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第2幕 約束の行方

 異変が起きたのはその日の夜の事だった。

 母が腕に怪我を負って帰ってきたのだ。問い詰めても何でもないの一点張りで、六花(リッカ)は事情を聞くため柊妃(シュウヒ)の元へ向かった。


 柊妃の部屋は花と煙の混ざったような異様な臭いが立ち込め、六花は思わず噎せこんだ。涙目のまま部屋の中を見渡すと、あちこちに真っ白な花が飾られている。


 柊妃は黒衣に身を包み、大きな箱の前で蹲っていた。荒々しく咽び泣く声に六花は肩を揺らす。穏やかな柊妃からは想像もつかないような金切り声で、叫ぶように泣くのだ。


 とても辛くて悲しいことがあったのだろうと想像はつくが、六花にはわからない。泣き叫ぶ柊妃を前にして呆然と立ち尽くしていると、彼女は六花に気付かないままこう言った。


「憎い、憎い、憎い…何故春日(カスガ)なの!? 何故あの子ではないの!」


 柊妃は狂ってしまった。

 六花は漠然とそう思った。


「あの子さえいなければ……春日はっ!」


 柊妃の豹変。

 ここから六花の世界はおかしくなった。

 それは、全ての終わりの、始まり。




 その日から、六花は理由も告げられないまま外出を禁じられた。いつも優しかった母は思い詰めたように表情を暗くし、六花に構う時間も極端に減った。


 寂しい。そんな事を告げて母を困らせたくなかった六花は、母の仕事中に窓から抜け出した。紫季シキなら今まで通り遊んでくれるかもしれない。そんな期待を抱いて湖の周りを探すが、彼の姿はどこにもない。


 来る日も来る日も母の目を盗んで紫季を探すが、期待して行っては落胆して帰る、そんな日々が続いた。

 そして、最後に会った秋の日から一度も会えないまま、ついに新年を迎えた。



 今日会えなかったらもう探すのはやめよう。

 望みも薄れかけたその日、新年の挨拶のため柊妃の元へ出向いた六花は、小雨が降る中小さな唐傘を差して庭へと降り立った。

 徐々に雨足が強くなり、北風が容赦なく打ち付ける。しっとりと濡れた服に体温を吸い取られ、凍えてしまいそうな中で紫季を捜すが、やはり見つからない。


「いない…」


 落胆の色を含んだ六花の独り言は雨音に掻き消された。

 引き返そう。そう決めた六花はじわりと滲んだ涙を袖で拭い、母の待つ離宮へと駆け戻るのだが。


 パシャン、と音を立てて雨水が跳ね上がる。


 ぬかるみに足を滑らせ、六花は水溜まりの中へ飛び込んだ。氷のように冷たい泥水が服を浸食し、一瞬にして厚手の衣は意味を成さなくなった。


 痛みと寒さで泣きそうになりながら、ゆるゆると起き上がると、かじかんだ真っ赤な手の上に大きな影が落ちた。見慣れぬ緋色の衣が目に飛び込んでくる。恐ろしく高価な絹の裾に、くすんだ茶色の染みが出来上がっていた。


 深々と冷えていく身体と同様、心まで冷えてゆくようだった。恐る恐る顔を上げようとした六花に、耳を塞ぎたくなるほどの怒声が降りかかった。


「皇太子殿下の衣になんてことを!? 小娘、お前は誰の娘だ!」


 側近は、緋色の男を皇太子と呼んだ。その意味を理解した途端、ガタガタと身体が震えだした。

 寒さからきたものか、それとも恐怖なのか。母と柊妃との会話に何度も出てきた『コウタイシ』の言葉。それが誰のことなのか、理解できないほど幼くはなかった。


「ご、めんなさ…」


 六花はわなわなと震える唇で、なんとか言葉を紡ぐ。しかし怒声を発した側近は謝罪の言葉を撥ね退け、蹲る六花の胸倉を掴み激しく揺らした。


「誰の子かと聴いている! 言え、母子共に処分してやる!」


 あまりの恐怖に六花の目からぼろぼろと涙が溢れる。自分のせいで母や柊妃にまで迷惑がかかってしまうことが、何より怖かった。


「泣いていないで答えろ!」


 紫季を捜しになど来なければ良かった。無駄とはわかっていても、記憶の中の彼に助けを求めてしまう。


 助けて―――


 六花は心の中でそう叫ぶ。

 涙でぼやける視界の中に、濡れた紫苑の花を見た気がした。




「その手を離せ」


 凛とした、涼やかな声が空気を割く。その懐かしい声は確かに紫季のもので。六花はパチパチと目をしばたかせた。


「紫季皇子、殿下…」


 そう呟いた側近が、手を離して六花を揺さぶるのをやめた。紫季は側近には目もくれず、静観していた緋色の男の前に膝をつく。


「幼子ゆえ分別がつかぬのでしょう。これは母上付の女官の子。瑠偉ルイ様、母上と私に免じてどうかお許しください」

「紫季。お前は自分の立場をわかっておるのか? お前との繋がりがある時点で、その小娘の末路は決まっておろう」

「幼子までも手にかけるおつもりですか」

「小娘であろうと不穏分子を生かしておくわけにはゆかぬだろう?」


 蛇のような目で睨めつけられ、びくりと身体を揺らす。こんなにも冷たい目を、敵意のこもった目を向けられるのは初めてだった。この男は、赤子の手を捻るよりも簡単に六花の命を奪うことができるのだ。


「だから姉上を殺したのですか」


 恐怖に震える六花の視界を塞ぐように、皇太子の前に紫季が立ちはだかる。低い声で唸るように話す紫季は、六花の知らない紫季だった。


「春日を殺したのはお前だろう! 彼女は嫁ぐことなど望んでいなかった!」

「貴方と姉上が一緒になれないことくらい、わかっていたはずだ。嫁ぐことが最善の手段だったのに…!」

「最善だと? では何故彼女は自ら死を選んだ! 春日を追い詰めたのは誰だと言うのだ!」

「それは貴方自身だろう! 姉上を想っているなら何故姉上に手を出した! 赦されるはずがないとわかっていて、何故!」


 紫季が泣いている。

 雨が降っていても、六花にはわかった。カタカタと震える手を紫季に向けて伸ばすが、紫季には届かない。

 泣かないで。六花がそばにいるよ。

 どうしてもその思いを伝えたくて、伝えなければならない気がして、何度も何度も必死で手を伸ばす。


「この子は私が守ると決めた。これ以上何も、あんたに奪わせやしない」


 紫季と皇太子と呼ばれた男は、しばらくの間じっとお互いを睨み合っていたが、紫季の根気に負けたのか皇太子はフンと鼻を鳴らして去っていった。




 ぬかるんだ地面にぺたりと座り込んでいた六花は、たった今何が起こったのか理解できずにいた。

 涙目で紫季を見上げた瞬間、六花の身体が持ち上がり、包み込まれる。湿った衣越しに紫季の体温を感じ、六花が無意識に温もりを求めるように抱きつくと、紫季は六花を強く抱きしめ返した。


「大丈夫。絶対に守るから」


 紫季の声は震えていた。

 ぎこちなく微笑む彼を見て、六花は己が助かったことを知った。そして、紫季に縋り付いて大泣きした。




 その後女官に世話されて入浴を済ませた六花は、紫季の腕の中で漸く落ち着きを取り戻した。


「六花、すまなかった。怖い思いをさせてしまったね」

「リッカこわくなかったよ。シキがいるから。シキはこわくなかった?」

「私が…?」

「シキ、ないていたから」


 紫季は一瞬大きく眼を開けた後、綺麗な顔をくしゃりと歪めた。次の瞬間六花はきつく抱き締められ、もう紫季の顔は見えなくなった。

 紫季は何も言わない。しかし微かに震える身体が彼の感情を露わにしていた。


「シキがこわいときは、リッカがいっしょにいてあげる。シキはリッカがまもるの」


 紫季の眦から水晶のような雫が落ちた。

 ありがとう、と震える声で言った紫季は、暫く六花を抱きしめたまま離さなかった。六花は紫季が何かを言ったのを夢見心地で聞きながら、揺籠のような安心感の中で眠りに落ちた。


 そして六花が目を覚ました頃には紫季の姿はなく、其れ切り、二人が会うことはなかった。






 これは後に聞いた話。おとぎ話のような皇子との邂逅の直後、皇帝の身体に病が見つかった。進行性の不治の病は非常にゆっくりとではあるが、確実に皇帝の身体を蝕んでゆく。


 いきなりのことに周囲は焦り、早急に次の皇帝を決めることとなった。世襲制である皇位は通常、皇后の子である長子に譲られる。しかしその決定には反論の声が挙がった。


 皇后の子―――瑠偉皇子といえば、贅沢三昧の生活を送る上にたいした功績もない、地位に胡座をかいた坊ちゃんなどと揶揄されるような人物だ。

 一方、紫季皇子は母親の身分こそ低いものの、齢十五にして国内の領主同士の争いを平定させ、さらにその土地の特産品を売り出し繁栄をもたらすという切れ者で、かつ禁軍の騎士を凌ぐほどの剣の実力を持つという。


 周囲の者は皆、ひと月早く産まれた紫季皇子が皇位を継ぐものだと考えていたが、圧倒的な実力の差がありながら瑠偉皇子はその事を良しとしなかった。


 皇后の後押しもあり、瑠偉皇子は周囲の了承を得られぬまま立太子の儀を執り行い、皇太子となったのである。


 そのことに対し、もとより瑠偉皇子の暴走を危惧していた貴族や官吏たちの不満が爆発した。そうして出来上がったのが紫季皇子の派閥である。

 紫季皇子は争うことを望まなかったが、このとき既に皇太子と紫季皇子との間に入った亀裂は修復不可能となっていた。

 どうにか話し合いでカタをつけようとする紫季皇子に対し、皇太子の派閥は血縁である弟皇子までもを巻き込み、戦線布告を行ったのである。



 こうして勃発した継承戦争は、人々の予測とは異なる結末を迎えた。


 最初こそ優勢に戦っていた紫季皇子の軍勢。軍師としての才を発揮し優位な戦いを続ける紫季皇子だったが、圧倒的な数の差を戦略で埋めるのに苦戦していた。田舎貴族である柊家に武力を頼る事は出来なかったのだ。



 ついに戦乱の火の粉は城下にまで及び、飢餓に苦しむ者、戦乱に巻き込まれて命を落とす者まででてきた。そんな中皇后の実家から出された徴兵令により、皇太子派の領地から男の姿が消えた。


 急拵えの鎧を身につけた町人たちは、束になって紫季皇子の軍に立ち向かう。剣の持ち方すら知らない彼らは、蹂躙と言っても良い程呆気なく死んだ。


 白い布をかけられて運び出されてゆく兵士、痩せ細り路上で息を引き取る老人、既に息のない子供を必死で守ろうとする母親…

 そんな様子を目の当たりにして、心根の優しい少年が何も思わないでいられようか。醜い兄弟喧嘩により国民を苦しめているという事実が、紫季の心を蝕んでいった。


 そして紫季は様々な葛藤の末、戦争を終わらせることを選んだ。

 白旗を揚げたのだ。



『勝てば官軍』

 いつの時代だってそう。

 勝者の都合の良いように真実は捻じ曲げられ、偽の歴史がまるで事実かのように語り継がれてゆく。紫季皇子は戦争を引き起こした戦犯として牢に繋がれ、柊妃やその父である柊家の当主は処刑。柊家は断絶を余儀無くされた。


 最期まで柊妃を守ろうとした六花の母も、戦犯の関係者として然るべき処分をされた。



 そして紫季皇子は。


 皇子が繋がれ一月も経たないうちに牢で火災が発生し、燃え広がる炎に打つ手のないまま一日かけて焼失したのである。




「紫季様………」


 ぼんやりと紫苑の花を見つめながら、思い人の名を呟く。今ではもう、顔や声すらも思い出せないけれど。

 六花は彼の皇子が今もどこかで生きていることを、信じている。






「お嬢様、お館様がご出立なされますよ!」


 揺れる紫苑の花を見ながら懐古していた六花だが、甲高い声にいきなり現実に引き戻された。今日は禁軍登用試験の最終試験が行われるため、亜嵐の出立も早い。


「今行きます!」


 軽く裾をはたいて、紫苑の花を一輪だけ髪に挿した六花は、亜嵐を見送るため急ぎ足で門を目指した。

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