第6幕 群青と真白の戦い
油断していたわけではない。だが、焦っていたのは事実。こういう場合、なるべく人通りの多い道を行けと昔亜嵐に教わったはずなのに。
身体を捩って脱出を図るも拘束は強くなるばかり。この程度の事に屈してたまるかと相手の足を踏みつけるが、走り通しで疲労した身体では太刀打ちどころか拘束を解くことすらできなかった。
「大人しくしろ」
その声と共に呼吸を封じていた手が強くなり、息が苦しくなる。どうにか隙間から酸素を取り入れようとするものの、だんだんと力が抜けていく。
『死にそうになる前に他を頼れ』
今朝亜嵐に言われた言葉を今更思い出して、少し泣きそうになった。
「ふ、はっ……はぁ、はぁ……」
ようやく大人しくなった六花の耳に、拘束している男の溜息がかかる。口元を塞いでいた手が離れ、一気に酸素が肺を満たした。
崩れ落ちるように座り込み、涙目で相手を見上げる。
群青色の衣を彩る柳の紋からして柳家の当主で間違いない。
しかし、どうして柳家が。
危機的状況の中で思考を巡らしていた六花の疑問に答えるように、柳家の当主は口を開いた。
「単刀直入に言う。お前の射た者は侵入者ではない」
「だったら何者ですか」
どうにか自力で立ち上がり、己が不利な状況にあることなど忘れて食ってかかる。
「護衛のようなものだ」
「護衛…?」
「我が家は護衛のため隠密を雇っている。我々に危害を加える輩にのみ攻撃を許可している」
柳家に限らず皇族や大貴族の家には隠密がいるというのをちらっと耳にしたことはあるが、都市伝説だと思っていた。柳家の当主は驚く六花を前に、誰も知らないはずの隠密の存在を六花に明かす。
「柳家は皇帝に歯向かう気など毛頭ない」
そう言って、当主は差していた剣を地面に置いた。
言葉の意味を体現したのだろう。臨時とは言え今の六花は禁軍の騎士。禁軍に逆らうことは、皇帝に逆らうのと同じことだ。
六花を見下ろす壮年の男は、長い黒髪をきちんと結い上げ、恐ろしく高価な衣を纏っている。
冷たい眼をした人だと思った。それと同時に、高潔な貴族の品格を備えた人だとも思った。
権力を振りかざして得た富と財をひけらかすような名ばかりの貴族とは違う。国を支え領地と領民を守り、貴族として恥じない生き方をしてきたからこそ、ここまで威風堂々としていられるのだ。
疑いを晴らすために嘘を言うような人には見えない。それが六花の見解だった。
「…では護衛さん、姿を見せてください」
護衛と言うからには当主の近くにいるのだろう。柳家の当主は少し顔を顰めたが、従うようにと声を掛けた。
するりと何処からともなく現れた黒衣の男。肩口の布が一直線に破れている。
黒衣の男は無言で袖を捲り上げ、二の腕の刺青を見せる。古い主従の証であるそれは、主を命懸けで守ると誓った従者の覚悟を意味するという。
男の腕には柳家の象徴である柳紋が深く刻まれていた。
「…来年は、もっと怪しまれない姿で来てくださいね」
思わず口元をゆるめてそう言うと、六花は再び柳家の当主と向き合った。
六花は柳家当主の視線を浴びつつ、浅い呼吸を繰り返す。
侵入者が護衛であることを認めた以上、六花は伽羅皇国の筆頭貴族の当主に無実の罪を着せようとしたことになるのだ。
立っていることすらままならないような圧倒的な威圧感が六花を襲う。氷のように冷たい視線が突き刺さり、六花は崩れ落ちるように地面に膝をついた。
「恐れ多くも他ならぬ柳家の御当主にあらぬ疑いをかけたこと、決して許される行為ではなかったと存じております」
できるだけはっきりとした口調でそう告げる。気を張っていないと声が震えてしまうからだ。
「罰を受ける覚悟はできております」
皇族とも姻戚関係にある柳家は、皇家の次に権力を持つと言われている。不敬とみなされれば即投獄。害なすことなどあれば、地位や権力のみならず住む場所や家族、存在までをも文字通り抹消されるのだ。
柳家に逆らい消された貴族は数知れず、そのうち社会復帰した者は一人もいないと、実しやかに囁かれている。特に冷酷非道と恐れられる柳家の当主が関われば、言葉にするのも憚られるほど悲惨な末路を辿ることになる、とも。
「お前は酉家の者だな」
静かに口を開いた柳家の当主。
その言葉に六花の心臓はばくばくと脈打つ。柳家からすれば、酉家など風前の塵。柳家が敵と見なせばひとたまりもないだろう。
亜嵐は六花を信頼して『酉』を名乗ることを許したのだ。己のせいで酉家に迷惑がかかるようなことになれば。
「ええ。しかし此度の失態は私個人の落ち度です。酉家には関係の無いことでございましょう」
ぎゅっと眼を瞑った六花。
どうか、お願いだから亜嵐には手を出さないでくれと必死に願う。
「名は何と言う」
少し間を置いて、当主はそんなことを問うた。
そんなものは柳家の情報網があれば一瞬でわかることだ。質問の意図がわからず柳家の当主を見上げると、冷徹な雰囲気は影を潜め、何かを思案するような表情。
六花は不思議に思いつつも氷雨と答えると、当主は明らかに顔を顰めて質問を繰り返した。
「…六花」
酉家に迷惑がかからないのなら何だって構わない。煮るなり焼くなり何なりすれば良い。そんな投げ遣りな覚悟を胸に、拳を強く握って柳家の当主を睨み上げれば、彼は僅かに口角を上げる。
そして何の前触れもなく、手にした鉄扇を六花の首に突き付けた。
反射的に剣を抜いた六花は、危機的状況であることを忘れて鉄扇を斬り落とす。
斜めにスッパリと斬られた鉄扇がバラバラと散らばり、鉄はこうも簡単に斬れるのかと驚いた。
そして、日頃の稽古の成果をこんな所で発揮してしまう自分の愚かさを呪った。
己の足跡のついた靴に続き鉄扇までもを台無しにしてしまった六花は、みるみる顔を蒼くし震え出す。意思とは無関係の反射条件だと弁解したところで罪が軽くなるとは思えない。
恐る恐る柳家の当主を窺い見れば、興味深げに鉄扇の切り口を指でなぞっている。そしてぱたぱたと鉄扇を開き、先が尖って殺傷能力の上がったそれをしげしげと眺めた。
「悪くない」
だらだらと冷や汗を流す六花を一瞥し、柳家の当主は不気味な一言を零す。そしてその鉄扇を袂に仕舞うと、何事も無かったかのように瑪瑙宮へと歩き出した。
俄かには信じられなかった。
これまであの柳家の当主に嫌疑をかけ、それでいて無事だった者が一人でもいただろうか。
いや、いるはずがない。いてはならないのだ。
「お咎めはないのですか」
放っておけば良いものを。自分でもそう思うが、当主の後ろ姿にそう声をかける。腑に落ちないからだ。
「お前は咎められるようなことをしたのか」
「そのつもりはありません」
はっきりと否定する六花。侵入者を捕まえることが六花に与えられた仕事で、その仕事を全うしたまでのこと。
「ならば安易に罰を受けるなどと口にするな」
それは、咎める気は無い、ということ。
それだけ言った彼は、群青色の衣を翻して宮殿へと歩いて行った。
亜嵐が邸に戻ったのは六花より一刻《2時間》程後のこと。いつも通り出迎えた六花を一目見て眉をひそめた亜嵐は、ひどく顔色が悪いと言う。
「そんなことないですよ?」
六花はぎこちない笑みをつくって嘘をつく。本当は、瞬きをする度に柳家の当主のことが脳裏をよぎって落ち着かないのだ。
「何があった」
亜嵐は表情の変化に意外に鋭い。まるで何かあったことは分かっているような口ぶりだ。幼少期から世話になっている亜嵐を騙すことなどできるはずもなかった。
「…言えません。でも、私は大丈夫ですから!」
いくら亜嵐でも今日あった事を喋るわけにはいかないからと、必死で取り繕うが、無言の亜嵐に手を引かれ、彼の自室に押し込まれた。
ガチャンと扉を閉めた亜嵐は、怖い顔で六花を見下ろす。問い詰められるのだろうか、そんな事を思った矢先。
亜嵐は六花の頭に手を回し、自分の胸に引き寄せた。筋肉の隆々とした亜嵐の胸は、とても固いけれどあたたかい。わざと六花の顔が見えないようにしてくれるのは、彼の優しさゆえ。
泣いて良い。
言葉にこそしないが、亜嵐はいつだってこうして六花を甘やかすのだ。
じわりと視界が滲む。
徐々に呼吸が荒くなって、ついに足元に涙が溢れ落ちた。
「……っ、う…」
怖かった。怖くて仕方がなかった。
こんなにも優しい亜嵐に迷惑をかけてしまったら。傷付けてしまったら。それを考えるだけで震えが止まらなくなるのに。
もし嫌われてしまったら。捨てられてしまったら。六花は生きていくことすらできない。
六花にとって亜嵐は、そのくらい絶対的な存在なのだ。
柳家の当主を前にして、六花は昔のことを思い出していた。極刑となった柊妃、行方不明の紫季、殺された母。
六花はあの時、何もかもを喪った。
立ち向かうことなど到底出来ない強大な相手に、生きる糧となる全てを奪われたのだ。
己には何の力もないことを思い知らされた。何も出来ない自分が情けなくて、悔しくて、消えてしまいたいと思った。六花には、敵うことのない相手を憎むことしかできなかった。
生きる希望すら、見出せずにいた。
そんな六花に、再び大切な物をくれた亜嵐。
生きる希望や喜びを与えてくれた亜嵐。
もし、彼を喪ってしまったらーーー
「亜嵐様っ……」
目の前にいるのに、不安に押し潰されそうになる。温もりを感じるのに、震えが止まらなくなる。
「どこにも、行かないでっ……」
もう、何も喪いたくない。
亜嵐の胸に縋り付いて泣いていた六花の頭を、大きな手が優しく撫でつける。昔から変わらない優しい手つきで。
「…お前みたいなの一人残して、消えるわけねえだろ」
低く優しい声が降ってくる。
縋り付いている胸から振動が伝わって、それに安心する。
「心配かけて、ごめんなさい」
もっと強くならなくちゃいけない。もう十七なんだから、いつまでも亜嵐に甘えてばかりもいられなくなるだろう。
依存ーーー
本の中で見たその言葉が、心に重くのしかかる。六花は亜嵐に依存しすぎているのではないか。もう良い歳なのに亜嵐が結婚しないのは、六花のような重りがいるせいではないのか。
「子供の心配すんのが親の仕事なんだよ」
それでも六花は少しの罪悪感を見て見ぬふりして、亜嵐に甘えてしまうのだった。




