第三章 幻覚05
さてどうしたものか
こういう時の僕ときたら、自分でも驚くほど冷静になる。
一度固く目を閉じ、ゆっくり目を開けて行く。
心はもう決まった。
思案しても所詮ガラクタの山を作るだけ。
立ち上がった僕は服についてしまった泥を払い、一つ溜息を吐く。
これで完了。
歩き出そうとした僕は、心に引っ掛かりを覚え、動作を止める。
リセットが簡単に出来なくなっていた。
大きく頭を振ってみる。
なぜか鮮明に、彼女の顔が浮かび上がって来てしまう事態に、いささか嫌悪感を抱く。
分からない分からない分からない。
頭の中で警報サインが、けたたましく鳴り響き、彼女一色になる。
彼女は何者だ?
あの女性が言っていた意味が分からなかった。それに、どうしてあの時、苗代から逃れようと思ったのかもだ。ひりひりする腕を摩り、僕は上着のポケットに手を突っ込む。
こんな時に……。
老婆の顔が、目に浮かぶ。
それはさっきであったばかりの老婆なのか、それとも依然あったことがある老婆なのか判然としない。
だけど、心落ち着かせるものとなった。
僕はふっと笑みを溢す。
事務的にポケットへ手を入れる。
わずかな感触に、僕は目を細める。
味覚がジンワリと広がって行く。
グレープ味だ。
「気負うことはないのよ。皆同じ」
懐かしい匂いが鼻を突き、僕は泣きそうになりながら、空を見上げる。
「何も心配はいらない。あなたは生きていればいいの。それだけで価値がある」
ぎゅっと握られた手の感触に、僕はハッとなる。
随分長いこと、忘れていた気がする。
……母さん。
リュックを背負い直した僕は、とぼとぼと歩き出す。
「良かったのかもしれません。携帯がない方があなたには賢明です」
僕が携帯を持っていないことに気付いた時、あの女性が言った言葉だった。
「なぜ?」
女性はふっと口元を緩めた。
「おバカさん」
それ以上は教えてくれなかった。
とはいっても、僕はネオンが立ち並ぶ中、途方に暮れてしまっていた。
この東京で、苗代に見つからずにいられる場所って、果たしてあるのだろうか。
バスに乗るか電車に乗るか迷いに迷って、電車に取り敢えず乗る。
行先は決めていなかった。
用意周到な苗代のことだから、僕が行きそうな場所には何らかの形で手配されているだろうし、そうかと言って、このまま寒空の下、野宿する気にもなれない。
参った。どうすればいいんだ?
普段、使ったことがない電車を乗り継ぎ、僕は見慣れない景色を眺めていた。
東京ほどではないが、そこそこの賑わいはある。
人を隠すのなら、人の中へ。
その習わしに倣って、僕はこの街を選んだ。
所詮無駄な抵抗に過ぎない。
相手は国家を牛耳る父を持っている。警察すら、自分の犬にしているような苗代に、こんな小手先の手法、通じるわけがない。
それでもひと時は、息を吐けれる。
ビジネスホテルに空きを見つけ、僕は偽名を使った。
ベッドに転がり込む。
もう頭の中に、彼女の存在はなくなっていた。
ただ眠りたかった。
深く深く海の底へ落ちていくように、僕は眠りに就く。
翌朝、僕はホテルから真っ直ぐ、自宅マンションへ戻る。
僕の頭の中は、サスペンスストーリーが展開されていた。
犯人の行動を予測し、僕はそれを再現するため、ホテルへ泊まったのも、その一環である。
シャワーを浴び、ミネラルウォーターを持ちながらベランダへ出る。
朝の風景を眺めていると、程よく苗代の車がやって来るのが見えた。
「まだまとまってないっつうの」
独り言ちながら、僕を見上げてくる苗代に軽く手を上げて見せる。
それにしても、最近、やたら体力の消耗が早い。
僕は大あくびをして部屋へ戻る。
眠くて仕方なかった。




