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At the sunny side 6

僕の部屋の真下には、婚約者の部屋がある。

その事実は、もう随分と以前に了承済みだ。僕の部屋に向かうためには必ず使う階段の途中に、そのドアがあるのは。

いつもなら完全に無視するところだが、今朝は違う。

通り掛かりに、そのドアの開閉を僅かだが確認する。

やはり、ここに彼女はいなかった。


彼女の部屋の扉は完全に開かれており、中でメイドが数人作業をしていた。どうやら彼女の部屋は清掃中のようだ。

僕の足が止まったことが既に大変珍事だったらしく、メイドたちが僕の姿に釘付けになっている。

「フン」

とわざとらしく鼻を鳴らした僕に、弾かれたように体を震わせたメイドたちが慌てて一礼する。

きっと、不躾に僕を眺めてしまったと恐縮したのだろう。

だが、僕は全く別の事で思考を占領していた。

(まったく何処にいったんだ、・・婚約者殿は!)

そういえば、僕はまだ彼女の名前を知らない。

あの日、彼女に、僕に対して自己紹介をする機会を与えてやったのに、彼女は何故だか激怒して、僕の前から姿を消したのだ。

お陰で、僕は彼女の名前を聞き逃した。

僕の周りで誰かが彼女の名前を口にしていたはずだが、生憎全く聞いていなかった。だから僕自身は、今もなお彼女の名前を知ってはいなかった。

それに、母に渡された彼女の身辺資料はざっとしか目を通してはいない。

だからすべてがうろ覚えなのだ。

それに、その書類にはどうでもいい事しか書かれていなかった。

僕は、どうでもいい情報は記憶に残さないことにしている。

退屈な日々をやり過ごしているだけの僕には、常にどうでもいい情報が洪水のように身辺に溢れかえっているのだ。それらを全て記憶に落としていたら、気が変になるというものだ。

まだ随分と幼い頃に身に付けた選択的記憶術のお陰で、どうでもいい情報のほぼすべてを無意識で選抜して、留め置く必要のある情報だけを記録するように、ほとんど無意識で記憶の調整をしているのだ。

そんな僕にとって、初めて出会う他人との対面の場は実はかなり重要な意味があった。

その場の雰囲気ごと、その人物の顔と名前と詳細な人物情報の全てを一緒に記憶するのだ。

それなのに、彼女は何故だか僕に対してまともな自己紹介をしなかった。

せっかくこの僕が、自ら訊いてやったというのに。

無礼にも程がある。

お陰で彼女の顔と立場だけが、あの日の残像と一緒に僕の記憶に刷り込まれていた。

そのお陰でというのもなんだか変な話だが、彼女がどうゆう立場でこの屋敷にやってきているのかぐらいは、流石にきちんと理解出来ていた。

だから特に今まで、彼女の名前を知らなくても何も問題などなかった。

いや、そもそも問題だと感じてもいなかった。

それに、彼女の名前を僕が知らないということもきっと本人は気付いていないと思う。何故なら、僕自身は一度だって彼女を名前で呼んだりしてはいないからだ。

それに名前など知らなくても、彼女の立場を尊重することぐらいはできる。

彼女が、母が選んだこの僕の婚約者だという事実はもうすでに了解済みなのだから。

だが、名前を知らないという事がこんなにも不便なことだったとは、僕はこの時まで全く知らなかった。これでは、彼女の居所を知っているはずのメイドたちに尋ねることも出来ないではないか。

僕は胸中で一人低く唸った。

「あのう、・・何か、御用でしょうか?」

彼女の部屋を担当しているメイドの一人が、いつにない様子の僕に不思議がって遠慮しつつも尋ねてきた。ほんの少し媚びるような視線で尋ねてきたこのメイドのプロフィールが、僕の脳裏に鮮明な文字列として浮かんできた。

僕の身辺にいる使用人の事は、全部何一つ漏らさずに知っている。何故なら、全く危険性がないとも限らない相手だからだ。

優秀な僕の執事が選んだ彼らは、一人として馬鹿な者はいなかったが、無闇矢鱈に信じるほど僕は御目出度くは出来ていない。いつ何時豹変するのか分からないのが人間なのだ。

僕にとって信用に値する人間は、この世にたった一人しかいない。

メイドの顔の上に被さるように打ち出てきたデータを、僕はざっと読み流す。そのつまらない、鬱とおしい文字列を視界から処分して、

「いや、いい」

と低くこたえる。

(そもそも、名前を知らない相手の動向を尋ねる術はない)

と、自分自身に結論を出す。

自身の回答を何となくだが不本意に感じながら、僕はいつものようにほんの少し首を振って見せた。

メイドは、出過ぎた真似をしたとでも言うように深々と頭を下げて僕に謝罪の意を伝えてくる。

僕はそれ以上の対応は必要のない相手に背を向けると、そのまま階下へ行くために階段へ歩を進めた。


そこにも大勢の掃除婦たちがいた。

僕の姿を確認した全員が掃除の手を止め立ち上がると、その背にモップなどの掃除道具を隠して一斉に頭を下げる。

僕は特に何の言葉も掛けずに、そのまま素早く階段を下りてゆく。

これは、通常通りの朝の風景だ。

別に、彼らが物凄く早起きで早朝から掃除に励んでいる訳ではない。

では、何故彼らがほぼ全員で屋敷中の掃除に精を出しているかというと、もうとっくに朝食の時間ではないためだ。

僕は、死ぬほど朝が嫌いだ。

朝を憎んでいると言っても過言ではないぐらいに。

その為、父上や母上の時間には合わせられない。

お二人が正しく朝の時間をお楽しみになる頃は、通常僕はまだ夢の中なのだ。

行儀が悪いと責められた覚えは、生憎とない。

僕の両親は、朝が苦手である息子の存在を受け入れてくれている。そのため、僕だけが一日の始まりが3時間ほどお二人よりも遅いのだ。

その為、僕が起き出してくる頃は使用人たちは皆、掃除の真っ最中なのだ。

べつに、僕はそれに不都合は感じない。

僕の存在に、仮に彼らが気付かなかったとしても、それを理由に解雇にしたりもしない。

彼らは彼らの仕事に勤しめばいいのだ。それは清掃であって、僕をいちいち出迎える事ではない。だが、誰一人僕を見落とすものはいなかった。

どんなに仕事に夢中であっても、必ず手を止め彼らは立つ。そして、僕が通り過ぎるまでの間じっと動かない。もちろん、誰一人僕に気軽に話しかける者などいない。ただ黙って、僕から声が掛かるのを待っている。

僕も、朝から面倒な会話など欠片も望んではいないので、さっさと通り過ぎることにしている。

彼らの期待に満ちた眼差しの意味は分かっている積もりだが、いちいち応える義務は僕にはないのだ。



取り敢えず、食堂に行くことにする。

朝が通常より遅い僕の為に、僕の執事が食事の用意を整えて待っているはずだ。

朝が苦手な僕は、そもそもそんなに食事も必要としていない。

僕は、世間一般よりもずっと小食なのだ。

だというのに、僕の母は朝から物凄い量の食事を僕にごり押ししてくるのだ。正直に言って、迷惑でしかない。そもそも食事に対してそれ程関心のない僕に、朝からまるで拷問のような量を用意するのは、本当に止めて頂きたかった。

何度か母に、量を削減して欲しいと訴えたが、

「あら、子供はこれぐらい食べなきゃダメよ!」

の言葉が返ってきただけで、母は少しも分量の削減には動いてくれなかった。それどころか、更に追加しそうな危険な雰囲気を、恐ろしいほどの笑顔で母は漂わせていた。

母の嫌がらせには耐性のある僕だが、食事に関してだけは根本的に絶対量というものがあるのだ。既に限界に近い量の食事を何とか精一杯食べている僕に、母の計画は無謀過ぎた。

その辺の事情を、何故だか執事は母以上に理解してくれた。

午前中は調子の上がらない僕の様子を冷静に観察した結果を、主人である母に率直に進言してくれたのだ。

お陰で、朝から具合が悪くなるほど食べされられるという拷問から、最近ようやく僕は解放されたのだ。


僕を迎えるために開けられたまま固定されたドアを横切りったところで、僕の姿を確認した黒いタキシードが、隣室から音もなく遣ってきて揶揄い交じりに声をかけてきた。

「ようやくお目覚めですか、ウイリアム様」

この僕に、こんな口を利くのは僕の執事だけだ。顔を確認するまでもない。ぴくっと僕の肩が僅かに揺れたが、これぐらいの事で特に咎めたりしない。何故なら、クロウはいつでもこんな調子で僕に接してくるからだ。

彼以外の人物なら無礼者と咎めてやるところだが、生まれたころから僕に仕えているクロウだけは、話が別だ。

僕は、彼の言葉を無視したまま僕の席へと向かう。

クロウはうっすら笑みを浮かべ、音もなく滑るように足早に僕の席に僕より素早くたどり着くと、僕の為に席を引く。

僕は無言のままそこに腰掛けた。

「如何なさいました、どこか御加減でもお悪いのですか?」

と、ふざけた口調を改めて執事らしく僕を気遣いながら首を傾げる。綺麗にセットされた黒髪が一筋落ち、朝の光を受けて艶々と輝く。

僕はクロウの黒髪が気に入っていた。

僕にはない色が、艶々と輝くのを見詰めるのが。

返事をしない僕に、クロウは小さく笑いそのまま何事もなかった様子で一礼すると、僕を一人その場に残して隣室に消える。


僕は怠い体を椅子に預け、ぼんやりと空を見詰めた。

視界から消えたクロウは、この世の中で一番に僕に近い人間だ。

僕と真実血が繋がった母よりも、僕にとってはクロウの方が何倍も理解できる相手だ。そしてそれは、僕だけではなく、彼自身そう感じているだろうと僕は推察している。

食事の件で既に立証済みだが、毎朝死ぬほど辟易している僕の為に、彼はあの母を説得してくれたのだ。

息子の僕ですらまともな会話を続けるのが困難な相手に、自分の身分を十分に理解出来ているはずの彼が、意見してくれたのだ。彼には1ポンドも得にはならないはずなのに、むしろ不興を買う危険性すらあるというのにあの母に立ち向かうなど、僕がクロウの立場なら絶対にあり得ない。

母は、宇宙人並みに話が通じない相手なのだ。

それなのに、クロウは僕と母との間に立ち、いい塩梅での落としどころを模索してくれた。

彼に限っていえば、データなどという文字列すら意味をなさない程、自然に僕の隣に存在していた。

そして彼は、僕にとって空気のように絶対に必要な存在なのだ。

それは、僕だけが感じている感情ではなかった。

クロウも口にすることはなかったが、同じように僕を捉えていると確信していた。

何故なら、クロウは明らかに僕にだけ砕けた物言いをする。

父や母には決して、僕に対するような口調で彼は自ら進んで話しかけたりしない。主人の許しもなく口を開く権利は、本来なら彼にはないからだ。彼は使用人であり、主人に仕える為にこの屋敷に居るのだ。主人が声を掛けない限り、彼に言葉を発する権利はそもそもない。何故なら主人との間に、命令以外のコミュニケーションなど本来は必要ないからだ。

それを良く良く理解しているはずのクロウが、僕にだけはその態度を軟化させ、自らの意志で言葉を選び話掛けてくる。本来、身分や礼儀作法に兎角うるさい彼が、僕にだけは全くらしくない態度で接してくるのには、それ相応の意味があるのだ。

彼はわざわざ口にはしないが、その笑みや声が、僕に対して明らかにプラスの感情を抱えていると、僕に訴え掛けていた。

だが、本来ならそれは、僕が一番に嫌う類の感情だ。

僕には、基本的に他人の感情を理解するスキルがない。それに今までの経験上、人間の感情を理解することに意味など全く見出せてこなかった。

だから本来なら、クロウが放つプラスの波動も、完全拒否の対象になってもおかしくはないはずだった。

だが、彼が放つ空気感は他の者とは全く違っており、他人が例外なく大嫌いな僕でさえ、全く違和感も拒否感も感じさせず、むしろ居心地がいいとさえ思わせる何かが存在するのだ。

子供の頃から彼にだけは、ほとんど本能と言ってもいい警戒心を揺さぶられたことはない。

クロウになら、触れられるのも嫌ではない。

誰よりも時間を共にしてきた彼は、僕にとっては空気のようにそこにある存在だった。

人間なら誰でも、生きていくためには空気が必要だろう。

真空では人間は生きていけないのだから。

それと同じぐらい、彼は僕にとっては自然な存在だった。

僕は、他人の悪意に染まった負の感情を読むことは得意だが、人間らしい、明るい健全な感情を読むことは苦手だ。

僕に対して、汚らしい感情を隠し持つ相手は直ぐにわかるが、それ以外の感情を持つ相手の事は、はっきり言って良く分からない。

だから、僕が読めない感情を持つ相手とは、本来距離をとる事にしているぐらいなのだ。

そうであるのに、クロウが相手なら、違和感も嫌悪感も拒絶感も感じないのだ。

それは彼に対して何も感じていないから、という訳ではない。

僕にとってクロウは、当然あるべきもので、決してなくなるはずがないもので、必ずそこにあるものなのだ。

そこにある感情は、きっと信頼というものなのだろう。

ただ、本当にこの感情が信頼という名のモノなのかは、残念ながら良く分からない。

今までクロウ以外の人間に感じた試しがない為、他と一切比較検討が出来ないのだ。良く分からないが、それを追求する必要性は感じていなかった。その為、これ以上の推考を僕は遠の昔に放棄していた。

「ウイリアム様、今朝は武道の練習もございませんので、いつもより軽いメニューをご用意いたしました」

いつの間に戻ったのか、いつものように嘘のない笑みで執事が微笑む。

僕はクロウに微笑み返すと、僕の為に用意された朝食をとる事にした。




「奥様がマリー様と、サロンで刺繍をご一緒になさっていらっしゃいますが、まだ朝のご挨拶にはお見えになってはいらっしゃらないですね?」

無理のない量の食事をゆっくりと取り、仕上げにいつもの紅茶を味わっていたら、クロウが母と誰かが一緒にサロンでおしゃべりをしていると言い出した。

しまった。

きっと彼は今、婚約者の名前を言っただろうに。

また僕は、聞き流してしまった。

自分の間抜けさに眩暈がする。

まぁ以前から、この傾向はあった。

僕は基本的に、意識的に記憶する必要のある相手しか覚えない。

何故なら、僕は必要以上に色々ため込むおかしな癖があるので、自分で意識的に記憶を整理しないといけないからだ。

僕は少し異常なほど記憶力がいい。

基本的に、一度聞いた事は本当の意味ではけしって忘れたりしないのだ。お陰で、覚えておかなくてもいい嫌な記憶まで詳細に覚えていたりする。

そのせいで、おかしな場面で嫌な記憶を辿るなどという目に散々会ってきた僕は、ある日、PCについている”ゴミ箱”機能を自分に置き換えることにしたのだ。

僕が自ら記憶しておかなければならない相手など、そもそもそれほどはいない。

だから、それ以外の人間はゴミ箱に捨て去ることにしたのだ。僕にとって、不必要な人間やそれに付随する情報も全てが無駄だなのだから。

それに通常、僕の周りにやって来る人間の全データは全てクロウが知っている。

僕はその中から、危険人物と本当に覚えておかなければいけない相手だけを選び出して、記憶に落とすことにした。

それに、基本的に彼はどんな時も僕の側にいるので、クロウがほぼすべての情報を僕に変わって随時把握しているのが普通な状態なのだ。その為、彼が僕の周辺で仮にその人物の名を言ったとしても、ほとんど全てを聞き流す癖がついていた。

今までそれで、困った状態に陥ったことなどなかった。

それに僕は、人間の顔を記憶し続けるのがある意味苦手なのだ。

人間の表情かおには、その人物がその時に感じた感情が深く反映している。僕にはそのほとんどが読めない。気味の悪い覆面のようにしか見えないのだ。

だから、僕には人の顔を記憶し続けるのがほんの少し厄介だった。

その苦手な行為をし続けるには、それなりの価値が相手になければいけない。

では価値とは何かになるが、それはやはり、その人物が僕とどのような関係になるのかによって違いが出てくる。苦手である行為をし続けられる最上の相手とは、つまり、僕にとっては危険人物に他ならないのだ。

残念だが婚約者殿は、僕にとってはそれほど危険な人物ではなかった。

母のように、少し話の通じない相手ではあるが。

僕の中での彼女の評価はその程度だったため、それなりの交流があったというのに、全く全然、彼女個人についての情報の更新をしようという気にすらなれずに来ていたのだ。

飲み干したカップをソーサーに重ねて、

「それは、俗に、おしゃべりという奴だろう?」

僕は溜息交じりにクロウに視線を流す。

クロウは何も答えない。ただ、穏やかに微笑んでいるだけだ。

「・・・分かった、挨拶に行けばいいのだろう」

無言のまま僕に挨拶に行けというクロウに、わざと嫌そうにそう言ってやる。

クロウは僕の椅子を引いて、恭しくこうべを垂れて見せた。






「ねぇマリー、ちょっと聞いてもいいかしら?」

アリア様は起用に刺繍糸を差しながら、私に話しかけてくれる。

いつまでたっても全然姿を現さない彼のことを、気に掛けていらっしゃるはずなのに。

「はい、アリア様」

私が答えられることならなんでもお答えしますと返した私に、アリア様は物凄く優しそうに微笑んでくれる。差し込む太陽の光のようにお優しい佇まいで刺繍布を膝に置くと、

「そのぬいぐるみなんだけど、もしかして、ウイリアムのモノではなくて?」

アリア様が、私の隣にチョコンと腰掛けた、黒茶の熊のぬいぐるみを見詰めて言った。

「はい。今朝、彼を起こしにお部屋を尋ねたら、何故だか急に渡されて・・」

私は、今朝の出来事をざっとアリア様に説明することにした。

私の話を、途中まではそうでしょうねと、全く普通にお聞きになっていたアリア様が、急に驚いたお顔をして、

「え・・、じゃあ、あの子が自分で貴方に手渡した、って事かしら?」

と、事実確認を挟んでいらした。

私は、そんなに驚くほどのことなのかと内心首を傾げながらも、ゆっくり頷きでお答えする。

私はアリア様ほど刺繍が得意ではないからだ。手元を見ていないと、何の刺繍か分からなくなってしまう。

「・・・信じられないわ」

と、アリア様が小さく呟いた。

先程まで止まることなく優雅に針を進めていらしたアリア様が、何故だか物凄く驚愕しながらも、その頬をピンクに染めながら嬉しそうに微笑んでいる。まるで、豪華なバラが咲き誇るように。そして、声を弾ませながら、

「じゃあもしかしてだけど、その子の名前の事も知っているの?」

と、何やら期待でキラキラと瞳を輝かせて、アリア様が重ねて質問をしてくる。

私は、割合と苦手な分野の刺繍を熟すことで頭がいっぱいで、アリア様の期待が籠った熱い視線の意味を塾考する暇がない。だから一番シンプルな意味合いで質問を受け取ると、そのまま素直に口に出した。

「はい、この子の名前はエディです」

「答えるな、止めろ!」

私の後ろから、私の声に被さるように響いた声は、アリア様の待ち人だった。

何だか物凄く怒っている気がする。

まるでお人形のように美しい出で立ちが不釣り合いなほど、彼の声には棘があった。

いつからそこに居たのか不明だけど、彼は物凄く怒気を含んだ様子でサロンの入り口に佇んでいた。

きっと、朝の挨拶をアリア様に申し上げるためにここへやってきたのだろう。

なのに彼は、実のお母さまであるアリア様を完全に無視して、機嫌の悪さを隠そうともせずに大股でずんずんと私の側にやって来ると、いきなり私の右手を物凄い勢いで掴んだ。

いつも何を考えてるのか良く分からない表情で冷笑を浮かべているのに、今朝は確実に怒りを帯びた表情で私を睨んでいる。

「え・・、なに?」

私は掴まれた腕と彼の顔を、何度か往復して見詰めてしまった。

こんなにも感情を、そのまま表現している彼を見た試しがなかったので、つい、本当に本人なのかと疑ってしまったのだ。

彼が何かを言いかけたその時、

「まぁ、なんて仲良しなの!嬉しいわ、貴方がファーストネームを許すなんて!!」

とアリア様が唐突に歓声を上げられた。

それとは反対に、彼の顔がみるみる凍り付く。

さっきまでの感情の吐露は唐突に終了してしまい、彼はいきなり私に関するすべての感情も関心も失った様子で私の腕を払うようにして手放すと、

「フン!」

と思いっきり不機嫌そうに一息つくと、アリア様の制止も聞かずに出て行ってしまった。

「まぁあの子ったら、照れちゃって!」

と、アリア様が何ともずれた感想を思いのほか嬉しそうに呟く。

どう見ても、先程の彼は怒っていた。なのに、実のお母さまであるアリア様は、彼がただ拗ねてしまっただけだと豪快に笑われる。

私はまだ彼に出会ってほんの数か月なので、彼の感情の機微に疎い。だが申し訳なくも、アリア様の見解とは一致しなかった。

彼は完璧に激怒していた。またとないようなハッキリとした感情を、あの綺麗すぎる顔に浮かべていた。

いつもお人形のように感情のない顔の彼が、先程は驚くほど感情豊かに揺れていた。それが何より信じ難くて、何度も見詰め直したのだ。つい数か月前まで、全くの赤の他人であった私ですら分かるほどはっきりと。

きっと、私がアリア様に熊のエディの名前を言ってしまったのが原因だろう、とは思う。

だって彼は、あの時私に答えるなと鋭い声で制止してきた。

でもたまたま、彼の声は私の声と被さるように響いたのだ。

しかも運の悪い事に私の真後ろで。

もしも彼の姿がほんの僅かでも私の位置から確認できるところにあったなら、結果は変わったのかもしれない。さすがにあんなに怒っている人を無視することなど私には出来なかっただろうから。だがどうして、彼がそんなに怒ったのかが分からない。

私が首を捻っていたら、

「あの子の本当のファーストネームはね、エドワードというのよ」

とアリア様がおっしゃった。

そしてエドワードという名前の由来を語って下さる。

このお屋敷を最初に頂いた、我が国にとっても英雄でかなり有名な伯爵様のお話を聞かせて下さる。その方こそ、イングランドに招聘されたヴィコルト家の初代といわれている先祖の方だった。そして代々世継ぎの君だけが、その方のお名前を踏襲してきたのだと教えて下さる。

「あの子はね、エドワード様が嫌いなの」

理由は良く分からないけど絶対そうなのと、アリア様が続けられる。

その為に、本来自分のファーストネームであるエドワードを打ち捨てるという暴挙に、二年前の誕生日に出たのだと。

「それなのに、その子はエディというのよ」

エディ、という名前は通常エドワードという名の愛称だ。だから、自分以外の誰にも熊の名前さえ言わせない。それほど強固に、自身の名前を拒否しているのだ。

思いがけない事実を聞かされ、私はどうしたらいいか分からなくなり、私の真横でのんびりと腰掛ける熊のぬいぐるみを見降ろしてしまう。

「ねぇマリー、これからもあの子と仲良くしてね?」

と、アリア様が物凄く慈愛に満ちたお顔で微笑まれた。




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