第1幕 おとぎ話の始まりと終わり
ここは海に囲まれた島国、伽羅皇国。
国の首都華京には城を囲むように上流層の邸宅が立ち並び、西方の一角には古風な邸宅が一軒。
夜も明けきらぬ中、門柱に酉と掲げられたその家だけは、既に朝を迎えていた。
「ねえねえ、亜嵐様。私を西軍に入れてください!」
朝食の白米を呑み下し、向かいに座る酉家の主人の顔色を伺う少女、六花。この物語の主人公である。
「兵士になりてえなら男に生まれ直してから来な」
六花をひと睨みし申し入れを一蹴したのは、伽羅皇国近衛西軍大将軍、酉亜嵐その人だ。禁軍は伽羅皇国最強とされ、齢三十八にして大将軍となった亜嵐に勝る者は、国中探しても五人といない。
鋭い目付きや整えられた髭、浅黒い肌、大きな体躯を見れば、さぞ気性も荒々しいのだろうと思われがちだが、実はそうでもない。酉家に住みつく猫は人の数より多く、そのほとんどは亜嵐がうっかり拾ってきたものだ。
ついつい猫を拾ってしまう心根の優しい亜嵐は、勢い余って幼女を拾ってきたことがあった。言わずもがな、六花である。母を亡くした六花を拾い育て武術を教えた亜嵐を、六花は尊敬し、そして愛している。
「男の人より強くても駄目ですか?」
亜嵐に縋って上目遣いで頼み込む六花だが、大将軍の地位に着く男はそう甘くない。
「俺ァ己を守る術として武術を教えたんだ。禁軍に入れるためじゃねえ」
「それはそうですが。私だって亜嵐様のお役に立ちたくて…」
「俺に一太刀でも浴びせてから言いな。餓鬼が調子に乗んなよ」
取りつく島もない。口を噤んだ六花はシッシと部屋から放り出され、分厚い扉越しに頬を膨らませた。
どしどしと、十七歳の少女とは思えぬ足取りで向かう先は、裏庭の花畑。己の背丈を越す紫苑の花が、冷たさを含みはじめた風に揺れる。六花は膨らませていた頬をすぼめた。
淡い紫色の花弁。
彼の人の眼と同じ色のそれは、六花にとって特別な花なのだ。
紫季―――
六花が拾われるきっかけとなったその人は、ここ伽羅皇国の皇子であった。
もっとも、十二年前までの話だが。
六花がまだ五歳の幼子だった頃、六花の母は皇妃である柊妃に仕えていた。平凡な後宮女官を装ってはいたが、その正体は柊妃を守る女武芸者だったのだ。
その頃後宮では妃や皇子らによる争いが絶えず、特に出来の良い紫季皇子とその姉である春日公主、二人の母である柊妃は標的にされることもしばしば。
ただ一人後宮内に離宮を与えられた寵妃である柊妃に、異性の護衛が近付くことは許されず、六花の母が起用されたわけだ。
見た目こそ豪奢に着飾ったいかにもな後宮女官であったが、さばさばとした性格の母は柊妃のお気に入りであった。六花共々離宮に住まわせてもらい、柊妃に遊んでもらうこともしばしば。
六花は信頼し合う母と柊妃の関係に憧れ、将来は母のように強くなり妃を守ることを夢見ていた。
秋の風が吹きはじめたある日のこと。母と柊妃を観察するのに飽きた六花は、後架に行くと偽り離宮の外へと繰り出した。
十七歳にもなって見れば、水底まで透き通った湖や一面を薄桃色に染め上げる秋桜畑、紅く染まりかけた紅葉など、目移りしてしまうほど美しいものを取り揃えた庭に圧倒されるのだろうが。
「あ、カエル!」
幼い六花の小さな視界の中では、蓮の葉の上の蛙や道端のネコジャラシがまるで宝石のように目に映ったのだった。
新たな宝石を探すべく庭を駆け回っていた六花の目に、キラッと淡い紫色の宝石が映り込む。
六花は唾を飲みこんだ。とても綺麗な色だと思った。
どんなに美しい花でもくすんで見えてしまうような、光を浴びてきらきらと輝く宝石。
だだっ広い庭にたった一人、銀紫の眼を持つ少年は佇んでいた。
うら悲しげな表情で湖面を見つめる少年。自分より一回りほど年上の彼を、子供ながらに大層美しい人だと思った。
物陰からこっそり少年を見つめていると、少年は緩慢な動作で六花の方を振り向く。
『おいで』
そう言われたような気がして、その少年が誰なのか、もちろんそんなことを気にかけるわけもなく、六花は少年にぽてぽてと駆け寄った。
「きれいないろね」
首を傾げる少年の瞳を指差して、六花はもう一度言う。
漸く何のことか理解したらしい少年は、「ありがとう」と囁きながら六花の髪をやわらかく撫でた。その手つきは、柊妃にどことなく似ていたように思う。
「かみ、さわっていい?」
風に靡くふわふわした少年の髪に手を伸ばすと、彼は返事の代わりに芝生に腰を下ろした。
透き通るような白金の髪にそっと触れる。
ふんわりした髪から、あたたかいお日様の香りがした。自分の髪から青い結い紐を解いた六花は、少し長い少年の髪をひとつに纏め、最近教わった蝶々結びを作る。
「かわいい!」
縦になった蝶々を見て六花が率直な感想を述べると、少年は戸惑ったような顔をしつつ、かわりに解けた六花の髪を整えてくれた。
髪を梳く少年の手つきは優しく、こくりこくりと頭が揺れる。六花が眠気に堪えるように目をこすれば、少年は笑って小さな頭を自分に凭せ掛けた。
「眠っても良いよ」
優しい声に誘われるように目を閉じた。次第に呼吸が深くなる。
しかし眠りに落ちかけていた六花は、遠くから聞こえる聞き慣れた声によって覚醒した。母の声だ。
「これあげる。またね」
六花は衣嚢に入っていた潰れかけの饅頭を割って少年に手渡すと、母の声目掛けて走り出した。
これが、六花と紫季皇子との出会いだ。
それ以来、六花は母に内緒で庭を散歩するようになった。
紫季はいつも同じ木の側で湖を眺め、六花が来れば美しい顔に微笑みを浮かべる。初めこそ懐く六花に戸惑っていたが、六花と会うごとに表情が豊かになっていった。
晴れた日には紫季と手を繋いで散歩をし、雨の日には紫季に絵本を読んでもらう。いつしかそれは六花の日課になっていた。
「シキ、どこへいくの?」
「私の好きな場所だよ」
「シキのすきなばしょ?」
「そう。六花にだけ教えてあげる」
しっかりと手を繋いで森の中を歩く。行き先もわからない六花がちらちらと紫季を見上げると、紫季は安心させるように微笑む。薄暗くて不気味な森も、紫季と一緒なら怖くなかった。
六花の歩幅に合わせてゆっくりゆっくりと足を進め、暫くして丈の高い草が行く手を阻んだ。草と六花を見比べた紫季は、六花の脇に手を入れてひょいと持ち上げた。
紫季は六花を抱いたままガサガサと草を掻き分け、迷い無く進んでいく。六花は小さな手を紫季の首にまわし、紫季の体温に微睡んだ。
「六花、ここだよ」
紫季の声に揺り起こされ、ごしごしと目をこする。ゆっくりと瞼を開けると、そこは銀紫の海だった。
「わぁっ!」
二人の佇む古びた四阿を中心に、淡い紫色の花が辺り一面に広がっている。花畑の上だけ切り取ったように青空が広がり、やわらかい光を浴びた花は生き生きと輝いていた。
「この花は紫苑と言うんだ」
「シキの目とおんなじね」
「私の目と?」
「きっとシキがシオンをすきだから、シオンが色をくれたのね!」
きっとそうに違いない。幼い六花はそう確信した。優しく美しい紫季だから、紫苑が特別に色を与えたのだ、と。
腕の中ではしゃぐ六花を、紫季は目を丸くして見つめる。
権力を得ようと擦り寄る者、妃の地位を得ようと色目を使う者は、こぞって珍しい色の目を褒めた。帝の器だの神々の采配だの、馬鹿馬鹿しい賛辞にうんざりしていた紫季にとって、己の目の色は厄介な障りでしかなかったのに。
「六花は、この目が好き?」
六花はキョトンと首を傾げて、すぐに満面の笑みを浮かべる。そして紫季の方に身を乗り出して、内緒話をするように耳元で囁いた。
「リッカね、シキのこと、いっぱいいっぱいすき!」
紫季は目を丸くし、沈黙した。
何の捻りもない六花の言葉は、他の誰よりも、どんな言葉よりも紫季の心を揺さぶった。殺伐とした世界で自然と身についた仮面は、無垢な少女の純粋な好意によって溶かされてゆく。
「ありがとう、六花。私も六花のことが…」
紫季ははにかむ少女を強く抱きしめて、高い体温を感じる。耳元で囁く紫季の声は、風に揺れる紫苑の花に掻き消された。
四阿に寝そべって空を見上げる。紫季とふたりでどこまでも、銀紫の雲の上を揺蕩う。
花を背にした紫季の姿は儚くて美しくて、どこかに消えてしまいそうで、六花は肌触りの良い紫季の服をぎゅっと握った。
「シキは、ずっとリッカといっしょ?どこにもいかない?」
「………六花、」
困った顔をする紫季を見て、六花は子供ながらにそれが叶わない夢だと知る。答えが聞きたくなくて紫季の首に頭を埋めると、柔らかく髪を撫でられた。
「六花、聞いてほしい」
「いやっ」
「お願い、六花」
「いやなの!」
紫季を困らせたくはないけれど、六花は別れが近づいているのを感じて駄々をこねる。少しでも別れが遠くなるように。少しでも一緒にいられるように。
「ずっといっしょにいるの!」
堪らなくなった六花の目から大粒の涙がこぼれる。好き、というのがどんな感情なのかを理解するには幼なすぎたが、母親に対するものと少し違うことはわかっていた。
「私は近いうちにここからいなくなるだろう」
紫季の言う『ここ』が、六花の隣なのか後宮なのか、国なのか、はたまた世界なのか。六花にはわからない。
「でも、これだけは約束する。離れていても、六花のことをずっと想っているよ。…いつか必ず、君を迎えに来る」
こぼれそうなほど目を見開いて、六花は紫季を見上げる。ザアッと風で紫苑が揺れ、紫季の瞳が揺れた。
「リッカも、シキのことわすれないよ。シキのことずっとずっとまってる!」
いずれ少女は大人になり、この日の幼い口約束を忘れてしまうだろうと紫季は思った。でも、それでも構わなかった。たとえ記憶の中だけでも、六花の存在が紫季の心を支えてくれる。
「約束だよ、六花」
紫苑の花だけが知る、六花と紫季の小さな約束。この時の六花はまだ、明日も明後日もその次の日も、幸せな日々が続くのだと信じていた。