第三章 幻覚06
ドアの前、苗代は怒りに満ちた顔で僕を見ていた。
無言のまま、僕は中へ苗代を促す。
街の雑音がやた大きく聞こえている。
「お前さ」
ドスンとソファーに座った苗代が口を開く。
僕は苦笑いをしながら、すべてを受ける所存で前に座る。
「分かっています。少し無謀ですよね」
「少しどころじゃねーだろ。なぜあんな真似をした」
「僕、注射とか嫌いなんですよ」
「は? 何遍も死に損なったお前が言うか」
「酷いな。僕が倒れたのは雷に打たれた時だけでしょ」
「は? 何を言っているんだ。やっぱりお前は正常じゃない。俺と一緒に病院に行こう」
「苗代さん、何を言っているんですか? 僕の前で看護師を口説いていたじゃないですか」
「待て、お前なんかの記憶と混線してねーか。大体、俺はずっと海外に行っていたんだぞ。昨日帰国してきた。お前も出迎えてくれたじゃねーか。嵐が来そうだからってわざわざ便を変える手続きをしてくれたのもお前だ。おい、しっかりしろ」
躰を揺すられ、僕は困惑していた。
どこまで本当でどこまで嘘なのか、僕は苗代の目を覗き込む。
脳裏に女性が過って行く。
目を見開く僕に、苗代はもう一度強く肩を握る。
苗代の瞳孔が開く。
「……行ってはいけません」
ハッとして僕は苗代の手を振り払った。
「どうした?」
すっと立ち上がった僕は、ミネラルウォーターを取りにキッチンへ向かう。
「私を信じて」
「きみは誰?」
髪の長い女性が、そこに立っていた。
女性は口の前で指を立てる。
振り返り、苗代を見る。
苗代はどこかへ、電話を入れているところだった。
「大丈夫。私に任せて」
にっこり微笑んだ女性がすっと姿を消す。
けたたましい非常ベルの音が鳴り響き出す。
「走って」
どこからともなく聞こえてきたその声に反応して、僕は玄関へと走った。
放置されたままのリュックを掴み、エレベーターを待つのももどかしく、一気に階段を駆け下りて行く。
振り返ると煙がすぐそこまで迫って来ていた。
「こっち」
誰かに手を掴まれ、僕は煙から引き出される。
「きみは……」
「急いで」
消防車が到着し、人だかりが出来ている中、僕らは縫うように隣町まで走り、そこでバスに乗り込む。
息が切れたままだった。
ニコニコとその女性が僕へ微笑みかける。
「やっと会えた」
その彼女の唇の動きを読んだ僕は、なぜこんなことをしたのと尋ねた。
彼女の瞳がくるくると動く。
「忘れてしまったの?」
彼女が悲しい目をして、僕を見る。
僕らは次の停留所で降り、そのまま来た道を戻る。その理由は教えてもらえず、別のルートを走るバスに乗り換え、またすぐに降りる。電車に乗ってはすぐ次の駅に下り、また二つ戻って、違う電車へ乗り換える。小刻みな行動を取りながら、一日かけて僕らは煉瓦つくりの家へ着く。
暖炉に薪がくべられ、彼女がコーヒーを淹れる。
懐かしさが、心に充満して行く。
ずっとここには僕の暮らしがあって、暖炉の火を眺めながら、椅子にもたれ掛ることが、大のお気に入りである。
僕は大きな欠伸をして、涙目で彼女を見る。
そうだ。大きな犬を飼おうかと話をしていた途中だった気がする。
もうそんなのどうでも良いことのように思えてきて、僕の瞼がだんだん下がって行く。




