氷雨との別れ
「…妹から離れろ」
厳しい表情で馬車の中を見渡し、氷雨は朱李に目を止めた。剣の柄に手を掛けた朱李は、へらりと笑ってその手を下ろす。
「これは失礼、お兄様でいらっしゃいましたか」
「お前に兄と呼ばれる筋合いはない。…六花、おいで」
あの家には帰りたくない。恐怖感が優った六花は反射的に朱李の袖を強く握る。それを見て、氷雨はギリリと歯を食いしばった。
「六花嬢は私の方が良いようですが?」
「っ…それは俺の妹だ! 返してもらおう!」
「妹を守れない者に兄を名乗る資格はない。そうは思われませんか?」
朱李が六花の髪に触れる。短くなったことに漸く気付いた氷雨が言葉に詰まり、六花は毛先が隠れるよう襟元を立てた。
「それは一体、誰が」
「知らない。氷雨がけしかけたんじゃないの?」
「俺はそんなことしてない! するわけがないだろう!」
「六花嬢は貴方がいなくなった後、酉家で毒を飲まされ拷問され、さらに傭兵団に捕まり暴行されたのですよ。お兄様はそれも関係ないとおっしゃるのでしょうか」
氷雨は感情の欠落したような顔で立っている。六花への刺客について本当に知らないのだろう。左耳の傷痕に、氷雨の手が伸びた。
「西香に置いておくより帝都の方が安全だと判断し、大将軍に代わりお迎えに上がりました。帝都では六花嬢の兄貴分として過ごしておりましたからご心配には及びません。無事に大将軍のもとへ送り届けますよ」
猫を被った朱李ではなく、氷雨は六花を凝視していた。置いて行かないで。ひとりにしないで。そんな苦しみを孕んだ目だった。
「六花、行くの…?」
氷雨の声が掠れている。手は左耳の傷痕をなぞり続ける。
『氷雨様の左耳に残る古傷は、お父上から受けたものにございます。氷雨様は心が乱れると左耳に触れる癖があり、未だ心の傷は癒えていないのです』
『どうか氷雨様をお救いくださいませ』
斎利にそう頼まれたことを思い出す。六花は立ち尽くす氷雨の腕を引き、馬車に座らせた。
「ねえ氷雨、毒を盛られたことある?」
「食事の後腹痛に苛まれたことはある」
「監禁されたことは?」
「見張りをつけられて、部屋の出入りを禁じられたことは。でも前領主は教育の一環だと…」
「違うよ氷雨。そんな教育があって良いわけない」
気付けなかったのも無理はない。氷雨にとって、それは当たり前のことだったから。それゆえ六花を一人残して家を出ることにも躊躇いがなかった。
「あれは酉家の洗礼だよ。六花にもそれを乗り越えて欲しかったから…」
「六花嬢が忌み子であること忘れていたと? 危うく死にかけるまで?」
「それは…」
氷雨にとって地位も人望も勝ち取るものであり、享受されるものではない。何も為していない六花が奴隷以下の待遇を受けることは当然のこと。
相応の待遇を受けたければ六花自身が勝ち取るしかない。亜嵐に仕込まれた六花なら大丈夫だと、氷雨は思い込んだ。
「ごめんね。俺、六花なら平気だと思って…」
「それだけではないのでは? どうして六花だけ甘やかされるんだ。自分と同じ目にあえばいいと、少しも思わなかったわけではないでしょう」
「そんなこと…」
「自分より可哀想な忌み子を手元に置いておきたかった。忌み子のくせに、大将軍に可愛がられ守られている六花が羨ましくて憎らしくて、能天気な笑顔を歪ませてやりたくなった。違いますか?」
「違う…違う! 俺はそんなこと考えてない!」
「本当に? ほんの僅かも無かったと言い切れますか?」
「そんなこと、は…」
「朱李くん、あんまり氷雨をいじめないで。ちょっと二人で話したいんだけど、良いかな」
見える範囲でなら。そんな風に答えた朱李は、馬車の窓を開け放ってから小雨の降る外に出る。慌てて景佳がその後を追い、六花と氷雨だけが取り残された。
「初めから西香を出て行くつもりであいつを呼んだの?」
「…まさか。助けを呼べるものなら呼びたかったよ。この髪を見ておきながら、よくそんなことが言えるね」
何の説明もされず危険な場所に連れて来られるとは思ってもみなかったのだ。龍神の加護が無ければ既に死んでいた。六花がつっけんどんな返事をすれば、氷雨は逆上して六花の胸ぐらを掴んだ。
「髪ぐらい何だ! どうせすぐに伸びるだろ!」
「髪は女の命って知らないの!? このせいで奇異な目で見られるんだよ!? じゃあ氷雨は全部剃り上げられてもいいんだ!」
「やれるものならやってみろ! 死ぬより百倍ましだ。嫁の貰い手が無けりゃ、あのドブネズミ色に泣きつけば良い!」
「ほんっとに失礼なことを!! このアブラムシ!!」
子供の喧嘩のような応酬を繰り返す双子を、朱李は震えながら、景佳はハラハラと見守る。路傍まで離れても聞こえるほどの大喧嘩だったのだ。
「柏様になんてことを言うんだお兄様ァ…」
「待って…アブラムシって、自分もでしょ。腹が捩れそう…」
「それどんな虫なんすかァ?」
「そっか、西香は寒いから出ないんだね。でかくて黒光りしてカサカサしてて、」
「あ、そこまでで良いっすわァ。嫌な予感がするんでェ」
景佳は朱李の説明を途中で止め、再び双子に視線を戻す。目を離している隙に二人の喧嘩は激化していた。
「お前は木刀で百回打たれたことがあるのか!? 雪山にひと月置き去りにされたことがあるのか!? 泣きながら千回土下座させられたことがあるのか!!」
「あるわけないでしょ!」
「俺は、あるよ」
六花は目を剥いた。斎利に聞いていたよりもずっと惨めで劣悪な教育を受けていたからだ。
「死ぬほど痛かった。寒かった。このまま死ぬんじゃないかって毎日のように思ってた。死にたいと願ったこともある。気を失うたび冷水で叩き起こされて、今度は水練と称して池に突き落とされるんだ。毎日毎日それが繰り返されて、何度も首を吊ろうとした。でも、できなかった。父上がいたからだ。俺にとって父上の存在だけが生きる理由で、唯一の理解者だったんだ。でも…」
氷雨の左耳に目を留める。生々しく残る傷痕は一直線。躊躇いなど無かったことを、嫌という程物語った。
「六花は、母上に生まなければ良かったと言われたことがある? 伯父上に切りつけられたことがある? 要らない子だと、殺されかけたことがある?」
「ない、よ…」
「俺は六花が羨ましい。どれだけ祈っても呪っても、昔の父上は帰ってこなかった。どれだけ願っても悔やんでも助けは来なかった。皆に愛されて、大切にされている六花が、俺には羨ましいよ」
くしゃくしゃな、今にも泣き出しそうな顔で氷雨は笑う。泣いても誰も助けてくれないことを知っているから、氷雨は笑う。それが胸を握りつぶされるような傷みでも、何でもないような顔で笑うのだ。
痛々しい笑顔を見ていると、まるで自分が泣いているような錯覚が生じた。
氷雨の左耳に手を伸ばす。びくりと震えた氷雨は、しかし拒絶することなく六花を受け入れた。
「父上だけが俺に優しくしてくれたんだ。どんなに稽古がつらくても、父上が褒めてくれると思えばどうにか頑張れた。父上に抱きしめられるのが好きだった。父上に頭を撫でられるのが好きだった。居場所のない父上のために、俺は領主になりたかった。父上も応援してくれた。確かに、あの頃は幸せだったんだよ」
氷雨の笑顔が歪む。ポタリと落ちた雫がどちらのものなのか、二人にもわからなかった。
「俺は、そんな顔で泣くんだね」
「泣いてるのは氷雨でしょ」
「………ああ、そうだね」
氷雨の身体を抱きしめれば、ぎこちなく背中に手が回される。他人を抱きしめる力加減などとうに忘れてしまったようで、割れ物に触れるかのような手つきだった。
「六花…あのさ、」
「ごめん。ごめんね、何年もひとりぼっちにして。助けるのが遅くなって、ごめんね」
「え………」
「私が氷雨になるよ。こんなにそっくりなんだから誰も気付かないでしょ? 私の代わりに氷雨が帝都に帰るの。良い考えだと思わない?」
氷雨は弾かれたように六花を突き放し、全身で拒絶した。
「駄目だ!! 六花をこんな所に置いて逃げれるわけない! 義母上は実家と何かを企んでいるし、参謀長は叔父上のことしか考えてないんだ。前領主は未だに雨を神々のせいにしてる。こんな所にいたら殺されるよ!」
「私、簡単には死なないよ? たぶん、前領主をぶちのめすくらいは出来ると思う」
「絶対に駄目だ!! 六花は俺のたった一人の妹なんだ!! 身代わりになんて出来るわけない!!」
「氷雨………」
氷雨はきょとんとする六花を再び搔き抱いた。決して離すまいと、痛いくらいに締め付ける。
「六花、君は俺の希望だったんだ。父上が狂ってしまってから、六花だけが唯一の生きる理由になったんだ。再会する日を夢見て、理解者になれることを夢見て頑張ってきた。それは今も変わらないよ。六花が死んだら今度こそ俺は、何を糧に生きれば良いのかわからなくなってしまう…!」
泣きながら縋り付く氷雨と、背中を撫でる六花を遠目に見て、景佳は気の抜けた声をだした。
「ほァ、あれが兄妹愛ってやつかァ。今まで別々に生きてきたのにああなれるもんかァ?」
「双子って歳の離れた兄妹より縁が強いんだよ。言わば自分の半身みたいな、離れていてもどこかで繋がってるような、不思議な関係なんだ」
「柏様もそうなんすかァ?」
「俺は三つ子だけどね。全員領地から出て帝都にいるのはそういう事なんだと思うよ」
朱李は灰色の髪を靡かせて、帝都の方角を眺める。景佳は思い出したように懐から草臥れた人形を取り出し、大木の根元に埋めた。
「氷雨、私氷雨を助けたい。たった一人の兄と離れ離れになるのはもう懲り懲りだよ。だから、私にも手伝わせて」
「六花、でも君は忌み子だ。俺よりずっと危険な立場にいる。やっぱり伯父上のところにいた方が、」
「逃げるのはもうやめる。立ち向かうと決めたの。手伝う…って言い方は良くないね。私は領主の妹なんだから、二人で協力して西香を守らなきゃ」
「………そうだね、二人で」
強張っていた氷雨の肩から力が抜ける。十数年の間張り続けていた緊張が解れ、氷雨は泣きながら笑った。
景佳が人形の墓に花を添えているうちに双子の話し合いは終わり、六花が馬車の中から手招きした。
「さて、お兄様も無事入信したみたいだし、戻ろうか」
「お嬢が変な宗教の教祖様みたいに聞こえるんすけどォ」
「何言ってんの。あれは神霊の類だよ?」
「冗談ですよねェ?」
「……………さあね」
「え…?」
景佳の間抜けな呟きは、風に乗って空高く飛んでいった。




