At the sunny side 2
私が、綺麗だけど信じられない程意地悪で、生意気な男の子の許婚になったのは、
まだたった1ヶ月前のことだった。
彼の名前は、ウイリアム=ド=ヴィコルト。
まだ6歳の子供だというのに、この秋から、ほんの一握りの天才児しか入学が許されない王立高大統一校の寄宿舎に、2年生として入学が決まっている生まれながらの天才であった。
しかも将来は、莫大な財産を継いで伯爵になることが決まっている、全世界探してもなかなか居そうもない希有な存在だった。
おまけにまるで私に対する嫌がらせのように、女の私から見ても完璧な、もの凄い美貌の主だった。
この日もいつもの週末のように、私は親友のソニアと二人で、許婚の屋敷に泊まり込んでいた。
何故なら、こんな馬鹿みたいに大きい屋敷に、私一人で居ても仕方がないから、だった。
彼は私のことを正式に許婚と認めたらしいが、基本、私に関心がなかった。
彼は、基本的に自分の生活リズムを誰かに合わせるなんて発想を、そもそもこれっぽちも持ち合わせてはいなかった。
だから週末だけ現れる許嫁のために、自分の時間割を変える必要性が見いだせなかったのだろう。
つまり、私など最初からいてもいなくても、彼にとってはどうでもよかったのだ。
私が毎週この屋敷に連れてこられても、彼にはまったく関係なかった。
そもそも関心の欠片もない私に、わざわざ会おうと思うわけがない。
分厚い床一枚、たった一階隔てただけの同じ屋敷に婚約者がいるのに、しかも、自分の部屋に行くには必ず使う階段の途中に私の部屋があるというのに、あの日以来ただの一度も、彼は私を尋ねてくることすらしなかった。
だから私も一度だって、彼を部屋に尋ねることすらしなかった。
別に、目には目を!というわけではない。
意地を張っているわけでもない。
1ヶ月前に突然許婚になった彼のことを、私だって、まだきちんと受け入れられていないと、それとなく誰かにアピールしたかったのだ。
それが誰なのか、自分でもよくわかっていなかったけれど、とにかくそんな気分だった。
だからあの日以来、二人の距離感は1mmだって近づいてはいない。
もちろん彼としても、私に近寄るつもりが毛頭ない、という雰囲気を漂わせていた。
ただ、三度の食事の時には、やむを得ず顔を合わせた。
私の目の前に、彼が座る。
そのいつ見てもどきどきするような、綺麗な造形に見惚れてしまいそうになりながら、私は自分を励ます。
ここで、私だけが一方的に彼を好きになるなんて、ぜったいに嫌だった。
それでは、全面降伏の敗戦者になってしまう。
だからいつも彼を無視して、ソニアと女同士のおしゃべりをして彼の視線をやり過ごした。
どうせ彼は、私のことなどおしゃべりが得意なインコか、オウムぐらいにしか思っていない。
私達がどんなに盛り上がっても、彼はただの一度も言葉一つ挟まない。
ただ時に、意味の分からない綺麗な微笑みを浮かべるだけで、食事の手だって止めないのだ。
そんな彼も、ご両親が居合わせる時だけは、何故だか私に興味を示した。
その行動で気付いてしまった。
彼は私に関心があるわけではなく、彼のお母様のために、私に関心がある振りをしているのだと。
きっかけは、ある、たわいないおじゃべりだった。
「まぁ、マリーは犬が好きなのね。私は、猫なの」
その日、たまたまお早くお戻りになった彼のお母様と、4人で少し遅い夕食を取っていた。
彼のお母様はとても素敵な方で、彼とどことなく似ているが彼とは違う美しさを持った、とても優しい方だった。
あの威厳のある優しい空気の漂う伯爵様に、大変お似合いの可憐な薔薇の花のような方だ。
「はい、今は寄宿舎におりますので飼えませんが、実家にはポメラニアンが一頭います」
この屋敷にくるようになってから一度も会えてないけど、あの子は元気だろうか。ふいに脳裏を掠めた愛犬の姿に、目頭が熱くなる。
泣かないように、慌てて小さく息を飲んだ。
「寂しいわね・・ねぇ、じゃあ、この屋敷で犬を飼ってはどう?」
彼のお母様が、私に同情して、犬を飼う提案をしてくれた。
嬉しくて顔を上げた私は、すぐにあることに気付いた。
確か彼は、動物全般大嫌いだと、言っていたのではなかったかと。
私の顔を見るとはなしに見ていた彼が、何故だか小さく笑った。
どうやら、ぬか喜びに輝いた私の顔が、見る見るうちに萎んだのが可笑しかったようだ。
彼はよく、私の顔を見ては可笑しそうに笑うのだ。
失礼なことに!!
私が一人で結論まで達したところで、彼のお母様がニコニコ笑いながら、隣に座る彼に思いがけない事を言った。
「ウイリアム、貴方が、彼女にプレゼントなさい」
は?と、私が固まる。
目前に座ったままの彼の表情は、読み取ることの出来ない完璧な微笑みのまま、固まっていた。
「犬はお利口だし、この館の番犬にもなるし、私の猫ともきっと仲良くしてくれるわ」
”そうよ、そうしましょう~”と、嬉しそうに頬笑んで、彼のお母様が話を決めてしまう。
「明日は、犬を選びに出かけましょうね」
と微笑まれて、私には、はいと答るしか、選択肢が残っていなかった。
食事と、その後のお茶の時間を終え、自室に戻るためにソニアと二人、まるで学校の廊下を歩いているように賑やかに、おしゃべりしながら歩いていると珍しく彼に遭遇した。
「やぁ、婚約者どの」
彼は、どことなく不機嫌そうに佇んでいた。
だがその顔は表情と呼べるようなものは、何も浮かべてはいなかった。
それなのに、やっぱり彼は不機嫌そうにみえる。
やはりさっきの件だろう。
そうでなかったら、わざわざ私に会うために待ち伏せなんてするはずがない。
「僕が、動物全般大嫌いだと、君は知っていたはずだよね?それとも、そんなに簡単に忘れてしまうほど君の脳は、許容記憶容積が狭いのか?」
冷たい声に、冷笑まで浮かべて彼が皮肉たっぷりに尋ねてくる。
確かに、あの場で断らなかった私が悪いと思う。
彼は、馬以外の動物は大嫌いだとあれほどはっきり言っていたのに、私ははっきり聞いていたのに、あの場で言い出せなかった。
だってあの様子から察するところ、彼のお母様は、彼が、動物が大嫌いだというとを知らないのだ。
まさか出会ったばかりの私の口から、最愛の息子が本当は動物嫌いだと聞かされたら、あのお優しいお母様が傷ついてしまうと思ったのだ。
「だって、貴方のお母様に、貴方が動物嫌いだと聞かせたくなかったのよ」
私が断ったら、必ず理由を聞かれてしまう。
私の口から、最愛の息子の衝撃の事実を聞かされでもしたら、彼のお母様が本当にお気の毒だ。
自分の最愛の息子が、本当は飼い猫も含んだ動物全般が大嫌いだったなんて、それを知らずに今まで過ごしてきただなんて、もし知ってしまたら、心優しい彼のお母様はきっとすごく傷ついて悲しまれる。
目の前の彼の事より、今の私には彼のお母様の方が気になる存在だ。
出来うる限り、このまま良い関係を築いていきたい。
「貴方が悪いんでしょ、自分の口で、ちゃんと動物嫌いを告白しないから!」
私に教えられるよりは、幾分か衝撃が少ないだろう事実を、あの機会にきちんと伝えればよかったのに。
「だいたい、私がいう事じゃないわ!私はまだ貴方のことほとんど何にも知らないのに、お母様さえ知らないようなこと、知っていたら変でしょ!!」
何を考えてるかまったく分からない無表情が、一瞬私を見詰めて、冷たく溜息をつく。
「もういい。だが、僕は明日は乗馬をすると決めているんだ。君が母と出かけてくれ。僕は一緒には行かない」
彼は自分勝手に自分のスケジュールを私に言い置いて、踵を返してしまう。
私は、彼のお母様の為に一緒に出かけるように説得を試みたが、彼はそれ以上私の話を聞くつもりがなかったようで、その綺麗すぎる美貌に冷笑を浮かべたまま、二度と私に振り替えらなかった。
二人からは見えない位置で妻に捕らわれた私は、またしても二人のケンカを目撃してしまった。
ここからでは遠すぎて二人がどんな問題で言い争っているのかまでは、今一つ分からないが、彼女が大分興奮状態にあるのであまり良い予感はしない。
妻のファンタジーを壊したくはないのだが、やはりあの二人、私には少しも仲が良いようには見えない。
だというのに、我が妻は何やらとても楽しそうに頬笑んで、
「ね、貴方。あの子達本当に仲が良いわね」
と、信じられないことを言う。
呆れたことに我が妻は、あの二人の深刻そうな遣り取りを、あらぬ方向へ曲解していた。
「どうして君には、あの二人が仲が良さそうに見えるんだい?」
あまりにもあり得ない方向に解釈を曲げられる我が妻に、驚きと、尽きない興味を引かれてつい質問した。すると彼女は私に振り返って、
「あらだって、あの子がわざわざ文句を言うためだけに、マリーを待ち伏せするなんて、もの凄い進歩でしょ?あの子があんな態度を取る相手なんて今までに誰もいなかったわ」
と、笑って言った。
「それにあの子、本当は動物が大嫌いなの。私のセバスが、あの子に懐かないのが原因かもしれないけど」
と、意外にも鋭い考察まで私に披露してくれた。
さすがは、母親。
あの子が本当は動物嫌いだと、彼女はきちんと知っていたのだ。
さすがの私も誤解していた。
妻はあの子が、異常なほど動物を毛嫌いしている事実に気付いてはいないのだろうと、ついさっきまで思い込んでいたのに。
「あの子、私に遠慮して本当のこと言い出さないけど、いつも私の膝に乗っているこの子のこと、睨んでいるのよ」
胸に抱いた愛猫の頭を撫でながら、妻が歯痒そうに呟く。
「あの子が嫌がるから、セバスで我慢しているのに」
私の気も知らないで!!と彼女が憤怒する。
その瞳にはうっすら涙まで浮かべている。
「だから、絶対、明日は一緒に外出するわ」
そう言った彼女の瞳は、決意にきらきらと輝いていた。
その輝きは息子にとっては、何よりも遠慮したい類のモノだと、彼女は知っているのだろうか。
愛猫の頭を撫でながら、るんるんと楽しそうにはしゃぐ妻を見て、私もいつの間にか微笑んでいた。
「イングリシュセッターで、本当に良かったの?」
私の膝で熟睡している子犬を見詰めて、アリア様が首を傾げて尋ねる。
私の隣には、明らかに不機嫌と顔中に書いた、超美少年が座っている。
彼は自分の母から逃げるように、視線を外に投げたままで動かない。
「はい、アリア様。私、犬ならどの子も好きです」
信じられないことに、かなり嫌々だったけれど、わざわざ彼が自分の手でこの子を選んでくれたのは事実だった。
「そう?・・なら、いいのだけど」
小型犬の方が、本当はよかったのでは?と、言外で案じてもらう。
アリア様が放つその優しい空気感が、いつの間にか私は大好きになっていた。
私に気を遣って下さる優しいアリア様に、精一杯真心を込めて微笑み返した。
結局彼は、お母様のアリア様に強引に押し引かれ、無理矢理私達と一緒に車に乗せられてしまった。
そして、ロンドンの超有名老舗百貨店まで、強引に連行されてきてしまったのである。
車を降りて彼のお母様は、とにかく嬉しそうに楽しそうに、まるで歌でも歌うように上機嫌で彼を連れ回す。直接関係のない店にも幾つも寄り、嫌がって逃げ出そうと画策する超美少年の手を握りしめては、何度も嬉しそうに笑いかける。
遠巻きに通りすがる一般客達が、母に連れられてしぶしぶ歩く、超絶美少年を見付けては茫然と足を止める。
あるものは、自身の携帯で写真を撮ろうとした。
あまりにも美しい親子に、自分は知らないだけできっと有名人なんだろうと誤解して、カメラを起動して構えた。
携帯を丁度いいところで構えたその時、私たちに付き従っていた執事が動いた。
彼は、主と通行人の丁度延長線上に唐突に割って入り、素早くその携帯を右手で掴むと、
「私の主に失礼ですよ、お止めください」
と丁寧だけど威圧的に注意した。
それを合図にしたのか、何処からともなく黒ずくめのスーツを着た強面の男たちが次々に現れ、無言のまま彼を取り巻いた。
その異様さに驚いて、通行人の彼は酷く脅えながら頭を下げた。
「いえ、お分かり頂ければ結構です」
執事が満面の笑みで微笑んで、掴んだままだった携帯を手放し、丁寧に頭を下げた。
どうやら気づいていなかっただけで、何人ものボディーガードが私達の周りに控えているらしい。
私たちは急いで、視線で彼を探した。
すると意外にもすぐそこに彼を見つけた。
彼はアリア様に付き合って、とある有名ブランドの店内にいた。
その綺麗過ぎる横顔が、ショーウィンドに映し出されている。
それだけで、まるでその店のコマーシャルのようだった。
鏡のように磨かれたショーウィンドに映った彼の美貌を眺めて、恍惚に溜息をついている者までいた。
なにやらズボンの前を急に抑えて、ソワソワしている者まで数人確認できる。
その場にいたほとんど全ての人間の好奇心と羨望を一身に集め、彼はつまらなそうに、はしゃぐ母を眺めていた。
その横顔にある老女が、天使だわとまるで喘ぐように呟いた。
彼女はその場に跪くと、ショーウィンドに映った彼に、恍惚とお祈りを捧げた。
そんな彼からだいぶ離れて、私とソニアがまるで他人事のように、目の前で繰り広げられる光景を黙って見詰めていた。
私達は、彼のことを見詰める傍観者たちと一緒だった。
彼のその美し過ぎる美貌と、圧倒的な存在感に改めて驚かされる。
彼はこんなにも無関係な人々でさえ、一瞬で自分の信奉者に変えてしまうのだ。
私は、彼ら親子を遠くからただ、見詰めることしかできなかった。
ようやく目的の店に到着したとき、何故かその店は誰もいなかった。
しーんと静まり返ったその店に、彼ら親子が何事もない様子で入っていく。
私たちもそのあとを追って店に入ろうとした。
その瞬間、一斉に犬たちが彼に吠えかかった。
皆何を感じたのか人間なら確実に固まってしまうだろう彼に、ものすごい勢いで必死に吠える。
彼は、だからこんな所には来たくはなかった、と珍しく誰にでもはっきり読めそうな顔色を浮かべて、吠え続ける犬たちに一瞥をくれると、
「黙れ!」
と一言、言い放った。
すると、辺りは突然静まり返った。
あれだけ必死に吠えていた犬たちが、皆一斉に吠えるのを止めたのだ。
それぞれのケージの中で、まるで金縛りにあったように一斉に伏した。
そして、ぴくりとも動かなくなる。
私は犬たちの態度の激変ぶりに驚いて、しげしげと見渡した。
どうやらこの子達は、私達の中で、彼が一番に危険な人物だといち早く気付いていたらしい。
その外見の麗しさから、つい、人間の方はすぐ彼を侮ってしまいがちだが、彼は相当に扱いが難しい危険な人物なのである。
犬たちはほとんど本能で、その事実がわかったらしい。
だからこそ最初は彼を威嚇するために吠えまくったのだが、その絶対的な支配者だけが放つ事ができるオーラに目ざとく気付いた犬たちは、彼から発せられた命令に一斉に平伏したのだ。
彼は、静まり返った店内を一人優雅に歩いて、ゲージの中を覗いていく。
異様なほどの緊張感に支配された店内で、ほぼ全てのケージをなんとなく覗いた彼が、ある犬の前で止まった。
「この犬にする」
彼はニコリともせず告げると、これでやっと帰れると深い溜息を吐き出して、不機嫌そうに踵を返した。
「ねぇ、貴方、あの子がマリーに、イングリシュセッターの子犬を選んであげたのよ」
妻が自分の鏡台の前で、ウキウキと嬉しそうに髪を解きながら今日の出来事を話してくれた。
嫌がる息子の手を握り、ロールスロイスに許婚のマリー共々無理やり押し込み、強引にロンドンに連れ出した、というくだりは私の執事から連絡済みだ。
我が息子の執事であるクロウドも、確かにそう言っていた。
「君が、選んだのではないのかい」
てっきりあの子犬はアリアが、無理矢理ウイリアムに選ばせたことにして、買ったものだと思っていたのだがどうやら違うらしい。もし本当にあの子が自分で子犬を選んだのだとしたら、アリアのファンタジーも、まんざら夢なわけでもないのかもしれない。
「違うわ、あの子が選んだの!」
その時の様子を、アリアはそれは楽しそうに話してくれた。
全ての犬たちを一瞬で掌握した息子は、将来が予見できるほど頼もしく美しい姿だったと、溜息混じりに彼女が我が息子を絶賛する。
「あの子はきっと、歴史に名前が残るようなことをするわ!」
ええ、そうよ!と、どんな根拠があるのかわからない、彼女独特のファンタジーを声高々に宣言する。
私には今一つ理解が行き届かない妻であるが、彼女の顔が何時になく輝いているので、それで由とする。
ウキウキと嬉しそうに、息子の話をする我妻の腰をそっと抱き寄せ、その頬にキスをした。
「全く、どうしてこの僕が、犬に名前を付けなくてはならないんだ」
確かに、犬を選んで買ったのは、この僕だ。
母に押し切られて、どうしても拒否しきれなかった。
それに、僕はもう、あの場にいることそのものが限界だった。
僕は、不特定多数の人間が集まる場所が、大嫌いだ。
何故なら、おかしな気配をまき散らす不届き物が大勢いるからだ。
今日だって例外ではなかった。
執事が、僕を隠し撮りする愚か者どもを、その都度排除していたからいいものだが、ああいう輩は、そのうち執念で僕を見つけ出し、愚かにも僕におかしな手出しを仕掛けてくるのだ。
残念だが、こう見えて僕は武術が趣味で、特に日本発祥の武道に興味があった。
柔道に空手や合気道、それらは特に武器がなくても、相手を選ばず攻撃も防御も出来る素晴らし護身術だ。
もっと幼いころから、それこそ誰にいつ襲われるかわからない僕は、暇つぶしを兼ねて武術を学んできた。
それには、ヨーロッパ伝統のフェンシングも含まれていた。
木の棒一本あったら、たとえ森の中での襲撃であっても自分を守りきれるように腕を磨いた。
常に、対策と傾向は把握している。
たいていの暴漢は、僕がまだ子供だからと侮って、自らの危険性に全く気付かず襲ってくる。
自らの人生を棒にふる、危険極まりない愚かな行動だったと、僕に打ち伏せられて初めて気づくのだ。
ほぼ毎週、そんな愚か者どもに、馬の遠乗りの時間に出会う。
僕にとっては丁度いい暇つぶしの相手だが、さすがに息の根を止めてやることはできない。
暴漢が銃でも持っていたなら話は別だが、僕が子供だと侮って、大概の暴漢は特に武器らしい物を何も携帯してはいなかった。
だから殺す訳にはいかない。
殺してしまっては、僕の方が犯罪者扱いになってしまう。
愚かにも僕に、おかしくも図々しい幻想を抱いてやって来る犯罪者を、殺さない程度に追い詰める必要があった。
その加減が難しかった。
いつも、つい、やり過ぎてしまうのだ。
今日も、結局そうだった。
今日はいつも以上に苛立っていたので、暴漢に配慮してやるのを忘れた。
気づいた時には、指一本動かすことすら難しい状態に陥っていた。
あのまま放置したなら、あの男は確実に死んだのだろうが、僕の執事はどんな時でも仕事が完璧だ。
いつものように、僕の闘争心が一区切り着いたところで現れ、無様に転がる醜い肉の塊の生存を確認して、手配していた警察車両に積み込むようにと、警官たちに指示していた。
「いつものように、処分してください」
と顔馴染みらしい警官に告げている。
敷地不法侵入、住居侵入未遂、暴漢未遂、強姦教唆、それらを遂行しようとした男が、武術の天才に返り討ちにあったとして厳格に処罰されるのだ。
したがって、僕にはなんの咎もない。
「お気が、済みましたか」
にこやかに笑って、執事が僕に振り返った。
「犬には、名前が必要です」
執事が最もな返事をする。
僕は視界の隅で、僅かに動く子犬を、見るとはなしに眺めて溜息をつく。
「名づけるのは仕方ない、だが、どうして僕の部屋にいるんだ」
確か、その犬の飼い主は僕じゃなく、婚約者のはずだ。
母の命令で彼女のために、僕が買わされた犬であったはずだ。
だというのに、何故、この部屋に存在しているのだろうか。
「マリー様は、学校にお戻りになられました。子犬は人と共におりませんと、上手く育ちませんから」
マリー様に押し付けられたのは、貴方様ですよ?
と、くすくす笑いを含んだ返事が返ってくる。
確かに、婚約者がそんな事を言っていたかもしれない。
特に気にもしていなかったので、記憶があやふやだが。
「だったら、確かに名前がないのは不都合だな。・・・ジークフリートにしよう」
北欧の神話に出てくる巨人の神の名前だ。
ずっと昔、一度だけ読んだことがある。
割と好きな話だったのでよく覚えていた。
この犬をあの店で見た瞬間、僕の脳裏に何故だか浮かんだ本の背表紙には、北欧神話と書かれてあった。
僕の言葉のどこが可笑しかったのか、執事が小さく笑う。
「名前はつけたからな、世話はお前が焼け。僕は、断じてみないからな」
僕の宣言に、僕の執事が大仰しく一礼した。