兄妹の結託
市内の膨大なネットワークから、己人のパソコンのサーバーを突き止め、侵入した。ブックマークから、己人が愛用していると思しきネットショッピングのサイトに飛び、口が裂けても言えない方法でパスワードを得て、ログインし、メールアドレスと携帯番号を入手したという訳だ。ごめん、と謝ったが、被害を受けた本人はけろっとしている。「空き巣が何も取らずに、部屋の物の位置を覚えて帰った、ってだけだろ」
トイレの廊下の奥には相変わらず、泡を吹いて倒れている古賀がいる。鳩尾を容赦なく蹴り飛ばしたというから、当たり前の状態だ。
「お前の才能、ずっと誇りに思ってたよ。天才ハッカー」指を指された美南は、決まり悪そうに肩を窄める。「でも、まだまだだな」
「え」
「不正アクセスといっても、奥の奥の奥の情報までは抜き取れまい。ま、俺も日々、他人の純情と他人の起こす事件に山ほどアクセスして、搔き回してるもんさ」
聞きたいことも山ほどある。今回は長丁場だったなあ、と呟く彼に、一体何が長丁場だったのか詳しく問い詰めたい。
だが、これだけはわかる。己人は、妹をストーカーから守ると同時に、復讐心を年々膨らませ神経質になっていく美南の心を、弛緩させたかったのかもしれない。野望に雁字搦めにされていた美南は、毎日を孤独に生き、兄が堕落したのを知るとすぐに突き放した。自分の野望を鼻で笑われるような気がして。自分の生き方を、下らないと思われるような気がして。
「怖かった、だけなの。ごめん」目を伏せる。でも、と呟いて目を開ける。「正直に教えてくれてもよかったじゃない」
「物語が序盤のうちに、トリックを明かしたって面白くねえだろ」両手を軽く上げて、己人はすました顔になる。いつか電車の中から、叫ぶ彼を無視した際の自分の顔を真似されている気がしたが、抑える。これで、チャラ。おあいこだ。
「俺はずっと、暗躍ムードメーカーをやめてはいないんだぜ」
「ねえ、それ仕事な訳?」
「仕事だから学校にいる」
「犯罪色のする類でしょ、なのに」
「学校は許した。国は落ちぶれてるよな」
「何だか信じられないよ」
「きっとお前にも合う仕事だぜ」
俗に言う、表向きの一般社会と一線引いた職業を、公立高校が黙認して調査のために己人をうろつかせているのが本当なら――予想以上に、世の中はおかしな事態になっている。貴方は見えない世界を回しているのか。知らない間にどう動いていたのか。何処まで、復讐の材料は集まっているのか。えも言われぬ精神の昂ぶりが、せぐり上がってくる。顔が紅潮してくる。己人が、にやりと笑いかける。
「どうだ? ちょっと楽しそうだろ? 大体お前も、元来はこっち気質だもんな」
あの日、全身に浴びた血の臭さが蘇る。自分の血ではないのに、自分の全身がズタズタにされたような痛みに串刺しにされ、泣き叫ぶのは美南であった。当時の国の首相の息子が、それを冷徹な眼差しで見下ろしていた。隣にいた己人は、ほとんど無音で、涙と吐瀉物を垂れ流しにしていた。あの日よりずっと前から、国は狂っていたのだ。犯人は鉄格子の中に放り込まれることはなく――今、国会で、与党の期待の若手政治家として日々熱弁を奮っている。特に年配の女性に人気だ。
だけど兄妹は知っている。目の前で親を殺されたのだから。彼は今、未来の総理大臣を目指して着実に出世の階段を駆け上がっている。前代未聞のハイスピードだ。頂点に君臨する前に、尻尾を掴まなければならない。
「――私情を挟みますが、私は勝負事が大好きでして、未来の国を変えるであろう若者たちが、近い将来に私に勝負を挑みにくるのを待っています。勿論、そのときの私は、国を支える重要な立場にまで上り詰めているでしょう。慢心と言われても仕方ないでしょうか。しかし私は、その野望のためにこの世界に飛び込んだのです。私は、国を変えたい。私の理想とする世界に反発したければ、理性を吹っ飛ばしてでも勝ちをもぎ取りに来て下さい。本気で、だ! 勝利に狂え! その努力が、君たちを成長させる!」
犯人の口車にまんまと乗せられた兄妹が最後に得るのは、勝利のトリガーを引く熱さか。敗北の手錠の冷たさか。
女好きのヒモ男を扮した兄の正体は、喜劇と情報収集を愛し、報道と殺人を恨む、執念深い男であった。何一つ、昔から変わっていない。暗躍の末の暗殺を企むのも、容易に想像出来る。天性のハッキングの才能を持つ妹は、きっと兄が一番に欲しい戦力なのだろう。自分以上の闇のモンスターを前にして、彼女は震え上がり、後ずさりしかける。けれど、退かない。退いてたまるものか。
一人ぼっちの寂しさは、よく知っている。
「俺たちは影に身を潜め、忍び足でターゲットに近づき、誰かのムード、場のムードを変えるために動く。その場のノリだけで引っ掻き回すのとは訳が違うんだ。緻密な計算と推理力、情報収集能力、観察眼が求められ、そうして積み木を重ねていく。最後に積み木のタワーが完成し、仕事が終わった途端に一気に叩き壊すときの爽快感! どうせ仇を討つなら、美南、楽しくやろうぜ。じゃないと窮屈だし、偏屈になるだけだ。そうだろ? まずは周囲のムードを変えて、どんどん俺たちのムードを広げて、篭絡し、クソ殺人鬼に近づく。どうする?」
ボロボロのジャケットを示し、己人は言う。「俺と青春するか?」
貴重な青春を棒に振ってしまうぞ、とは言わなかった。
「乗った」
気がついたら、口が動いて、声を発していた。汗まみれのうなじに髪が張り付き、鎖骨にまでぺったりつく。その鎖骨に力を込めると、フライドチキンみたいな骨がさらに浮き彫りになる。ふ、と口から洩れた怪しい吐息は、細い煙となって、女子トイレの天井に響く。
四人の両親が決して望まないであろう血みどろの人生になろうとも、止められはしない。激情を燻らせて足踏みしている間にも、また、新たな殺人の被害者が出るかもしれないのだ。何としても阻止してやる。一刻も早く、一国をひっくり返してやる。時間がかかっても、世界中のすべてを敵に回しても。
「兄さん、女の子と遊んでる暇、なくなっちゃうんじゃない?」
「今度はお前と遊ぶから、寂しくないさ」
この身体が動かなくなっても、燃える心だけは。
「真実をぶち晒して国をどん底に陥れるとき、初めて俺たちは表舞台に立つ。それまでずっと、一般人に紛れた影の住民さ。けど、忘れるな。最後に勝つのは俺たちだ」
幼い兄妹はささめき合う。既に狂喜のムードは出来上がっている。復讐者の尻尾が、とぐろを巻いて唸っている。
「兄さん」
「何」
「人生、楽しい?」
「最高だね! でも、まだこれからだ!」
続きがあるような終わり方ですが、これでこの話は完結です。
この過激でちょっと不思議な兄妹が、今後国を混乱に陥れるのか、それとも計画は失敗に終わるのか、行く末は謎です。
ここまで読んで下さった方、ありがとうございました。