大将軍の落ち着かない夜半
帝都へと帰ったのは冬の始まり、十一月の半ば頃。紫苑の花は六花の居ない間に咲き、散った。それは見事に咲いたのだと口々に聞かされ、不貞腐れた六花が猫を猫質に部屋に立て籠もると、その日のうちに紫苑の押し花が家中至る所に飾られた。
今まで抑圧されていた望みが爆発したように勝手気儘に過ごす六花を、使用人は仕方なさそうに笑って許してくれる。六花はここぞとばかりに加乃に抱き着いたり、腹が膨れるまで甘味を食べまくったり、猫屋敷に乗り込んで昼寝をしたりしながら、亜嵐の帰りを待った。
日が暮れてから一刻後、亜嵐は帰宅した。亜嵐との再会は随分あっさりしたもので、いつもより強めに抱きしめられ、短くなった髪に触れられた以外は至っていつも通り。茶を飲みつつ西香で起きたことを色々とお喋りして、夜が更ければ早く寝ろと追いやられる。もっとお話ししたいと上目遣いで見上げても折れてはくれなかった。
「ねえ亜嵐様、最後にひとつだけいいですか?」
「ん、どうした?」
「もし私が人を殺しても、もし私が人で無くなっても、私のこと見捨てないでくれますか?」
「当たり前だ」
間髪入れずに返ってきた答えに安堵した六花は、最後にもう一度亜嵐に抱きついてから、おやすみなさいと部屋を後にする。あったかくして寝るんすよと司馬に見送られ、擽ったさを感じつつ自室へと戻った。
六花のいなくなった室内で、亜嵐の手にした茶器が粉々に割れた。鋭利な破片も分厚い手の皮を突き破ることはできず、パラパラと机上に落ちていく。
「よくお嬢の前で我慢しやしたね」
「………こんな所見せられるか」
「お怒りはごもっともですが、若たちにも遠慮してやって下せえ」
司馬はカラカラと笑いながら、後ろにつづく二人の青年へ視線を動かす。ぎょっとた顔の朱李と顔面蒼白な景佳が、亜嵐の前に引き出された。
「長旅ご苦労だったな。六花の救出に尽力してくれたこと、心より感謝する。これは報酬だ」
布製の巾着が、重量感のある音を立てて卓上に置かれた。しかし朱李はその報酬を受け取ろうとしない。
「友人を助けるのに報酬は必要ありません。全て己の意思で行ったことです。それよりも、堰堤の建設について史林と協力関係を結ぶことを認めていただきたく存じます」
「その話は六花から聞いた。氷雨と史林侯の許可は下りてるんだろ? 俺が口を挟むことじゃねえ」
「ええ。ですから、報酬の代わりとして酉の名をお借りしたいのです。史林の安全のために」
真剣な朱李の目を暫く見つめて、亜嵐は司馬へと視線を移した。
「司馬、お前の弟子を暫く史林に遣れるか?」
「放浪弟子でよろしければ」
「あいつか…軍旗を忘れるなと忠告しておけ」
苦々しい顔で言った亜嵐に、朱李はとんでもないとばかりに首を振った。
「そこまでしていただくわけには!」
「六花の価値がそれに劣るとでも思ったか? 必要ならば軍を派遣すると史林侯に伝えろ。少数だが西魁軍にも手駒は置いてある」
「有難く、頂戴致します…」
迷いながらも頷いた朱李から視線を逸らし、亜嵐は直立不動の景佳を値踏みするように見遣った。
「それで、お前が景佳か?」
「は、はいィ! お嬢には世話になってるですゥ!」
ビクゥッとわかりやすく震えた景佳は、訛りの抜けきらない返事をする。朱李が頭を抱えていることにも、司馬がニヤニヤしていることにも気付かないくらい本人は必死だ。
「…その訛り、龍脈付近の奴だな? 俺が居ない間六花の力になってくれた事を感謝する」
「勿体ねェ言葉ですゥ!」
「………お前にも報酬だ。六花の護衛を勤めた功績を称える」
朱李が放棄した報酬をそのまま回され、景佳は既に青白い顔を紫に変えた。
「こ、こんなに受け取れねェですよォ! 一枚で十分! お嬢にも貰ってるですしィ! それより俺ァお嬢の騎士になりてェです!」
亜嵐の手の中で二つ目の茶器が割れ、司馬の糸目が限界まで開かれる。即座に拘束された景佳は稽古場へと引きずられていき、一刻後、へろへろになった状態で客室へと案内されていった。
「………良かったんで? ありゃあ道場剣術ですぜ」
「良くはねえが、六花がここまで連れて来たんだ。実戦ってやつをこれから叩き込んでやりゃあ良い。それにあれは中々良い目をしてやがった」
「まあ、お嬢に仇なすようには見えやせんでしたが、かといってお嬢に惚れてるわけでも心酔してるわけでもねえ。金目当てってわけでもなさそうだ。お嬢に近付く目的がわかるまでは信用できないっすね」
亜嵐と司馬がそんな評価を下していたとき、傍観していた朱李がおずおずと一歩前に出た。
「…何か言いたい事があるようだな」
亜嵐は前に立つ朱李の尋常ではない空気を感じ取り、酒へと伸ばした手を止める。朱李は躊躇いがちに視線を迷わせてから、意を決して口を開いた。
「これから話すことは私の主観に過ぎません。しかし大将軍にはお話ししておくのが筋だと考えました」
「六花の匂いが変わったことに関係してるんだろ?」
「やはりお気付きでしたか…」
「これでも十三年あいつの親やってんだ。戯言でも構わん、話せ」
亜嵐に促され、朱李は強張った身体を弛緩させる。そして落ち着いた声で、言った。
「結論から申しますと、六花嬢は何かに取り憑かれています。彼女の殻と意識だけを残して、別の何かが彼女を生かしているような………正直、戸惑わずにはいられませんでした」
朱李の突拍子も無い一言は、亜嵐に少なくない衝撃を与えた。
「………何かってのは、何だ」
「夥しいほどの神気。恐らくは…」
───龍神。
朱李の口から紡がれた建国神話の神の名に、流石の亜嵐も眉を釣り上げた。しかし有り得ないと一蹴すればそれまで。一通り相手の主張を聞いてから判断するのが、大将軍としての正しい在り方だ。
「俄かには信じ難い話だが、何か根拠があるのか?」
「六花嬢のあの姿を見て疑問に思われませんでしたか? 西香で受けた拷問の傷も、毒による後遺症も見当たらない。辛うじて残る痕跡は短くなった髪の毛のみ。彼女の言葉とその結果が大きく矛盾している」
「………まさか、龍血か」
「ええ。六花嬢が龍血を摂取していたとすれば辻褄が合います。いえ、龍血によって生かされていると仮定して、どうにか納得できるような状態です。前例が少な過ぎるため、推測の域を出ませんが………父ならば、もう少し詳しい事がわかると思います」
「言いたい事はわかった。六花は史林侯のもとへ向かわせる」
朱李自身でさえ信じ難いような荒唐無稽な話を、亜嵐はあっさりと受け入れてしまう。この度を越した懐の深さには朱李も面食らった。
「大将軍は否定されないのですね」
「根拠がないのに感情論で否定するほど低脳じゃねえよ。詳しい奴がいるのなら、そいつに任せるのが最善策だろう。面倒をかけるが、連れて行ってやってくれるか」
「承りました」
朱李は恭しく拱手し、泊まっていけという誘いを断り酉家を後にする。ややあって、剣呑な目で遠くを睨みつけた亜嵐は、無意識のまま握り拳を卓に叩きつけた。真っ二つに割れたそれから酒瓶が滑り落ち、粉々に砕け散った。
「よく若の前で我慢しやしたね」
「………六花が言った『人間で無くなっても』ってのは、事実か」
「さあ、あっしにはわかりやせん。何が取り憑いていようと、お嬢はお嬢っすから」
あっけらかんとした司馬の様子は、今にも沸騰しそうな亜嵐の怒りに冷水を注ぐ。特注の毛皮の椅子に凭れかかった亜嵐は、だらりと両手を投げ出し天井を仰ぎ見た。
「六花を行かせちまった俺の落ち度だ。もう酉家には関わらせたくないってのが本音だが、そうも言ってられねえ」
「史林との交渉はお嬢にしか出来ないっすからね。史林侯もそれを望んでおられる」
「史林侯なぁ…人格者だし頭はキレるが、どうにも胡散臭ぇ。六花を養女にしたがるぐれえだから悪い様にはならんと思うが、いまいち信用できねえんだよ」
「若も交渉に同席するよう言っておきやしょう。お嬢の天然具合が心配っすけど、領主代行印まで持たされちゃあ腹括るしかないっすね」
「………………は?」
「………………え?」
亜嵐と司馬の間に沈黙が落ちる。
亜嵐ははくはくと息を吸って、絶叫した。
「領主代行印だって!? 一言も聞いてねぇぞ!!」
「手形に特大の根付が付いてきたって、お嬢に渡されたんすけど…」
司馬の手の中で、正真正銘の領主代行印がきらめいた。印の飾り紐には極彩色の手形が括り付けられている。
「これが根付に見えるか…? 寧ろ手形の方がオマケだろ」
「上手い皮肉を言うようになったもんだと感心しやしたが、お嬢はやっぱり侮れねえ。期待を裏切らないっすねぇ」
「これは俺のせいか? 俺が過保護にし過ぎたせいで天然が限界突破しちまったのか?」
「一つの要因ではありやしょうが、ありゃ天性のものっすね。今更矯正は無理っす」
がくりと項垂れた亜嵐はしかし、ぎらぎらと目を血走らせて覚悟を決める。亜嵐の懐から出て来た鉛色の物体を見て、司馬の糸目が弧を描いた。
「これで、酉家を潰す大義名分ができた」
「ええ。準備は整っておりやす」
「六花へ害為す者へ、相応の報復を」
ほくそ笑んだまま拱手した司馬は、足音も立てずに闇の中へと消えた。




