追う。次の瞬間、僕はその老婆に、駅の行き方を訪ねていた。
老婆は親切に向きを変え、手振り身振りで教えるが、僕は何度も聞き返し、とうとう駅まで送って貰った。
戻って行く老婆に深々と頭を下げた僕は、老婆に姿を見られないようにアルバイト先へとこっそりと向かった。
「私の娘もそうだった。柊歌と同じ目をしていた」
手を握る僕の目を見て、おばあさんは目を細める。
僕には見えていた。おばあさんがすごしてきた日々がどんなに荒んでいたものか。そしてそれがもうすぐ幕を下ろそうとしていることも。
視界の端で、あの老婆が、平日の昼間にも関わらずシャッターが下ろされて行く銀行の前で、立ち尽くすのを確認して、先を急いだ。




